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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年1月号

1000字提言

思いを伝えきれぬつらさ

会田孝行

「懐かしいね!」 5歳の長男が、何気なく使ったその言葉に衝撃を受けた。親として「懐かしい」という言葉の意味を説明したことはない。もし聞かれたとしても、即座に的確な意味を説明するのが難しい抽象的な言葉だ(これを読んでいる皆さん、すぐに説明できますか?)。そんな言葉をいつの間に覚えたのだろうと驚くとともに、「耳が聞こえるというのはこういうことなのだ」と実感させられた。無論、5歳の子どもが使う言葉だから、きちんと意味を把握したうえで使っているのとは違うかもしれない。しかし、「懐かしい」と言った時のタイミングに間違いはなかった。おそらく保育園やテレビ等、普段の生活の中で自然に耳に入ってくることで覚えたのだろう。自然と耳に入ってくるということが困難な聴覚障害者の場合、一つの言葉を覚えるために、かなりの労力を要することもある。そのことと比較しても、あまりの差に愕然としてしまう。

長男とは口話を中心に、時に手話や身振りを交えて話をする。しかし、おしゃべりが増えるにつれて(日に日に言葉の数が増えていくことには驚くばかり)、私が読み取れず、口話ではわからないことが増えてきたので、今後は手話を使うことを増やすつもりでいる。自分と血がつながった子どもだからこそ、肩肘を張ることがない楽な方法で話をしたいと願うのが自然な気持ちである。

しかし、親子であっても、どちらかが聴者であると会話が成り立たない悲しい現実があり、そんな例を数多く見てきた。肉親であるから伝えたい思いがたくさんとあるはず。それが共有するコミュニケーション手段を確保していないために、互いに言いたいことが伝えきれない。聞こえないということがつらいのではない。言葉の獲得が困難、共有するコミュニケーション手段の未確保等は、聞こえないことに起因していることであるが、胸の中に秘めている思いを伝えたいのに、伝えきれないということのほうがつらいと思う。

肉親でさえも思う通りに話ができないことがあるのだ。現に、母が老人性難聴になり、聴覚障害者の私との会話が成り立たなくなっている。それが他者とのコミュニケーションが困難な聴覚障害のつらさ、重さであることを理解してほしい。そのためには、家族間であっても互いに手話を覚える等、早くから将来を見据えたコミュニケーション手段を確立させていくことが必要であると思う。

(あいだたかゆき 国立身体障害者リハビリテーションセンター)