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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年6月号

文学にみる障害者像

小川未明著 『牛女』

中原徳子

はじめに

小川未明の作品について書くように依頼を受け、正直戸惑った。小川未明といったら幼少時に読んだ『赤いろうそくと人魚』しか浮かばず、人魚って障害者だったの?! と虚を衝かれた。人魚はあくまでも架空の造形ではないか。〈異形の者が見世物小屋に売られる〉という括りではその範疇に入るのかもしれない(実際、見世物小屋には人魚に擬した下肢不全者がいたらしい)が、それでも障害者として論じるのには違和感がある。たとえ未明が、中学時代の下宿先の足の不自由な美しい主婦とその娘から物語の想の一端を得たのだとしても。

遅まきながら未明の小説・童話数篇を読んでみた。『河の上の太陽』は、病気で片目が潰れてしまった少年がいじめに遭ったうえに幼馴染みへの淡い恋心を踏みにじられ世をはかなんで入水自殺するという惻(そく)々と胸締め付けられる物語。抒情的リアリズムの作品。子どものころに読んでいたら過剰に感情移入したかもしれない。『港に着いた黒んぼ』は、笛を吹く盲目の弟とその笛に合わせて唄い踊る美しい姉を巡る幻想的な物語。

ここでは未明の故郷越後の昔話を基にした『牛女』を取り上げてみたい。人魚と同様見世物小屋のレギュラー構成員に半人半牛様の牛女がいたらしいが、この話の主人公はそれとは異なる。ちなみに、未明の作品には「めくら」「おし」「つんぼ」「黒んぼ」等今に言う差別的表現が多用されているが、これらの表現が放逐されるようになったのは1970年代以降であり未明の時代(明治から昭和前半)には一般的であったし、文脈においても淡々と語られており差別的ニュアンスは感じられない。

あらすじ

ある村に背の高い大きな女がいた。その女はおしであった。女には男の子が一人いてたいへん可愛がった。子どもも母親を慕った。大女でやさしいところから、村人たちは「牛女」と呼んだ。牛女は村人から頼まれた力仕事などをしてよく働いた。

身体の丈夫な牛女だったが病気になってとうとう死んでしまった。「自分が死んだら何かに化けてでも子どもを見守ってやろう」と心に決めて。村人たちは葬式を出し墓地に埋め、遺された子どもをみんなでめんどうを見て育ててやることにした。

子どもはこちらの家からあちらの家へと移りながら大きくなっていったが、うれしいにつけ悲しいにつけ死んだ母親を恋しく思うようになった。ある冬の日、山の中腹に白い雪に黒く浮き出して母の姿がはっきりと見えた。村人もそれに気付き、「牛女が子どものことを気にかけて現われたのだ」と言い合った。それから毎年冬になると牛女の姿が現われ、子は山を眺めては母を想った。大きくなって町の商家へ奉公に出てからもそれは続いた。

ある年の春、子は山に現われた母の許しも得ずに勝手に商家を飛び出し南のほうの国へ行ってしまった。あくる年の春、町に子どもを探し歩く牛女の姿が見られたが、以来冬になっても山にその姿を見ることはなかった。

牛女の子は雪の降らない南の国で一生懸命働いて金持ちになった。すると故郷が懐かしく想われ、自分を育ててくれた村の人たちにお礼をとたくさんの土産を持って帰郷した。村人たちは牛女の子の出世を喜び祝った。

子は村のために事業を興そうと土地を買いりんごの木を植えた。鈴生りの実が大きくなりかけた時に虫がついて実が落ちてしまった。翌年もその翌年も同じだった。「なにかのたたりかもしれぬ」と言われた子は、母の霊魂に無断で遠くへ出奔したことを思い出し、ねんごろに母親の法事を営んだ。

あくる年の夏、悪い虫がつく頃に一匹の大きいこうもりの率いる群が飛んできて虫を食べ尽した。その年のりんごの収穫は予想外に多かった。その後も毎年こうもりが虫を食べてくれて豊作が続いた。こうして数年後には、牛女の子は幸福な身の上の百姓になった。

考察 ―風土と共同体―

昔話を基にしているせいか文体は平板で、未明独得のネオロマンティシズムの香りはない。『赤いろうそくと人魚』の悲劇的な結末や未明作品に多く見られる薄明の中にフェイドアウトするような幕切れとは違いハッピーエンドである。未明らしい味付けがあるとすれば「南の方の国へ行った」というところ。未明は越後高城村(現・上越市)の生まれで、「小さい頃は、この山を越えて向うへゆけば雪のない明るい世界があるのだと思って、いろいろな空想を持った」と述懐している。雪国の暗鬱な空の色と南国への憧憬は多くの作品に投影されている。

さて、問題の牛女。聾唖であって気はやさしくて力持ち。首を垂れてのそりのそり歩くのを村の子どもらにからかわれはするが、村人には受け入れられ頼りにもされている。

いわゆる健常者に「目が見えないのと耳が聞こえないのとどちらが大変だと思うか」と質問すると十中八九「目が見えないほう」と答えると言う。たしかに生活上の不便さという点ではそうなのだが、対人関係においては聴覚・言語障害が圧倒的に不利なのである。私自身、脳性マヒで言語障害が重いので対人関係の困難さは身に沁みて分かる。聾唖の場合、外見からは分らないため余計に悔しさがあろう。だからこそ手話という独自の文化を発展させてきたのである。

とはいえ牛女はやさしくて働き者だったから人々に受け入れられた。子どもを一人で育てていることへの同情もあったろう。要するに「愛される障害者」だったのだ。無論障害の有無にかかわらず村落共同体の中で生きて行くうえで協調性と労力提供は必要条件であるが、障害があればなおのことそういう性格のよろしさが求められてしまうのは否めない。そして、村人たちは牛女亡き後遺された子を代わる代わる面倒を見て育ててやるのである。

小川未明は大正初年に大杉栄と知り合い、空想社会主義―アナーキズムに傾倒するようになった。人道主義に立脚した理想的な社会を作ろうというもので、後の唯物論に基づくマルキシズムからは否定されたのだが、未明は立場を変えなかった。未明は、牛女とその子どもと村人たちとの関わりに一つの理想型を見たのではあるまいか。

物語の眼目は、雪形という郷土の自然現象を絡めた母子の情愛の深さ、裏切りへの恨みと和解である。未明は日本児童文学の父とも日本のアンデルセンとも称されるが、戦後の一時期、若い世代から痛烈な批判を浴びた。「呪術・呪文的で未分化」「児童文学にふさわしくないネガティブなテーマが多い」「子どもの視点で書かれていない」と。古田足日は「『牛女』も『赤いろうそくと人魚』もエゴイスティックな母親の復讐物語にすぎない」と評した。なるほど、だが待てよ、母の愛は本来エゴイスティックなもので決して人類愛的なものじゃない。「人は苦しみや悲しみをとことん経験してこそ宗教や善意に依らず自らの覚醒によって救われるのだ」と未明は説く。牛女や人魚の復讐は覚醒を促すためのもの。池内紀は「創造のはじまりの一点、すなわち、ことばは沈黙に、光は闇に、生は死の中にこそあるということ」を未明童話のメッセージとして読み取っている。明るく楽しいばかりの児童文学なんて。

終わりに

「障害者」の論点がぼやけてしまった。作品の選択を誤ったかなとも思う。今まで未明をほとんど知らなかったのが悔しい。こういう機会を与えられたことに感謝しつつ。

(なかはらのりこ 俳誌「からまつ」同人)

【参考文献】

新潮日本文学アルバム『小川未明』

「芸術は生動す」小川未明評論・感想選集

作家の自伝『小川未明』