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文学にみる障害者像

杉本苑子著
『埋み火』(上・下)

―近松門左衛門の生涯―

花田春兆

 ―近松門左衛門の生涯―とサブタイトルしたこの作品を、文学にみる障害者像に登場させるのは、表面的には取り上げること自体、無理押しではないか、との疑問や反問が湧きかねないだろう。
 確かに、障害児には違いなくとも、主人公でもなければ、明暗を彩る主要な脇役ほど活躍もしていない。平馬(近松は筆名で、実名は杉森平馬、小説はすべて平馬で展開する)の作品である浄瑠璃に直接投影しているとも思えない。
 大団円の幕下ろしを印象的にする大役は演じているが、登場回数も決して多いほうではない。
 言葉、つまりせりふに至っては、「お月たま、雲食べて、ふとる。雲吐いて、また、痩てる」
 が話題になったのが、唯一のものと言えるくらいだろうか。
 月の満ち欠けを、雲との関連で視覚的に、詩的に捉えたと言えば言えるけれど、サ行音をタ行で発音してしまっていることからも、幼児語・幼児性を脱しきれないでいることで、すでに少年期を越え青年期にも達しているはずの言葉の主である吉之助(平馬の四男)が、知的障害を負っていたことは明らかに示されている。
 この軽度(?)の知的障害で、家庭内で育てられているだけの、さして重要な役割も担っていず、これといった動きも見せてはいない子。その彼、吉之助の誕生とその存在こそが、平馬をして大近松たらしめた最大要因だったのだ。と、杉本苑子はその著『埋み火』で、静かに強調してやまない。
 文庫本上下2冊。600ページを超す大作は、それを検証するために書かれた、と言ってよい。

 吉之助は、平馬が40代半ばになってからの、しかも家庭の外に産ませた子だった(だから、まだ公卿侍だった青年期からの近松の全生涯を追うこの大作では、下巻も数章目からの“お目見え”ということになる)。
 母親のお崎は、百姓だった父母を失って桂あたりの田舎から、島原の大門前で甘酒茶屋をしている叔父の家に身を寄せて、店を手伝っていたまだ土の香りのする娘。
 廓の女たちとは違った素朴さに魅かれた平馬は、用意してくれた店の奥の一部屋でよしみを重ね、身ごもらせたと知ってはやむなく、同じ京のろくろ町に家を借りて、ひそかに囲っておくことになってしまった。古馴染(ふるなじみ)の歌舞伎俳優・坂田藤十郎の一座で、親しくなった金子吉右衛門に、相談から一切を頼み込んで万事手配してもらっていたらしく、無事に生まれた男の子に、“吉”の一字を名乗らせたのも、その恩義を忘れないという証でもあっただろう。
 その吉右衛門から吉之助の病変を知らせる書状が届いたのは、盟友・義太夫の竹本座の一大事のために下って来ていた、大阪の宿であった。
 風邪くらいに思った高熱が続いて下がらず、一時は本当に案じられたが、ようやく下がり始めた。とはあるが、それ以上に気になることが書き添えてあった。
 表情が戻ってきていないという症状だ。笑顔も、発し始めた片言も消えてしまったままらしい。
 飛んで帰った平馬が、本宅へも寄らずろくろ町の家で見たものは、壊れた木偶さながらに、首も全くだらりと垂れたままに定まらず、表情を失っている息子だった。
 一生をこのままで過ごすのか、恐ろしい予感が身をすくませる。
 遊び心のたわむれから、一人の人間が一生、背負いきれぬほどの運命の重みを背負わせた子を、世に送り出してしまったのだ…、と自らが責められるのだ。
 平馬の動揺と落胆の激しさは、1か月あまりも本宅に戻らず、壊れた木偶と化した病児と、取り乱しがちな母親お崎との、いわば地獄の世界から動けずにいたことからも察しられよう。
 生後から幼児期にかけての高熱、座らぬ首、動かぬ手足。これだけの条件がそろっているのだから、この小説の存在を教えてくれた人が、近松に脳性マヒの息子がいた、と診断したのも極めて自然だろう。
 四肢よりも知能面に病魔の爪痕は残るのだが、当初覚悟したであろうよりははるかに好転・回復している、と第三者には思えるのが救いと言えば救いだろう。
 だが、それにはそれ相応の年月の積み重ねが必要だったのだ。
 首が座らない。私が脳性マヒに結びついたそもそもも、実はこれだったのだ。
 表情はあったと思うし、別に後ろめたい誕生ではないのだが、それでも平馬とお崎の修羅の会話を読んでいると、つい、生涯不治の宣告を受けたときの、両親の心の重さが改めて思われて、こちらの心まで重く沈んできてしまう。
 それほど迫真力を秘めた筆致と、心の深みまで届く眼差しを感じさせる著者なのだ。

 予想もしない凶事が、再び平馬を襲う。お崎の死、それもろくろ町の家での首吊り自殺だった。
 “吉凶はあざなえる縄の如し”を地で行くように、良い事ばかりも悪い事ばかりも続きはしない。必ず相互に訪れてくる。
 大阪で起きた廓の妓と商家の者の心中事件に取材した『曾根崎心中』が、大阪・京で大評判の大成功。それを機に、公卿勤めの頃世話にもなり、浄瑠璃作者への転機をつくってもくれた、朝廷の重臣となっている方との再会も果たし、懐旧の情に酔った矢先だった。
 「いくじなしめ、疲れたなどとは言わせないぞ、たった半年で逃げ出すなんて、卑怯者 卑怯者ッ」
 平馬はののしり、かきくどき、嗚咽した。
 吉之助の症状を知って心を和らげた本妻のお琴の、母子ともに引き取ってもよいとの申し入れも、妻妾が一つ屋根の下に住むのはお互いに地獄を招くからと辞退し、一人でも立派に育ててみせると誓い、柱暦の糊貼りの内職にも精を出し始めていたお崎だったのに…。
 「私ァなにも言っていないよ」
 集まって来る近所の人々の言葉が、かえって吉之助母子に加えられた言葉のトゲの辛辣さを物語っているのだった。
 お崎は死に際しての言葉も文字も、遺(のこ)してはいない。言い残したとすれば、聞いていたのは吉之助だけ。引き出す術もない。著者もあえて触れていない。
 吉之助はお琴に引き取られて父の家で、少年期から元服を迎えようとしている3人の兄たちと一緒に暮らすことになる。
 そして、お崎を焼いた鳥辺野の闇の中で平馬は、京への決別を決意する。大阪への移住である。現在の世情を映す世話物を書くにはやはり、商人の町大阪の熱気の中に身を置くことだと気付いてはいたが、馴染(なじ)んだ京を捨て切れなかったのを、吉之助からお崎を消すためにも…、との思いに背中を押されたのだ。何も言わない吉之助が、父を新天地に導いたのだ。

 平馬の弟が医学に詳しかったことも幸いして、吉之助は順調に育っていく。父を悩ませた怪鳥のような奇声も発しなくなった。
 ほぼ、家の中の生活に限られてはいたが、母となったお琴は、今日現在から見ても申し分ない障害児教育を、無事にやってのけたことになる。
 後に義太夫を次ぐ政太夫となる政吉の、親身で適切なサポートも大きかったけれど、ともかく落としたものは自分で拾い、転んだら自分で起きる子ども、だれからも笑顔を向けられる子どもになり、3人の兄たちとの仲も良く、極めて協力的な雰囲気が自然に醸されている。父としての気掛かりもそこにあったのは確かだろうが、年齢が離れていたのが幸いしているにしても、やはり、母親であるお琴の人柄と仕向け方一つに、大きく左右されるものであることは疑えない。お崎への対処の仕方もそうだが、著者はお琴に、女性の一つの理想像を託しているとさえ思われる。
 数多い俳諧の女弟子の中でも、才色ともに抜きんでた娘と師の井原西鶴が認めていた、との設定を用意しているほどだが、次男の鯉助には甘さを見せてしまうなど、決して親しみ難い存在ではない。一方、平馬は平馬で父親として最大の責を果たすべく、一世一代の交渉の場に臨むことになる。
 竹本座からの座付作者になってほしいとの申し入れに、専属料として生涯毎年50両ずつ支払う、とあるのに対して、自分が受け取るのは25両でよいが、残りの25両は自分が受けた年数だけ毎年、息子吉之助に渡してほしい、と明言して承認を得る。
 つまり、個人的遺族年金の保障だが、その発想はもとより、普通なら隠しておきたいそうした子の存在を、あからさまに公表した決断にも賛意を表したくなる。
 単なる想像だけで、ここまで書き込めるとは思えない。著者は確たる何かをつかんでいるに違いない。

 文庫本の巻末の“自作を語る”で著者はそれを、『反古篭』という俗書にチラッと出てくる話、給金は増やさなくてよいから、私の死後、白痴のせがれに渡してくれ、との、近松の“あの子”が著者の中で次第に、“無言”の自己主張し始め、歴史学ではまだ認知されていない“事実”を越えて、“真実”としての存在が信じられるのだ、と明かしている。
 『曾根崎心中』に始まり、『冥土の飛脚』『心中天網島』『女殺油地獄』と続き、晩年の『心中宵庚申』に至る諸作。不朽の名作とされるこれらはそれぞれ、魂の奥底の木枯らしの音を感じさせる。それは自らが地獄を体験し、地獄を背負い続けた者にこそ奏で得たものであり、近松にとっての地獄に当たるものが、障害者のままに一生を過ごさなければならない息子の存在であったのだ、と言い切ってもいる。
 死出の旅路に踏み出す二人を描きながら、「どうしてそんなに死に急ぐのだ、ここにこうして生きることも死ぬことも自分ではできない不幸な子がいるのだ」と語りかけていたに違いない、とも思いやっている著者なのだ。
 障害児の存在を深く意味付け、近松を単なる事件物の作者から、時代を超えた大作家に昇華させる鍵にしている点で、深く読み応えのある作品として、絶対に推奨できる逸品であることに間違いはない。ただ、障害者の息子本人があまりにも無言であることに不満を持たれる方には、同じ著者による『滝沢馬琴』が用意されている。

(はなだしゅんちょう 俳人・本誌編集委員)