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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年1月号

ワールドナウ

パキスタン訪問記

海老原宏美

2004年の2月、パキスタン、ラホール市のマイルストーンという障害当事者団体で活動している筋ジスの女性が日本に研修に来る際、私の自宅に一泊ホームステイをさせてほしいという依頼を受けました。自分と同じような神経筋疾患者が自立生活をしているのを見たいという要望があったためです。彼女の名前はニーハム、22歳。好奇心旺盛で、1か月という短い研修期間で、限界までいろいろな知識を吸収しようと、目を爛々とさせていたことを強く覚えています。

そのニーハムがパキスタンに戻って夏を越した頃から、筋ジスが進行し、呼吸の問題が出てきたという話を聞きました。日本にいるときにはあんなに元気だったのに、あまりの進行の早さに驚き、どうにかしてまた会いたいけれど、一人で行ける国ではないなぁと思っていました。

そんなとき、全国自立生活センター協議会の西尾さんが、「パキスタンに車いすの修理に行くけれど、もしよかったら一緒に行きますか?」と声をかけてくださったのです。強く願えば願いは通じるものだと実感しました。

私は普段、酸素吸入と睡眠時の人工呼吸器使用があるのですが、航空会社と連絡がうまく行っておらず、飛行機内でフライトアテンダントを相手にさんざん闘うはめになり、その時点からバリアを感じる旅となりました。

パキスタンのラホールに着いたのは12月16日の夜11時頃。夜中であるにもかかわらず、空港には30人ほどのマイルストーンメンバーが横断幕と花束で出迎えてくれ、まずその熱意に圧倒されました。中にはニーハムの姿も。以前と比べたらかなり細くなっていましたが、笑顔と目の輝きは変わっておらず、少し安心しました。

私たちが到着したときは、ラマダン(断食)が終わった後の、イードのお祭りの最中だったそうで、パキスタンでは家族や親戚が集まって過ごす時期だそうです。そんな中、たくさんのメンバーが集まって、遺跡観光などにも連れて行ってくれました。

パキスタンの街は本当に「不便」の一言に尽きます。とにかく交通量が多い割に障害者が使えるような交通機関は全くありません。一般的には車か、リキシャーという乗り物で移動するようですが、私たちの移動はマイルストーンが準備してくれた、後部座席を全部外して車いすごと乗れるように改造したハイエースか、スタッフ個人の車に乗り換えるかでした。また、驚いたのは交通ルールが全く無いに等しく、クラクションで合図しながら、追い越し合いながら、猛スピードで車が走るのです。その間を巧妙に人や牛(!)がすり抜けていきます。これでは絶対、車いすで道路を横断することは無理ですね。

18日から本格的な活動を開始しました。ラホール市から離れ、インドとの国境近くの村に行きました。村では、ほこりっぽい土の道と、レンガをどうにか積み上げて仕切りをつくっただけのような素朴な建物が続き、人と牛とヤギとハエが一緒に生活していました。お金ではなく物々交換で生活する人たちもいました。そんな中で障害者のためのセンターを立ち上げたいという村人が現れ、今、その準備を進めているそうです。マイルストーンとしても、できることはどんどん援助したい、と交流しました。しかし、ここでいう障害者のためのセンターとはおそらく訓練所のようなもののことで、当事者が自ら必要性を感じて作り上げる自立生活センターとは違うもののようでした。まだまだマイルストーンの持つ価値観を浸透させていくには時間がかかりそうでした。

19日はバリアフリーセミナーを行うということで、市内のスタジアムエリアにある会場に向かいました。パキスタンでは補装具や日常生活用具の助成制度はないので、ほとんどの人は車いすなどを持っていません。そのためマイルストーンでは、自分たちで手作りの車いすを作っているのですが、昨年の9月から、ラホール市のライオンズクラブがマイルストーンを本格的にサポートしてくれることになり、今回は車いす25台の製造費用(約20万ルピー超)を提供してくれたそうです。そのため、希望する人々に無償で供与することになり、その贈呈記念式典を兼ねたセミナーでした。

この式典の後、私と同じ障害(脊髄性筋萎縮症)の女の子、アイシャを発見。早速話しかけてみると、パキスタンではかなりの上流階級の家の子どもで、通常は手に入らない私と同じ種類の呼吸器を使っているとのこと。興味津々に話を聞いていると、お茶にお招きいただきました。

次の日自宅に伺ったのですが、3階建ての家には外付けのリフトが付いていたり、枕元に家中の電気を管理できる環境制御装置が設置してあったり、パキスタンでは普通見ることのできない日本のウォッシュレット式トイレが付いていたり、屋上に噴水があったり(笑)、その豪華さに圧倒されます。彼女のお父さんに「障害をもつ子どもにどんな自立をさせたいと思っていますか?」と聞いてみたところ、「とにかくできるだけ多くのお金を残し、自分の死後も不便なく生きていけるようにしておいてあげたい」という答えが返ってきました。アイシャからは「そうなったら、とりあえず2~3か月は自分の好きなものを買いあさってみたい」とレベルの違いを感じる答えが…。同じパキスタンでも、行政による平等な保障が皆無な現状では、こんなにも貧富の差が現れるのだなぁと、呆気にとられてしまいました。

20日、私のようにほぼ全介助で人工呼吸器を使うような人間がパキスタンを訪問すること自体かなり稀なことらしく、せっかくだから(?)と神経筋疾患の人を集めた勉強会が設定されていました。集まった人数はアテンダントなども含め20人ほど。私は、自分がアテンダントを使いながら一人暮らしをしていること、呼吸器にも障害が出始めたけれども、見えない人が眼鏡を使い、歩けない人が車いすを使うように、身体の一部として人工呼吸器を使うことで快適な自立生活を送っていることなどを話しました。また、血中酸素濃度を測るパルスオキシメーターと私が使っている呼吸器BiPAPの実演が好評でした。

21日は、ピアカウンセリングをすることになっていました。ピアカンは、気持ちをシェアするためだけではなく、自分の気持ちを発散する場を設けることで抑圧された気持ちを解放・整理し、自己信頼を回復し、前向きに生きていけるように自分を変えるためのものであるということを伝え、セッションを行ったりしました。

5日間という短い滞在期間でしたが、彼らからもらった刺激はたくさんありました。とにかく、あの不便な環境の中で障害をもつ人たちが街に出て行く、というだけでも大変な勇気と労力が必要です。そんな中で、構えすぎず、自分たちのペースで活発な活動を展開していることに感心しました。

私も自立生活センターで働いていますが、障害者が地域で自分らしい生活を見つけ、主体性を持って生きていけるようになるためのエンパワメントの部分を、もしかしたら日本の障害者より彼らのほうが一生懸命模索しているのではないか、とすら感じることもありました。ただ、神経筋疾患の立場から見たときに、せっかくメンバーの中に筋ジスの人がいたりするのだから、障害者が外に出て行くための車いすや障害者用車以前の、呼吸をして生き続けるという根本的な生存権利の部分も一緒に運動していってほしいと感じました。

また、日にちが経つにつれ、初めは出なかった質問「障害が進んでいくことについての不安をどのように解消したらいいか」や「障害があっても結婚できると思うか」などが出るようになりました。しかし、じっくり取り組む時間と余裕がなかったことが残念です。今後、メールなどを通して、そういう面でのサポートや、他にも協力できる部分があれば協力していきたいと思います。

(えびはらひろみ 自立生活センター東大和)