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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年3月号

報告

聴覚障害者スポーツ「2005メルボルンデフリンピック夏季大会」報告

大杉豊

はじめに

2004年のアテネオリンピック、アテネパラリンピックに続き、メルボルンデフリンピックが2005年1月5日から16日まで、オーストラリアのメルボルンで開催されました。

デフリンピックは1924年にパリで開催された世界ろう者競技大会を第1回とし、2001年のローマ大会で「デフリンピック」へと改称、メルボルン大会は20回目となります。

今大会の規模は、資金難による数か国の大会直前になっての辞退がありましたが、66か国・地域から約3500名の選手・役員の参加があり、地元メルボルンからも大勢のボランティアが参加しました。日本選手団は過去最多となる135名(選手102名、監督コーチなどのスタッフ役員が33名)が参加しました。

日本選手団

デフリンピック夏季大会は16競技がありますが、日本選手が出場した競技は陸上、サッカー、水泳、テニス、バドミントン、ボウリング、オリエンテーリング、卓球、バスケットボール、バレーボールの10競技です。個人競技の選手は全国ろうあ者体育大会や選手権(ランキング)大会での成績を基準にそれぞれのろうスポーツ団体で候補者が選考されましたが、陸上と水泳は前大会の3位記録を標準として全国から選考する方法を取りました。

団体競技は世界を4つのブロックに分けて予選が行われることになっていますが、バレーボールとバスケットボールはアジア太平洋ブロックからの出場国の数が出場枠を下回っていたため、自動的に出場となりました。その一方、サッカーはアジア太平洋ブロック予選で3位になっての出場でした。

選手団の最年少はバレーボール女子チームの安積梨絵選手が13歳、最高齢はボウリングの数見満選手が61歳でした。年齢の幅もある日本選手団の主将を務めたのは卓球の船越京子選手で、女子シングルス3連覇の期待がかかっていました。旗手は水泳男子自由形50Mなどでメダルを狙う早川友二選手が務めました。

出発前の12月13日には、選手代表16名が秋篠宮同妃両殿下より励ましのお言葉をいただき、メルボルンでの活躍を力強く誓いました。

競技会場と宿舎

開会式と閉会式のほか、陸上競技やサッカー決勝戦などはメルボルンの中心にあるオリンピックメモリアルスタジアムで開催されました。バレーボール、卓球、バスケットボール、水泳、バドミントンの競技が行われたMSACへは市電などで約30分でしたが、テニスコート、ボウリング場、サッカー競技場、オリエンテーリング競技場、マラソンコースなどは遠隔地に分散していたため、バスやタクシー、電車などを使って移動することになりました。競技開始2時間前には競技場に到着することを基本に毎晩ミーティングで事務局と各競技チームスタッフが時間の確認を行うなど、コミュニケーションの徹底を図ったため、大きな問題は生じませんでした。

日本代表団はメルボルン中心地、中華街近くの二棟からなるホテルを宿舎とし、事務所を2階の渡り廊下に面した位置に構えました。事務室の壁がガラス張りになっていたため、部屋に入らなくても手話で会話ができるなどの利便性が生じました。エレベーターの籠もガラス張りだったため、停止事故が起きても中に閉じ込められた選手と手話で連絡ができて安心したというハプニングもありました。

競技結果

競技はサッカー予選リーグでスタート。日本は初戦をロシアと戦い、2点を先取するも後半で追いつかれ引き分けとなり、勝利を逃してしまいました。

日本に最初のメダルをもたらしたのは卓球女子団体で銅メダル。卓球王国の日本ですが、この大会では大苦戦、男子チームは初めて表彰台に一人も上がれない結果となりました。女子は船越選手がシングルス決勝で中国の選手に敗れて3連覇を逃し、今西直子選手と組んだ女子ダブルスでも同じ中国の選手の組を破れず、銀メダル2個に終わりました。

続くメダルを日本にもたらしたのは水泳の今村可奈選手です。400M自由形と800M自由形で、圧倒的な強さを見せての金メダルに輝きました。他の選手2名もそれぞれが自己ベスト記録での入賞を果たすなど大健闘しました。

オリンピックにはない競技ですが、オリエンテーリングは山野で地図と磁石を使ってチェックポイントを発見しながら目的地に到達する時間を競うスポーツです。日本から初出場の野中好夫選手はアジアの唯一の選手として、ヨーロッパの選手に混じり、短距離・長距離コース共に完走を果たしました。

バスケットボールは4年前全敗に終わった男子チームがニュージーランドを相手に念願の初勝利をあげ、チーム全員が喜びを爆発させました。女子チームも中国に1勝しましたが、両チームとも体格のハンディをいかにして克服するか大きな課題を残しました。

4年前に優勝して挑戦を受ける立場となった女子バレーボールチームはほとんど新しいメンバーでしたが、落ち着いた試合運びで決勝戦まで勝ち進みました。しかし、攻守ともに勝るウクライナを相手に、いつもの力を発揮できないまま敗れてしまいましたが、銀メダル獲得です。男子チームは残念ながら前大会から順位を一つ下げての7位に終わりました。

ボウリングは毎日6ゲームを投げるハードな競技ですが、日本の選手はあと一歩のところでメダル獲得はなりませんでした。

大会開催地のメルボルンは天候が不順で、風が吹いて寒い日もあれば、35度近くの気温で日差しの大変強い日もあり、野外で戦う選手はいかにして体調をベストコンディションに持っていくかが大きな課題でした。テニスは4年前にシングルスで3位に入った阿部八千代選手が有川真理子選手と組んで女子ダブルスに銀メダルをもたらしました。阿部選手は松下哲也選手との混合ダブルスでフルセットとなる大接戦を演じましたが、最後に力尽きて準々決勝で涙を飲みました。

陸上競技は、槍投げとマラソンで銀メダルを獲得。武内晴香選手は槍投げで徐々に記録を伸ばし、金メダルをほぼ手中にしましたが、最後の最後で地元の選手に逆転される惜しい結果でした。マラソンは灼熱の中での苦しい戦いとなり、途中棄権が多く出ましたが、日本の2選手は共に完走を果たしました。ろう者の世界記録保持者の泉裕子選手も途中でペースがダウンしましたが、2位のテープを切ることができました。

日本選手が出場した最後の試合で見事金メダルを射止め、有終の美を飾ったのはバドミントンです。女子ダブルスで石井満里選手と樋渡美香選手が優勝し、シングルスと団体でメダルに届かなかった悔しさを晴らしました。石井選手は2大会連続して、活躍した模範的な最高の選手として称えられる栄誉に輝きました

4年前の金10銀5銅5合計20個から大幅に後退し、金3銀7銅1合計11個の結果に終わりました。男子選手のメダルがゼロという結果にもなりましたが、選手は全員が強化合宿を積み重ねて、本番でも力を出し切って戦いました。しかし、卓球競技などで見られるように、ウクライナ、中国、台湾など世界の力のレベルが格段に上がっています。若い選手の発掘と育成、そして国際大会への派遣。4年後の台北大会に向けて、この二つが各競技に共通する課題として残されました。

国際交流

競技では全体的に苦い経験を味わった日本代表団ですが、開閉会式などで国際交流を深めました。欧米からの参加が多いデフリンピックですが、今回はアジア太平洋からの参加が多く目立ち、初参加のフィジーも開会式の選手入場で踊りを披露するなどして話題をふりまいていました。

日本国加来総領事が試合の応援に来られるなど、メルボルンの日本人コミュニティからの応援もいただきました。

まとめ

デフリンピックは世界のろう者が集まって手話で交流を深め、競技記録を競い合う国際大会としての意義を持っています。文字や映像による情報保障と、手話を中心とするコミュニケーション保障がデフリンピックを成功させるための鍵です。

オリンピック運動のユニークな試みとしても位置付けられるデフリンピックを盛り上げるためには、全国の皆さんのご協力を必要としています。今大会の派遣費は、福祉医療機構のスポーツ支援基金からの支援、そして個人、企業、団体等からの寄付金、テレビ・新聞各社からのご協力と、多くの国民の方々からのご支援をいただきました。誠にありがとうございます。

(おおすぎゆたか 全日本聾唖連盟本部事務所長、デフリンピック日本代表団事務局長)