音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

フォーラム2003

福祉施設におけるリスクマネジメント

平田厚

1 福祉施設におけるリスクマネジメントの意義

 福祉施設におけるリスクマネジメントは、全国のさまざまな福祉施設において取り組まれつつあります。リスクマネジメントという用語は、ごく一般的には、「保険や安全対策、さらには経営戦略などを活用して事業の偶発的あるいは人為的な損失(リスク)を発生しないようにし、もしリスクが発生した場合には、それを最小化し、さらに実現したリスクに適切に対処する経営管理の方法」を指しています。
 福祉施設における最大のリスクは、利用者やその家族ひいては地域における信頼を失ってしまうことです。福祉施設にはそれだけ高い公共性が課せられています。家庭で安全に暮らす環境を保障しえないからこそ福祉施設が必要なのですから、虐待事件が起きたり、介護事故が頻繁に起きたりしてしまうことは、利用者や家族・地域に対する信頼を裏切ることになります。したがって、虐待事件などを起こさないことはもちろんですが、介護事故に対するリスクマネジメントを行っていることが信頼を勝ち得ていくうえで非常に重要な意味を持っているのです。

2 介護事故を予防するための視点

 そうすると、介護事故をできる限り予防するための取り組みが必要になってきます。しかし、ここで注意しなければならないことは、介護事故を予防するための手段には、二つの異なる方向性を持ったアプローチが存在しているということです。

(1)法的責任回避のアプローチ

 まず第一のアプローチは、介護事故に関する法的責任を回避することに重点を置いた考え方です。介護事故の発生は、安全配慮義務違反による損害賠償という法的責任を生じさせますから、福祉施設経営者は、事業体としての存続を目的として、法的責任を回避・軽減するための措置をできる限り講じておかなければなりません。このこと自体は、否定すべきではないでしょう。
 法的責任を回避・軽減するためには、どのような組織体制・人員体制によって事故を予防するか、内部での取り組みにはどのような工夫ができるか、事故が生じた場合には保険や法務をどう活用できるかなど、事前に準備しておかなければならないことはたくさんあります。しかし、この視点の危ういところは、後述するとおり容易に手段と目的とが逆転して、利用者に対するしわ寄せが生じかねないところにあります。

(2)利用者の尊厳重視のアプローチ

 次の第二のアプローチは、利用者の尊厳を重視した考え方です。福祉サービスの利用者やその家族にとっては、福祉サービスを受けなければ本人の尊厳を保障することができないからこそ、福祉サービスを利用するのです。そうすると、介護事故の危険にさらされることなく、安心できる安全な状況が保障されることは、福祉サービスに対する最低限の要請となるはずです。
 そのためには、介護の現場において、利用者の特性を把握した個人の尊厳を保障するケアのあり方とはどのようなものか、利用者が危険にさらされることのないように配慮していくためのスキルはどのようなものか、利用者とのコミュニケーションに基づいて利用者の意向をいかにくみ取っていけるかなどが重要になってくるでしょう。

(3)手段と目的の区別

 利用者の尊厳重視というアプローチと法的責任回避というアプローチは、利用者に対する安全性の確保・介護事故の予防という目的においては共通していますが、それぞれに対応する手段は異なってくる可能性があります。つまり、この二つのアプローチは重なり合う部分を有しているものの、重なり合わない部分もそれぞれ持っているということです。
 たとえば、法的責任回避ばかりを意識して転倒事故を避けようとするならば、利用者の身体を拘束しようとする危険性が高まります。利用者の行動の自由が確保されていればいるほど、転倒の可能性が増えるからです。また、食事中の誤嚥事故を避けようとするならば、きちんとした食事介助を止めて他の栄養補給にしてしまう危険性があります。さらに、利用者の行方不明事故を避けようとするならば、出ていかれないように利用者を閉じこめてしまう危険性があります。
 つまり、法的責任回避ばかりを意識すると、逆に利用者の尊厳をないがしろにしてしまうことになりかねません。しかし、そのような事態が発覚すれば、家族や地域に対する信頼は失われるでしょうから、たとえ介護事故はなくなったとしても、金銭的なリスクを超える大きなリスクを負うことに注意すべきです。したがって、法的責任回避ばかりを重視していると、全体的なリスクマネジメントの取り組みとしては大失敗という結果にもなりかねないのです。
 そうだとすると、福祉施設のリスクマネジメントにおいては、利用者の尊厳を重視することを大前提にしながら、事業者の法的責任回避をも意識した取り組みを行っていくことが大事なのではないでしょうか。あくまでも利用者の尊厳を確保するということが目的なのであって、介護事故をなくすことはその手段にすぎないのです。介護事故をなくすこと自体を最終的な目的にしてはいけないのだということです。

3 福祉施設におけるリスクマネジメントの方法

 介護事故に対するリスクマネジメントの方法としては、「ヒヤリハット報告」などの積極的な取り組みによって、個別施設の「システムの欠陥」としてのリスク状態を具体的に把握できるようになってきています。「ヒヤリハット報告」とは、事故に至る前の「ヒヤリ」としたり、「ハット」したりした経験に基づいて、事故に至りやすい状況を的確に把握し、事前に事故予防対策を考えていくための道具です。
 福祉施設現場における「ヒヤリハット報告」の実情報告によれば、「これまで見えていなかった問題点が見えてきた」とか、「時期や頻度をグラフにしてみることで、施設内の状況を明確に把握できるようになった」などの効果が示されています。このことは、「介護者個人の不注意によって事故が起きていたのだ」という誤解を払拭し、「福祉施設の構造上または体制上の問題点によって事故が起きる危険があるのだ」、つまり、介護事故が起きるときには、「システムの欠陥」が存在するのだということを意識化し、個人責任ではなく組織責任を明確にした点で重要です。
 またそのことによって、現場職員のモチベーションを高め、介護事故に対するリスクマネジメントに限られない効果をもたらしていると評価することもできます。現場の職員はだれだって、介護事故を避けるために利用者を縛り付けるような介護などを行いたいわけがないでしょう。現場には現場のプライドがあるはずです。介護は、利用者を「単に生かしておく」ためにあるのではなく、利用者が「よりよく生きられる」ために行われるはずです。したがって、利用者の尊厳に即したリスクマネジメントの取り組みこそが、介護現場の専門性や質の向上に直結することも疑えないでしょう。
 さらに、苦情や介護事故が生じた後の対策も、さまざまな形のマニュアルが作成され、より的確に利用者や家族に対応しようとの取り組みがなされています。この点については、今まで「謝罪しなければならないかどうか」という、法律家からみると些末(さまつ)なことにとらわれすぎて本質を見失いがちにあった段階から脱却しつつあるように思われます。問題の本質は、「利用者や家族の気持ちにどのように応えるか」なのであって、事故があった場合の利用者や家族の気持ちは、「なぜこういうことになったのか」にあるのですから、事実説明をいかに行うかが最も重要になります。謝罪するかどうかは、社会常識的に考えて謝罪すべきかどうか、つまり、自己に過失があるかどうか、過失はなくても道義的に謝罪すべきかどうか、によって決まってくるだけだと考えるべきです。

4 福祉施設におけるリスクマネジメントの課題

 以上のような取り組みの成果は上がってきているのですが、リスク分析を行う方法論や道具が不足しているなど、まだまだ試行錯誤を繰り返している状態にあることは否定しえません。「ヒヤリハット報告」や「利用者からの声」(「苦情」という言い方は誤解を与えているようなので、筆者は端的に「利用者からの声」と言い換えています)などによって、リスク情報自体は豊富に捉えることができるようにはなりましたが、それらの情報を整理して的確に分析するだけの道具は、まだ不十分にしか得られていないという課題があります。
 また、介護保険制度の見直しや支援費制度の開始などによって、人員配置や財務について、どんどん無理を強いられるような政治が進行しつつあります。つまり、施設の現場では、利用者の尊厳を守るためにさまざまな業務をこなしていかなければならないにもかかわらず、全体的な状況はそれにまっこうから逆行するような事態が進展しているということです。したがって、さまざまな業務につき、少ない人員で兼務によるやりくりを行わざるをえないという難しさが存在していることも、懸念される材料の一つです。現場には現場のプライドがあるとはいっても、それでバーン・アウトしてしまうような実務を強いることは、それ自体が大きなリスクを抱えることになってしまいます。
 要するに、福祉施設におけるリスクマネジメントの取り組みの重要さが認識されてきたのと並行して、その取り組みを行っていくことの困難さが浮き彫りにされる状況が明らかになってきました。したがって、福祉施設は、今後も福祉施設経営全般にわたる問題点を的確に捉え、問題点と限界とを視野に入れて現実的に対応しうる体制づくりを心がける必要があります。利用者やその家族、ひいては地域における信頼形成という目標に対しては、それ以外の王道はないでしょうから。

(ひらたあつし 弁護士)