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文学に見る障害者像

加古千賀著
『壺坂霊験記』

萩原正枝

 お正月だから何か明るいものを、という編集部からの注文で、「壺坂霊験記」を選んでみた。現代文学には障害者を扱っておめでたい話など、なかなか見当たらないと思うなかで思いついたのがこれだった。
 「三つ違いの兄さんと、いうて暮らしているうちに、情けなやこなさんは、生まれもつかぬほうそうで、眼かいの見えぬその上に、貧困にせまれどなんのその、一旦殿御の沢市さん…」という一節は、ひと世代前の人たちならだれでも知っている浄瑠璃のクドキだった。しかし、現代の私の世代になると、ほとんど知られていない。
 歌舞伎の脚本から、あらすじを紹介してみよう。幕開けは、壺阪寺への参詣人たちが、美人で気立てのよい女房のお里と、その盲目の夫沢市の噂話をして、目が見えるようになったらどんなに喜ぶだろうと話して立ち去る。
 沢市とお里の家の場面となる。沢市は、お里が毎晩寝床を抜け出すのを不審に思って悩んでいるが、思い切って聞くことができないでいる。盲目のうえにほうそうで顔形も醜く貧乏な自分を、賃仕事までして養ってくれているお里に対して、ほかに男がいるのではないかと疑ってはいても、問いつめて、もしそうだと言われたら耐えられないと思い、うつうつとしている。沢市が三味線を出して歌うと、お里は「今日はよいきげんじゃの」と、何気なく声をかける。この一言が、じっと抑えていた沢市の心を爆発させることになった。
 「どうせ自分はお前の気には入らないだろうけれど、他に思う男があればさっぱりと打ちあけてくれ。人のうわさで、お里は美しいと聞くたびに、自分はあきらめているから、決して悋気(りんき)はしないから」と、沢市はとうとう悲鳴にも似た思いを打ちあける。
 お里は驚いて、私のことをほかに男を持つような、そんな女と思うのか。父母に別れてから伯父さんの家に世話になり、一緒に育てられた沢市のことを三つ違いの兄さんと思いながら暮らしてきた。いったん夫婦となったからにはどこまでも添いとげようと、夫の目が開くようにと、雨の夜も霜の夜も、裸足で観音様にお参りして3年、いまもご利益がないのはどうしたことかと恨んでいたという。
 これを聞いて沢市は涙にくれ、お里に詫びる。お里は疑いが晴れて喜び、これで死んでも本望だとまで言う。
 しかし沢市は、これほどまでにお里が信心して願をかけてくれても、何のかいもないのは、自分の心根のためだと悲観してしまう。お里はそんな沢市を励まし、沢市もお里の一心に観音様にすがる心に打たれて、このうえはせめて後生を願おうと思う。二人は観音様にお参りしようと花道を去る。
 舞台は観音様の御堂となり、二人して御詠歌をあげている。沢市は、自分は3日の間ここで断食をするから、お里に家へ帰って用事をかたづけてくるようにと言う。お里は沢市も観音様を信じる心になったと喜び、御堂の左側は深い谷になっているから、決してここを動かぬようにと言って去る。
 沢市は一人になると、こらえきれずに泣き伏す。お里の3年もの信心をうれしく思うが、苦労ばかりかけて、何のご利益もないのに絶望し、自分がいないほうがお里のためだと、谷へ身を投げる。
 お里は胸騒ぎを感じて引き返すが、沢市はどこにもいない。谷を見ると、月明かりに夫が倒れているのが見える。なんということ。お里は沢市が死ぬ覚悟であったとは思わず、御堂に連れてきたのを悔やむ。そして盲目の沢市が、あの世で迷うのを助けようと後を追い、谷に身を投げる。
 すると観音様が現れ、お里の貞節と信心を讃えて、二人を生き返らせ、沢市の目も開く。二人は大喜びで観音様にお礼を言う。
 こういう霊験記ものとしては、同じく夫婦愛を描いた「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」がある。いざりとなった勝五郎は、妻初花(はつはな)の引く躄車(いざりぐるま)に乗って苦難するが、箱根権現(はこねごんげん)の霊験によって、足腰も立ち、仇討を果たす。
 浄瑠璃の「壺坂霊験記」は、盲目の三味線の名人、二世豊沢団平と妻の加古千賀が作曲・脚色し、明治12年に初演され、その後歌舞伎に取り入れられた。
 美しい夫婦愛。貞淑な妻の心と、献身的な妻の愛がわかればわかるほど、盲目であることの悲哀を感じずにはいられない夫の心が、情緒豊かに描かれている。
 悪人は一人も出てこない、とてもシンプルな物語だ。ただし、悪人を一人登場させる脚本もあるらしい。沢市と一人二役で演じられたようだ。ハッピーエンドなので、全体に美しく明るい印象がある。愛によって幸せになるという筋書きや、沢市の目が開いてからの二人の喜び踊る姿など、とてもわかりやすく、海外公演でも好評だったというのもうなずける。
 これが描かれた背景には、壺阪寺と盲人との歴史的な関係があり、そこには現代になってさらに深い関係が生まれてきた。物語の印象は「いいお話」という感想を持っただけだったが、壺阪寺の境内に、盲人のための老人ホームがあると聞いて驚いた。今まで単なる物語だと思っていたのが、急に現実と結びついたのだ。しかも日本で最初の盲人のための老人ホームだという。さっそく奈良県高市郡にある壺阪寺の慈母園に連絡してみると、施設長さんから大変親切に説明していただくことができた。昭和36年に先代のご住職によって作られ、現在50人ほどの入所者があり、沖縄から東北までの全国から集まっているという。先代のご住職は、NHKの「心の健康」というラジオ番組に出演するなど、幅広く活躍された方のようだ。盲老人ホームが作られた昭和36年当時は、老人福祉法もまだ施行されておらず、戦後の混乱がようやく収まった頃のこと、老人福祉・障害者福祉を国の政策として考える余裕もない時代だった。壺阪寺は山間の地にあるにもかかわらず、観音様の霊験を求めて目の不自由な人々のお参りが絶えず、壺阪の地で最後を迎えたいという懇願が、毎日のように寄せられた。人が死んだ時と、ご先祖様のおまつりだけで終わっていることが多い仏教、というイメージの中で、生きた仏教で社会に働きかけた人がいたということを忘れてはならないだろう。盲老人たちの切なる思いに動かされた先代のご住職は、たった一人で厚生省に乗り込み、2日間厚生省の係員の前で座り込み、2日目には手を合わせたまま身じろぎもせずに盲老人ホーム建設の必要性を説き続け、ついに厚生省を動かした。この時、厚生省で受けとめたのが、係長であった若き日の板山賢治氏であった。初めてのケースなので、昭和35年10月からモデル事業という形式で、お寺の座敷を使い、6人の入所者からの出発となった。現在からは想像もできないような事実だ。壺阪寺と盲人との長い歴史があったからこそ、実現できたことなのだろう。
 壺阪寺は、正しくは南法華寺といい、703年、弁基上人の開創と伝えられている。西国三十三所観音霊場の第六番札所で、ご本尊十一面千手観音菩薩は、眼病に霊験あらたかな仏として古来広く信仰され、元正・一条・桓武天皇などの眼病平癒祈願も伝えられている。また平成14年は、天皇・皇后両陛下をお迎えした、記念すべき年だったとのこと。
 来年は開基1300年に当たるということで、歴史の貴重さ、不思議さを感じさせられる。現在は盲老人ホームのほか、特別養護老人ホームや知的障害者更生施設、インドでの教育助成やハンセン病救済事業など、さまざまな活動を行っている。
 壺阪寺の観音様は、確かに、すばらしく温かな手を持っておられるようだ。さらに付け加えるならば、「アジア太平洋障害者の十年」が、より充実をめざして、さらに10年の延長が決まった今年、インドから渡来した仏教を媒体として、日本からインドへ活動の手を伸ばした人々がいたということも、今年の年頭を飾るにふさわしい話ではないだろうか。

(はぎわらまさえ フリーライター)

【参考文献】

  • 「名作歌舞伎全集第7巻」壺坂霊験記、昭和44年3月10日、東京創元新社
  • 「つぼさか壺心会会報」2000年6/20、NO39、2002年7/25、NO47