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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年8月号

1000字提言

イマドキの「障害者家族」

土屋葉

先日ある方のお宅にお邪魔した。するとこれから息子が来るのだと言う。その息子はすでに独立し、近くに住んでいることは聞いていた。「いつも突然なんだから」と言いながら、顔はにこにこ笑っている。そして「夕食は食べてくるのかな、何か用意しておこうか」など、繊細な心配りをみせる。私はひそかに、心やさしく少し頼りなさげな青年なのだろうと勝手なイメージをつくりあげ、彼女とともに彼の訪問を心待ちにした。

約束の時間より少し遅れてやってきた彼は、私の予想に大きく反し、ばっちり今どきの若者だった。きれいに整えられた眉、皮のパンツに黒のTシャツ、シルバーのアクセサリーを、腕や腰にまとい、手からは最新型の携帯を手離さない。日常生活に少なくはないケアを必要とし、ケアを受けながら積極的に社会活動をつづけている彼女と、その現代的でおしゃれで自由な雰囲気をかもし出す若者が楽しそうに会話をしている図に、若干の?ギャップを感じた。しかし彼と彼女はもちろん親子であり「家族」なのだ。

3年前、『障害者家族を生きる』というタイトルの本を刊行した際にいただいた、障害をもつ方からの批判のなかで、用語に関するものがあった。「私は障害をもっているけれど、自分の家族を『障害者家族』だと思ったことはない」、「『障害者家族』と一律にみなされたくない」、「障害者が親になり、新たな家族をつくるということが想定されていないのでは」などだ。たしかに「障害者家族」が「辛いけれどがんばっている」という固定的なイメージを喚起することは否定できない。「がんばる家族」を肯定する、あるいは家族の多様性を否定する意図はまったくなかったが、少なくとも言葉の使い方についてはもっと注意を払うべきであった。また私自身のなかで、「障害者家族」=「障害をもつ子どもとその親」が前提となっていたことも確かである。これまで学問領域では、「障害をもつ親」に対してほとんど関心を払ってこなかったということはあるにせよ、こうした偏りに無自覚であったことは省みなければならない。

いま、私の思い込みは新たに出会う「家族」によって打ち砕かれつつある。障害をもち、親になった方と出会う機会が増え、「子どもとしての障害者と親」という典型的な障害者家族イメージは遅ればせながらほぼ崩された。さらに「障害をもつ親の子ども」=「優しいがやや地味な青年」というイメージも、先の若者の出現によって見事に粉砕した。この気持ちのよい裏切りと、私自身が抱いていた思い込みの根底にあるものを、見つめ直す作業をしてゆきたいと思っている。

(つちやよう 日本学術振興会特別研究員)