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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年5月号

1000字提言

盲ろうの方との出会いで考えたこと

会田孝行

世の中に盲ろうの方が存在していることを初めて知ったのは、十数年前のまだ学生の頃。その時は、「盲ろう」について深く受けとめることはなかった。しかし、盲ろうの方とお会いする機会が増え、知れば知るほどに「聞こえないこと」と「見えないこと」が重なっていることの重さを感じるようになった。

携帯電話でメールを使用している盲ろうの方(正確にはろうベースの弱視ろう)がいるが、裸眼では見えないため、拡大読書器を用いてメールを使用している。しかし、画面が見えにくいために、届いたメールにずっと気づかずにいるなど、十分に使いこなせずにいた。それでも、家族や友人と連絡がとれるようになりたいと、必死に使い方を覚えようとしている。これは、人とつながりを持ちたいという切な気持ちからくるものであろう。その努力には頭が下がる思いだ。

人とのつながりで思うことだが、盲ろうの方の場合、一緒の場所にいても、通訳がなければ何も情報が入らない。それでは、真の意味で一緒にいたことにはならず、人とつながっているとは言えない。

ある行事に盲ろうの方が参加した。そこで中学生が手品を披露したのだが、同じ場所にいたはずなのに、盲ろうの方はだれが何をしたのか、状況を知らないままでいた。このことは、盲ろうの方への通訳は単に話の内容を通訳するだけではなく、「中学生が手品をしている」というように、状況も説明する必要があることを端的に表している。しかし、この状況の説明というのは、視覚的情報をどこまで選択して通訳するのか、本当に難しい。

「人と人ってつながっていますね!」と、盲ろうの方との話の時に、そんなことを言っていただいた。初対面でありながら、共通の知り合いがいたからこそ出てきた話だが、その通りだとつくづくと感じた。人は、だれだって一人だけでは生きることができない。家族、友人など、さまざまな人とつながりあってこそ生きていくことができるのだと思う。

手話は、聞こえない自分にとって人とのつながりを築くための大切なもの。同じように、盲ろうの方にも人とのつながりを築くものに、触手話、指点字などさまざまな方法がある。ただ、残念なことに、手話と比較してこれらのものは、まだまだ社会に広く伝わっていない。また、知りたいと思っても、その情報を得ることがなかなか難しい。でも、触手話や指点字などが少しずつ、少しずつ広がっていくことで、盲ろうの方が人とのつながりを感じる機会が増えてほしいと願っている。

(あいだたかゆき 国立身体障害者リハビリテーションセンター)