音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年10月号

文学にみる障害者像

マーサ・ベック著 『あなたを産んでよかった』
―障害をもつ子の出生とともに、自らを生み直す、障害をもつ子の親の物語―

大谷いづみ

「なんで幼い男の子をただ愛してやることができないんだ? なんでありのままの彼を愛してやれないんだ?」 ――マーサ・ベック『あなたを産んでよかった』191頁

生殖テクノロジーの発達した時代、世間的な「成功」が最高の価値を持つと信じられている社会で、知的障害のある子どもを産むことがどのような体験であるか――を、克明に伝える本書は、同時に、ひとが条件付きでなく受容されること、ありのままに自らの存在を承認されることを、どれほど欲しているか――を、伝える物語でもある。

画像診断や羊水検査、絨毛診断、母体血清マーカーから受精卵着床前診断に至るまで、この四半世紀の出生前診断技術の進歩とこういった技術に関する情報の裾野の広がりは、当の女性やカップルが、妊娠・出産といういとなみを、ひいては生まれいずる子を、ただそのままに受け容れることを困難にしているという現実を伴っている。「検査を受けて安心しましょう」と出生前診断にあたって気軽に添えられるこの言葉は、実際には、受けないことの不安を暗示しているとも、また、受けない不安を増大させる効果をもたらしているとも考えられる。何よりも、検査を受けないまま重い障害や疾病をもつ子どもを産んだとき、さらには、検査の結果、そうであることを知りながら産んだとき、「あえて選択した」とみなされるような様相さえも、示し始めているのかもしれない。

そのような状況の下、優生思想――という言葉で、出生前診断と重い障害・疾病をもつ胎児の選択的中絶を括って語ることは容易であろう。しかし、マーサ・ベックの『あなたを産んでよかった』は、もう少し別の語り方をしたい、という気持ちを抱かせる。

著者のマーサとその夫ジョンは、1歳半の娘を育てながら、ともに米国の名門ハーバード大学で博士号取得をめざす学生夫婦である。ジョンは、博士論文執筆のかたわら、シンガポールに事務所を持つ会社のマーケティング・コンサルタントとしても働き、東南アジアへの頻繁な出張をこなしている。マーサは、履修している多数の科目の膨大な課題をこなしつつ、講師として授業の一部を受け持ち、そのうえジョンの留守中はシングル・マザーを引き受けている身だ。2人はまさに、克己と努力で不可能を可能にし、「総てを手中にする人生」を歩んでいるカップルであった。

そんな2人が思いがけない妊娠に気づき、やがて胎児がダウン症であることを知る。思いがけない妊娠に続く、思いがけない子どもの妊娠の判明である。いかにもハーバードに学ぶアグレッシヴなカップルらしく、彼らはすでに結婚当初に、胎児が“不満足な”時の中絶について話し合い合意に達している。血清マーカーテストの結果、胎児がダウン症である確率が895分の1だと告げられたとき、何の疑問もなくジョンは「生まれつきの障害を選別することは誰にとっても良いに決まっている」と結論づける。

しかし、すでに胎動を感じているマーサは、“不満足”という言葉に激しく反応し「満足と不満足の間の、どこに線を引くのか。親はどんな赤ちゃんに満足するのか」と食い下がる。「骨折した馬を撃つように、皆と同じことができないなら、その苦しみを長引かせない方がいい」というジョンに、マーサは弱々しくつぶやく。「皆と同じことって、なんなの? 馬が走るために生きているなら、私たちは何をするために生きているの?」と。

ダウン症と判明したわが子の出産を決意したマーサの「選択」をジョンも受け入れるが、ダウン症児の中絶を当然とみなしているハーバード界隈の世間からのまなざしに傷つき、将来への不安と哀しみに押しつぶされそうになって、各々が殻に籠もって沈黙の日々を送っていたマーサとジョンの間で、その緊張に満ちた均衡が崩れ、ある夜半、2人は激しく言い争う――というよりは、思わず「この子が普通の子だったら」と漏らしたマーサにジョンが投げつけたその激しさは、本書のクライマックスであると、私には感じられる。

「ふざけるなよ。君はこの赤ちゃんが普通であることなんて望んでいない。普通に生まれてきたら、お払い箱なんだ。君が望んでいるのはスーパーマンなんだから」

「なんで彼じゃ不足なんだ?」

「なんで彼がそんなに努力しなければならないんだ?」

「なんで彼は完璧じゃなければいけないんだ? いつだって正しくて、決して間違いをおかしたりはしないのか?」

ジョンの金切り声のような叫びに、「彼」が赤ちゃんを指しているのではないこと、「彼」がジョン自身なのだということに、読者は気づかざるをえない。むろんマーサも気づく。なじる相手は自分ではなくジョンの父や母だということ、教会やハーバード大学だということも、マーサは察する。察して、マーサはただ、ジョンを抱きしめるのだ。それは、添えられた「あなたをありのままに愛してる」というマーサの言葉よりも雄弁だったかもしれない。そしてその夜、2人は、「成功しているか、受け入れられているか、注目に値するか、人より優位に立っているか」――生きる価値をそんな物差しではかり、自らその物差しの、少しでも高見をめざして生きてきたジョンとマーサは、別の物差しで生き直すことになったのだ。克己と勤勉と努力で前に進むことの価値を疑わなかったジョンとマーサが、「世間体の良い職を離れ、独特の家族関係を築き、人目には奇異で、非現実的でばかばかしく見えるようなプロジェクトを実行する」人間に生まれ直したのだ。

子どもに託す思いに、親自身の後悔や果たしきれなかった夢、あるいは自分の人生への自負が滑り込むということは、確かにあるのだろう。つい先年まで長く続けた高校教師の仕事のなかで、親の期待に押しつぶされそうになっている優等生挫折症候群の子どもたちに寄り添うことは、比重を増し続けていた。生まれてくる子どもに何を待ち望むかに、自分が自分自身にどんな人間であることを求めているかということが反映されるだろうし、そこには、自分が無意識に感じ取っている、世間が自分に求めているものが投影されもする。冒頭と文中に上げたジョンの言葉は、そんなジョン自身の心中奥底での喘ぎが金切り声となって噴出したものである。その金切り声とともに、ジョンは自らを生み直したのだと、私には感じられる。

「君はまだ怖い?」「ええ」「ぼくもだよ」――そんな会話とともに、ジョンとマーサは、今まで見知っていたのとは別の存在を互いの中に見出す。不安はあっても、2人は、互いがまだ生まれていない障害をもつわが子を愛していることを、今は知っている。それまでは自分しかわが子を愛してやれる者はいないと、鎧を纏って殻に閉じ籠もることしかできなかったのに。孤塁を守っているという孤独感の中でうちひしがれていたのに。しかし、後に本書を書き記すマーサは、妊娠の最初の時から、彼女を気遣い手助けする人々の存在を直観的に感じ取っている。おそらく熱心なキリスト教徒であろうことは筆致の端々にうかがえ(て、それが少し本書を読みにくくさせてい)るが、そんなことは別として、具体的な生きた隣人たちが、要所でマーサとジョンの「選択」を実際的に支えている。アダム(と名づけられた)が、生まれようとする衝動を胎動という形でマーサとジョンに伝え続けていることもまた、確認されてよいことだろう。

本書には、障害をもつ子どもの出産に至る夫婦の葛藤の軌跡が刻まれている。しかし、“Expecting Adam――アダムを待ち望む”という原題は、その葛藤をも含めて、生まれた子が、いつもマーサとジョンに、そして彼らを支える隣人たちに、根底で待ち望まれていたことが含意されている。――そして、待ち望まれていたのはアダムだけでなく、マーサとジョンの生まれ直し、生き直しでもあったのではないかと、私には思われてならないのだ。

(おおたにいづみ 千葉科学大学非常勤講師、生命倫理学・生命倫理教育)

※ マーサ・ベック『あなたを産んでよかった』、扶桑社、2000