音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年10月号

旅する理由と心理、旅の楽しさ

前田勇

1 旅の歴史

人はなぜ旅をするのでしょうか。この問いに明確な答えを出すのは、人はなぜ恋をするのかを説明するのと同じくらいに難しいことのようです。人間には旅をする本能があるのだといわれることもありますが、現在でも世界のすべての人が同じように旅ができるわけではありませんし、旅を全くしないと欲求不満になってしまうともいえませんので、人類のすべてが生まれながらに持っている行動傾向を意味する本能の一つとして、旅する理由を説明するのは適当とはいえません。

そして、旅の歴史をみると、人間が旅をする理由は段階的に移り変わってきているのです。

ある交通史学者は、旅の歴史を振り返ると「まず主人の命令とか、生活のための必要に迫られてする旅が最初に発生し、それが長い間、旅の本流を占めていた。そして信仰とか慰みのためとかの自ら好んでする旅の発生は、これにかなり後になって、文化がある一定段階に到達したときに、初めて慣行化されるものである」と述べています。さらに「必要に迫られてする旅」には“生命を守り”生活を維持するための内部からの強圧による旅と、権力からの命令という外部からの強制による旅との2つの種類があったとも説明されています。

世界のどこにおいても、必要に迫られての旅のうちで最初に発生したのは、水や食物を求めた、次には定住することのできる安全な場所を探した、生きるための旅であったといえるのです。次の段階、日本の場合ですと紀元3世紀頃になると古代国家の成立・形成によって、権力者の命令による旅、外部の力によって強制された旅が始まったと考えられます。これらの段階に共通しているのは、自分の意思とはかかわりなく、内からの必要性や外からの圧力によって強制された旅であったということです。やがてこのような旅とは基本的に異なる、各人の自由意思に基づいた「自ら好んでする旅」が少しずつ登場してきますが、まず社会の特権層や上層から始まり、一般民衆がこれに参加できるようになるのは、かなり後になってからのことでした。

私たちが平素使う旅の意味は、ここでの「自ら好んでする旅」のことですが、庶民の旅は除災招福を求めた信仰心によって始まっています。信心の旅は、すでに平安末期にみられましたが、鎌倉時代になって広がりを示し、対象も熊野詣でが伊勢神宮へと次第に移っていきました。室町時代以降になると伊勢崇拝が民衆の間に広く根を下ろし、江戸時代には伊勢参宮はさらに大衆化の傾向を示すこととなりました。伊勢参宮に代表される社寺参詣が盛んになった背景には、現代における旅行の活発化の場合と同様に、さまざまな社会・経済的条件があり、さらに国内治安の安定や貨幣経済の発達もかかわっていました。

もうひとつ忘れてはならないのは、封建体制下においては民衆の移動が厳しく制限されていたにもかかわらず、宗教・信仰の理由による参詣のための旅だけは封建制度を維持する役割に適うものとして社会的に容認されていたということでして、他の理由では認められなかった旅も、社寺参詣を名目とすることによって可能となることから、江戸中期以降にはそれを“タテ前”として掲げるものが現れてきました。自由な旅への意欲は、信仰という理由をつけることによって実現可能であったということなのです。

2 旅をする理由

「自ら好んでする旅」が広がりをみせるようになり、観光が社会事象として認識されるようになるのは20世紀になってからのことですが、多くの人々が参加する大衆観光時代が到来したのは第二次大戦後でして、日本では昭和40年代後半(1970年頃)以降のことでした。

旅をする理由を明らかにしようとする研究も比較的古くから行われ、観光欲求や動機の分類も試みられました。ある研究者は観光を起こさせる欲求・動機を、思郷心・交遊心・信仰心、知識欲求・見聞欲求・歓楽欲求にそれぞれ細分化し、また、身体的動機を治療欲求・保養欲求・運動欲求に、経済的動機は買物目的・商用目的にそれぞれ分類しています。

このような分類は、さまざまな欲求が観光行動にかかわっていることを整理したという点で意味がありますが、治療や保養はひとつの行為であって欲求とはいえず、全般的に欲求・動機の分類というよりも目的の分類です。

大学生を中心とする日本の若者の旅行動機分析が行われたこともありました。そして、旅行動機には、気分転換・自然に触れることなどを理由とする「緊張解除の動機」、皆が行くから・常識として知っておくなどの「社会的存在動機」、未知へのあこがれなどの「自己拡大達成動機」の3つがあることを指摘しました。この結果は、観光が人間のさまざまな欲求・動機とかかわっていることを示したものとして興味深いものでした。

しかし示されているものは、観光行動の欲求・動機というよりも、現代人とくに対象となっている若者が観光という行動を通して充足したいと感じていること、あるいは充足できると期待している事柄であると理解するのが適当なのです。そしてさらに、示されていることの大部分は旅行することそのものではなく、“どこへ・どのような旅行をしたいか”の選択に直接的なかかわりをもった事柄なのです。対象となった彼・彼女たちは、それぞれの期待に応えてくれると思われる情報を選択して、行き先地選択という具体的な行動を起こしているということなのです。

多くの人が「自ら好んでする旅」を自由に楽しむことのできる現代では、旅をする理由もまた多種多様なのです。

3 旅をする人の心理

旅をする人、つまり、日常生活圏を一時離れて、外の世界へと出かけた人に共通してみられる心理的特徴は、「緊張感」と「解放感」という相反する感覚が同時に高まることにあります。日常生活を離れた、よく知らない土地では不安感が強まりやすく、外部環境の変化にすぐに対応できるように、心身ともに反応可能の状態を維持しようとします。この状態であることの意識が「緊張感」でして、感受性を高めることに作用し情緒的反応も活発になります。出会ったものごとに対しての快・不快、好き・嫌いなどの印象は強くなり、平素とは違うものに興味を感じる傾向がみられ、とくに外見的な珍奇さに心をひかれやすくなります。

同時に、日常生活から離れることによって生活にかかわるさまざまな煩わしさを一時的にせよ忘れることができるために“気楽さ”を感じることができ、この状態であることの意識が「解放感」であって、人間を肉体的にも精神的にもくつろがせてくれるのです。

楽しむことを目的とした旅行の場合であっても、肉体的疲労だけでなく精神的疲労を覚えることが多いのは緊張感が生じるためです。一方、なんらかの目的を持っての旅行の場合であっても、楽しさを伴うのはそこに解放感があるからなのです。このような相反する意識の組み合わせによって、旅をする人の心理はつくられています。

そして、どのような観光行動であるかによって、それぞれ緊張感と解放感の組み合わせ方が異なってきます。個人での旅行か、団体の一員としての参加かという行動形態による影響があり、個人型の場合は、すべてを自分自身で対応する必要があるため緊張も高くなりますが、その半面、旅先での印象が強く、思い出となることも多いのも、ひとり旅なのです。これに対して団体型では“仲間”がいるために相互に緊張の高まりが軽減されやすく、解放感のほうが強くなる傾向にあります。

旅行目的に関しては、何かを学ぶことを主目的とする「教養型」と気晴らし・楽しみを求めている「慰安型」とでは心理状態は基本的に異なっており、一般に前者は緊張感が強く、後者は解放感がより強くなりやすいのです。

このように、観光行動類型からみると一般に「解放感優位型」となりやすいのは、楽しみを目的とした団体旅行の場合であり、学ぶことを目的とした個人旅行の場合の「緊張感優位型」と対称的です。

4 旅の楽しさ

その理由や目的を問わず、旅をすることは、日常生活を一時的に離れて自己を見直すという意味を共通して持っています。平素とは違った環境での、自然や文化あるいは人々との出会いは、自己確認と発見の新たな機会をつくってくれるのです。とくに、美しい・楽しい・美味しいなどの感情を伴っている場合、人間をより豊かな世界へと導く作用を持っているのです。人を知識面だけではなく精神面でも成長させてくれる機会として旅を利用することが大切なのです。そのためには、新しい体験を楽しいものとして受け止める姿勢が求められるのです。旅の価値を決めているのは旅をする人自身の気持ちであり、心構えなのです。

旅で体験した“忘れられない思い出”を多くの方に伺ったことがありました。

ある中年男性は、北海道のバスツアーに参加した時のことを語ってくれました。

各地から集まった、互いに見知らぬ人々が一台のバスに乗り込むことからバスツアーが始まります。ツアーが終わりに近づいた頃、原野の真っ直中で、バスのエンジントラブルというハプニングが起こりました。現在ですと、無線や携帯電話がありますが、当時は適当な方法がなく、連絡できる場所まで乗客全員でバスを押すことになってしまいました。最初はいやいやだった人たちが、次第に積極的に参加するようになっていきました。

この話は、まもなく発見したガソリンスタンドで応急修理ができ、無事に旅行が続けられた、ということで結びとなるのですが、バス押し作業に協力し合ったことをきっかけとして、参加者全員の親密度が急速に強まり、その後、お互いの会話が弾むようになったというオマケがついていました。

大自然の中でのちょっとした労働体験と助け合ったことが、連帯感と感動を呼び起こしたことがその理由なのだろうと思います。旅ではハプニングが起きることもありますが、それを新しい発見の機会とする気持ちが大切なのです。

もうひとつ、グルメを自負している人が、ガイドブックで最上位にランクされている有名レストランのシェフに話を聞く機会があり、かねてから知りたいと思っていたことを尋ねた時の話しです。

「レストランを利用する時に、美味しく食べるための秘訣は何ですか?」の質問に対し、シェフはスマイルを浮かべながらこう話したそうです。「あなただけにそっとコツをお教えしましょう、それはお腹を空かしていくことですよ」と。

旅をする場合にも同じことがいえるのです。平素の生活環境から離れて、いろいろな物事に出会います。それをどう活かすかは、旅をする人自身の受け止め方であって、何を感じるかなのです。このような感じる力が“感光力”と称されるものなのです。

旅行業に勤務していた友人が視覚障害者の方々のアメリカ旅行に同行したことがありました。グランドキャニオン見物は希望があれば、ということでオプショナルツアー扱いだったのですが、全員がこのツアーにも参加されました。そして最も印象に残った場所として、多くの方がグランドキャニオンをあげ、大渓谷でしか味わえない冷たい空気の流れが楽しかったとの感想を寄せられたそうです。この旅行に参加された方々の感光力の素晴らしさに私は強く感動しました。

楽しい旅、素晴らしい旅は、豊かな感光力を伴った旅人自身の気持ちと意欲とによって実現される面をかなり持っていることを忘れてはならないのです。

(まえだいさむ 社会学博士、立教大学名誉教授、日本観光研究学会元会長)