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1000字提言

「健康な社会」とは何か

市野川容孝

 つい先日、職場で健康診断があって、「軽度の高脂血症を認めます」という所見を頂戴した。総コレステロールの数値が、正常値「150~219」のところ、「222」だったからだ。私たちが通常、抱いている「健康」のイメージは、境界をもったある域内(たとえば正常値)に行儀よく収まっていること、あるいは1日3回の食事、8時間の睡眠という規則正しい生活を送っていることだろう。その逆に、「病気」とは、境界からはみ出ること、不規則な生活としてイメージされる。
 しかし、科学哲学のG・カンギレムは、健康や病気に関する私たちのこうした常識を根本から揺さぶる。カンギレム曰く「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(『正常と病理』法政大学出版会)。たとえば、終電を逃したら歩いて帰ったり、忙しければ食事も1回や2回、抜いても平気というような逸脱ができること、それが健康なのである。その逆に、病気というのは、「規範が有効な条件からずれるとき、別の規範に自らを変えることができず、どんなずれにも耐えられない」ような状態であるとカンギレムは言う。「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(同書)。つまり、規則正しい生活しか送れないこと、それが病気だと言うのである。
 カンギレムは生命個体(個人)について、こういうことを言っているのだが、彼の指摘を敷衍(ふえん)して「健康な社会」、「病んだ社会」というものを考えたら、どうなるだろうか。
 「健康であることは君の義務である! この言葉が君のすべての行為を支配しなければならない」――昨年7月に日本で可決された健康増進法にも似た条文があったが、これは1939年、ヒトラー・ユーゲントに与えられた「十戒」の最後の文言である。だが、この同じ年に障害や治癒不能とされた病気をもつ人びとの大量虐殺が開始されている。ナチス・ドイツは、徹底的に「健康」を追求した社会だが、しかし、それは徹底的に(カンギレムの言う意味で)病んだ社会でもあった。なぜなら、それは「健康」な人間しか受け入れることのできない、どんなずれにも耐えることのできない社会だったからだ。本当の意味で健康な社会とは、むしろ「健康」そのものを相対化し、さまざまな人間をしっかり受けとめられる社会ではないだろうか。

(いちのかわやすたか 東京大学教員)