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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年10月号

生きる日々の旅

花田春兆

しっぺ返し

今から200年も前のことですし、お笑いの本なのですから、カリカリしないで読んでください。

その頃流行し始めた旅行ブームに乗って、ブームを決定的に盛り上げた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』つまり弥次さん喜多さんの珍道中で有名な、ユーモラスな旅行記の中に、こんな一節のあるのが、目を引きます。

2人が掛川(静岡県)の近くまで来ると、そこの川が前日の雨で水かさが増し流れも早く、渡るのに一苦労しそうです。とちょうど来かかったこちらも2人連れの座頭(盲人)。2人とも濡れるより1人が背負って渡ればよいとなって、じゃんけん(残った片手で相手の拳を確認しての勝負)に負けて仕方なく向けた背中に、横から弥次さんがちゃっかり乗って向こう岸へ。

取り残された相棒に呼び返されて不可解で不満な男の背中に、今度は喜多さんが…。いくらなんでもそうは問屋が卸さない。途中でバレて振り落とされて、川の真ん中へザンブリ。

そのうえにご丁寧に、上塗りの一場面が加えられます。…

濡れた着物を着替えて、這う這うの態(ほうほうのてい)で少し先の茶店まで来ると、さっきの座頭たちが酒を注文して一杯やり始めています。喜多さん今度は、その置いた杯から失敬して、飲み干していきます。そうとは知らない座頭たちは、お互いに相手が飲んだものと疑って、いさかいをはじめる始末になります。ところが店先で遊んでいた子どもに、すべてを見られていて騒がれて、結局謝らされたうえに酒代を払わせられて、なんのことはない、自分の金で飲むのに謝らせられた、とボヤくこと頻り、というお粗末。

座頭の旅

ところでこの座頭たち、京上がり(みやこのぼり)の座頭と書かれていますから、検校組織の中で、同じ座頭でも一つでも上の位を得る(買う)ための上納金を、直接京都の総検校屋敷に納めかたがた、上方見物(おっと、見るでなく味わうかな?)もして来ようという旅なのでしょう。

もっとも、この時代になると江戸にもそれを受け付ける支所? が設けられていましたから、大抵の場合は其所で済んだはずですが、一方では都市定着型の盲人が増えて、気分転換のための意味も重さを増していたとも思えます。一つの目標であった貯めたお金を懐に、夢を確実にするための旅なのですから気分も弾んでいますよね。

茶店で昼間から酒徳利を傾けているのも、その現われでしょう。

ここで“兄弟子”という言葉が出てきます。当然、修業で技を磨く伝承組織。一時代前なら琵琶法師でしょうが、この頃には“あんま”も、江戸など都市部などではかなり普及し始めていたようですし、この座頭たちもそうであったような気がしてきます。

ところでここでは、いいように玩ばれています。これだけでも相当に酷いと思うのですが、現実はもっと厳しいものがあったようです。

なにしろまとまった金を身につけての旅と分かるのですから、まさに格好の標的というわけです。

追い剥ぎ・掻っ払い、果ては命まで奪われて谷底へ蹴落とされる…なんていうのも、芝居の舞台に限ったことではなかったでしょう。

2人というのも、一人旅よりは狙われにくかろう…との配慮も働いていたはずです。

明るい希望にも繋がる解放感の一方には、松尾芭蕉が『奥の細道』で触れているような、道端で死ぬことになろうとそれも運命なのだ、との諦めに通じる悲壮感を潜ませていたことも確かだと思われます。

芭蕉の場合は病気への不安が主(所持金など最低限だったでしょうから)と思えるのですが、座頭たちの場合は盗賊など他人からの危害をも覚悟しなければならなかったのです。

にもかかわらず、多くの座頭たちは京上りの旅を絶やさなかったのです。

それは生きるために必要な旅であったと同時に、未知への好奇心とか、変化を求める心を満たすという、旅本来の魅力に誘われたからでしょう。

日々旅にして

旅心の誘いが殊に強かったと自負する芭蕉は、『奥の細道』の冒頭で、

月日・時の流れこそは、絶えることも留まることもない旅だ、と説き起こし ――舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎える者は、日々旅にして旅を栖とす―― と、人生そのものが旅であり、旅が生活そのものであった人々へ、熱い想いを馳せています。

確かに芭蕉は、若い日に故郷を離れて出奔し、晩年は旅から旅を重ね、江戸にも京洛にも故郷にも長くは定住せず、最後は長崎をめざした旅の空の大阪で没したのですから、旅の生涯だったと言えましょう。

その旅も、全国の歌枕(名所旧跡)を訪ねて、芸術の先輩である故人たちの心に迫ろうとする風雅の旅でしたが、自分の俳諧の道を広め、各地の弟子たちの間を回ってその中の有力者からの庇護を受ける、という生活のための旅だった側面も見過ごせないでしょう。そうした芭蕉や、彼が先人として仰いだ人々、そして路傍で垣間見る旅? で生活し生涯を送っている人々。

つまり、ここに挙げたような芭蕉が意識していた人々のほかにも、もっと徹底して旅に生き、旅に生活し、旅に死んでいった人々が、それこそ数知れぬほどたくさんいたのです。それも明らかな障害を負った人々でした。

そう、日本全国津々浦々まで『平家物語』などを語って、巡り歩いていた盲目の琵琶法師たちです。

芭蕉のように一人で広く各地を…というよりも、各地にある“座”の組織が、それぞれの一定の地域(縄張り?)をいわば巡回していたと想われるのですが、ともかく“日々旅にして”の生活で、村々を隈なくネットして行ったこの人々のおかげで、“平家”は国民文学として普及・浸透・定着して、現在使われている日本語・日本文が形成される、そもそもの基礎となったのです。

この人々の生きる糧を求めるための旅が、一般の人々への数少ない娯楽とともに、耳学問とも呼べる一種の教養を与え、また、別の村・離れた土地での話題を伝える、情報の運び役をも果たしていたわけです。平穏な村であれば、単調な日々に変化を与えるものとして、歓迎され待たれていたことも十分考えられそうです。

琵琶・三味線・唄

盲人と琵琶と旅。この密接な関係は遠く、平安時代中期の蝉丸伝説にまで結びつくのですから、1000年以上も遡ることになります。

逢坂山の月夜の山中で、琵琶の秘曲を奏でる蝉丸を慕って、諸国からやって来た盲人たちが、その技を全国に広めたというのです。

宮廷で用いられていた外来楽器の琵琶が、名も無い庶民の障害者に普及していったのか、不思議と言えば不思議ですが、芸を求め極めようとする旅はすでに始まっていたのです。

そして琵琶が、戦国時代の末に渡来した三味線に代わり、女性たちは鼓から三味線や唄が主になっていったという、長い時の流れを経ても、多くの盲人たちは一般の社会から離れて“座”と呼ばれる盲人仲間の形成する芸能集団の一員として、日々を旅に送り一生を閉じていくのを常としていたようです。冒頭に触れたような、あんまとか音曲の師匠とかに関係した都市型の座も無いことはなかったにしても、一般的には村々を巡り歩く“旅を栖”とした生活の日々を、連綿と引き継いでいたのです。それは地方によっては、なんと昭和の戦後にまで見られたのだと聞きます。そうした女性たちの中でも名の知られた越後瞽女(ごぜ)。その最後の一人の生存が報道されたのは、平成の世になってからのことでした。

ついでに蝉丸の時代からさらに遡ってみましょう。

旅に明け暮れる芸能集団の源流としては、“くぐつ”が思い浮かびます。もともと現在の韓国の辺りから渡来・帰化した人々が、大和朝廷の公地公民の枠外で生きて行くためのものだったのでしょう。この流浪する群れの中に、障害者の影を見出している人は多いようです。同じように公地公民の農耕社会の労働についていけず、はみ出さざるを得なかった人々が、生きる場を求めて身を投じていった、と想うのは自然でしょう。そして、想像図としては盲人の楽士や侏儒の道化師などが、浮かんできます。曲芸士の中にもいたかもしれません。

おとぎ話の『こぶ取り』に出てくる鬼たちが、実はこの“くぐつ”の群れだったとは考えられませんか。山奥までは行かずに里近くを出没して巡回しているのです。踊りを踊らせているのも、仲間入りのための資格試験だったとは想えませんか。1人は合格でしたが、1人は不合格、二度と来るな、というわけです。

さらに、蝉丸伝説の謎だった外来楽器の入手経路も、この芸能集団なら、その中にそうした楽器の補修や製作を手掛ける職人がいて当然だから…となって、結びつく可能性も生まれます。隠れた文化史の舞台裏です。

奈落の底

そうした旅する盲人たちに、襲いかかる危害や災難があったことは、『膝栗毛』のところで寄り道をして述べました。が、そんな盗賊などよりももっと大々的で組織的な徹底した危害に晒されることもあったようです。

井上ひさし氏の力作『薮原検校』の幕開けに、盲太夫によって前口上的に長々と語られる、みちのくの盲人・座頭たちの壮絶な受難史が、揺るがすことのできない重さで蘇ってきます。

道しるべとして頼りに手繰ってきたそれこそ命綱が、荒海や底なし沼に落とし込むように仕組まれていたのです。凶作で大飢饉に見舞われた年など、座頭たちは、そちらはそちらで、他所から流入してくる彼らに乏しい食料を分けては、自分たちが飢えるという村人たちによって死へ、奈落の底へ追いやられていったのです。

グループとして行動していても厳しいものが、そこから追われての一人旅ともなると、気ままな自由さよりも、増大する危険と苦難の洗礼に見舞われねばならなかったようです。

異性との交渉が噂されて仲間から追放された女性を描いた、水上勉氏の『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』は、そうした苦難の旅の生涯を彷彿と浮かび上がらせてくれています。

しかし、そうした苦難の旅人たちに、多くの村々は、休息のための夜の宿として、村の中の無住のお堂などを提供していたことも、明らかに書き添えられているのです。迫害? の受難史も厳存したのも確かでしょうが、他方では定期的に訪れてくる盲目の旅芸人たちを、顔馴染みもあって心待ちにして温かく迎え入れる人々も、普通にいたことが示されているのです。

キャンピングカー

“くぐつ”に触れた以外は、ほとんどが視力障害者であり、芸能音楽を携えての旅に終始してしまったようです。

実績を示す記述を辿れば、自然にそうなってしまうのですが少しは、他の障害や他の分野の旅人の姿にも巡り合いたいですよね。

最後にわずかですが、それらしい貴重な影を紹介しておきます。鎌倉時代に庶民に仏教を広めた一遍上人の生涯を描いた、『一遍聖絵(ひじりえ)』『一遍上人絵伝』と呼ばれる絵巻物の中に、多様な障害者が登場します。

全国行脚する彼の後を慕う人々の列の中に、手に下駄を履いていざって行く者や口を開けて食事の世話を受けている者までがいるのです。さらに驚かされるのは、大きな車輪を付けた小屋状のものまで認められるのです。現代でいうキャンピングカー。足弱な者への福祉キャブだったかも…。

(はなだしゅんちょう 俳人・本誌編集委員)