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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年1月号

文学にみる障害者像

小栗判官(おぐりはんがん)をめぐる人たち
―歌舞伎と障害者―

上沼美由紀

小栗判官の物語は、恋の物語、そして障害者の旅の物語としてよく知られている。現存する小栗物歌舞伎としては19世紀初頭に登場した『姫競双葉絵草子』が集大成だが、この芝居は初春歌舞伎の定番として見なされ、明治前半まで頻繁に上演されてきた記録があることからも、新春号で紹介するのにふさわしいおめでたい演目かと思う。

平成12年に国立劇場で上演された時には、鴈治郎と時蔵の錦絵から浮き出たような艶姿が評判になったが、筋書きの背景にあるのはお定まりの「お家騒動」。まず、「お家の重宝」が無くなり、馬芸に秀でた小栗判官は将軍の命により関東へ探査の旅に出る。判官が訪ねたのは謀反を企む横山大善の屋敷。そこには判官の許婚「照手姫」が身を寄せている。大善は都からの上使として現れた小栗に毒を飲ませ殺そうとするが、命がけで親を諌める嫡男太郎が防ぐ。小栗は宝を奪い返すために先を急ぎ、その身を案じる照手は決死の覚悟で一人小栗の跡を追う。美濃青墓の万長屋に宝の一つがあると聞いた小栗はそこに婿入りして宝を得ることにし、首尾よく一人娘のお駒と祝言をあげ、そこで下女として働いていた照手と再会する。かつての照手の乳母であったお駒の母は、判官と照手の素性を知って、2人を添わせる手助けをするが、おさまらないのは娘のお駒。嫉妬に狂い、母親の制止も聞かず2人を殺そうとした挙句、弾みで母親の手にかかってしまう。死んでも小栗の裏切りを許すことができないお駒の恨みで小栗は突然癩病となり、五体の自由が利かなくなる。仏の加護を信じ小栗の本復を願う照手は、土車(本来は人間が乗らない土を運ぶための車)に乗せた小栗を引いて熊野までたどりつく。そこで悪者に襲われ小栗は殺され川に流されるが、熊野三所権現の霊気を得て蘇生。もとの姿に戻ったうえに、奪われた宝も無事戻り、互いの無事を喜ぶ2人がお家の再興を誓うところで舞台は大円団となる。

限られた空間で繰り広げられる歌舞伎の舞台の荒唐無稽な話の裏には的確な人間観察があり、様式化された所作や台詞の決まりごと、そしてそれを操る役者の技によって、観客は楽しみながらも複雑な世の中の事情を理解する。『姫競』もその例に漏れず、息苦しい封建時代に生きる人々の共感を誘う「忠義の道が人の道」という主題とは別に、小栗を恋する「照手」と「お駒」という2人の姫が物語を動かすことから『姫競』という外題がついたのだろう。

「障害者の旅」ということにはあまり比重が置かれていないが、当時の歌舞伎が数少ない情報提供の手段となっていたことを考えたとき、熊野詣の「霊験騨」がどれだけ多くの病で苦しむ人々、差別され虐げられた人々に夢を与え、熊野に足を向けさせるきっかけになったことか、推量するに難くない。

次に市川猿之助丈が生み出した現代の小栗物『オグリ』を取り上げてみたい。猿之助は予てより『姫競』に澤潟屋らしい演出を加えた『当世流小栗判官』を上演していたが、スーパー歌舞伎『オグリ』では、小栗の物語の原型である「説経節」を元に『姫競』では扱いきれなかった「障害者の旅」をこと細やかに描き込んでいる。

「説経節」とは中世の仏教の説教が歌謡化し、喜捨を得るための大道芸となったもので、その後、人形浄瑠璃に発展し歌舞伎に移入されたものである。『姫競』との違いがわかるように『オグリ』の概要を追ってみよう。

京都の公家の息子である小栗判官は文武両道に長じた不調人(常軌に外れた行動をする人)で、3年間に712人の妻嫌いをしたあげく、女に化けた大蛇と契る。噂が広がり帝の不興をかった小栗は常陸の国に流罪となったが、侍の国常陸では毘沙門天の申し子としてもてはやされ、大将となって活躍する。

ある日、照手姫の美しさを伝え聞いた小栗はまだ見ぬ照手に恋焦がれ、10人の強者を連れて相模に行き、強引に関係を結んでしまう。小栗の道を外れた行いに怒った照手の父は小栗を殺すことに決め、人を餌とする凶暴な馬「鬼鹿毛」をあてがうが、小栗はあざやかに乗りこなす。しかし、結局は毒を盛られ殺されて家来ともども地獄に落ち、その後一人だけ餓鬼病(癩病)姿で蘇る。異形の小栗は「一引いたは千僧供養、二引いたは万僧供養」という遊行上人の記した文言のお陰で、人々に土車を引いてもらい熊野をめざす。

美濃国の青墓宿は『姫競』では小栗が偽の祝言をあげた場所であるが、ここに小栗の乗った土車が3日間放置されていた。それに気が付いたのは照手。小栗と出会った土地にちなみ「常陸の小萩」と名乗り、夫に添う心を持ち続けていた照手は、異形の病人を哀れに思い、また、小栗と10人の家来の供養のために土車を引く。互いに相手がわからぬまま、照手は餓鬼病の男に小栗に通じる愛しさを覚え、小栗は小萩に照手の姿を重ね合わせる。照手が小栗を大津まで送り届けたことから仏のご加護に弾みがつき、熊野の湯の峰までたどり着いた小栗は本復。小栗は照手を迎えに行き、晴れて夫婦となった2人は常陸で末永く幸せに暮らす。

『オグリ』で蘇った「説経節小栗判官」の発端は『鎌倉大草紙』(室町時代の軍記物)に見られる「足利氏にたおされた小栗氏(城)」を巡る史実にあると言われ、茨城県真壁郡協和町(現 茨城県筑西市)の遊行巫女が小栗氏鎮魂のために語った物語が、それぞれの地域の人々の口承文学として語り継がれたのち、神奈川県藤沢の遊行寺で一つの物語としてまとめられたと考えられている。

この「説経節」の正本である宮内庁所蔵の御物絵巻『をくり』の中には、小栗が数人の男たちに土車を引かれ熊野をめざす姿が描かれている。自分で動くことのできない小栗が、障害者や病人を救済することで極楽往生を願う人々の力を借りながら、熊野をめざして旅したことを表した場面である。『オグリ』の舞台の圧巻もこの旅の部分にある。

宗教の力を借りた当時の救済システムに助けられたとはいえ、忌み嫌われる癩病の旅人にどれだけの困難が降りかかっていたことか。時には、運良く引かれて進み、時にはひどい迫害を受け、時には情をかけられて食べ物にもありつき、時には餓え、また、打ち捨てられたまま野垂死をすることもあっただろう。そのような当時の障害者の置かれた状況の一部を猿之助小栗が血の通ったかきくどきの台詞まわしで演じ抜く。

「説経節」の前半は英雄の物語だ。並外れた武勇を誇り英雄的な気質を兼ね備えた小栗という人物は、法と秩序の下に生活を営む定住社会からはみだしてしまう定めを持っていた、と言えるかもしれない。病に苛まれた障害者と同様に、異なる文化や力を持つ者もまた社会から差別を受けることを考えたとき、『姫競』と『オグリ』にみられる小栗の死は、歴史的背景を含んだ社会的な死、と受け取ることもできるように思う。

「歌舞伎」から「説経節」に話が傾きすぎたきらいがあるが、古今を通じて小栗の物語は人の心をとらえ、物語の中の小栗のように消えても新たな命を持って蘇る力を持っているようである。

熊野古道には今でもさまざまな「小栗」の足跡が残っているという。困難が大きい人であればあるほど、多くの人に助けられながら熊野詣をしたことだろう。実際には旅をしない歌舞伎席の観客も、その抱える問題が大きければ大きいほど、その分しばし夢物語の中に身を置くことでこのうえなく幸せな観客となることができたのかもしれない、などと昔の人々のことを考えながら、ふと、自分もいつの日か熊野詣をしたいと願う者の一人であり、常に幸せな歌舞伎の観客の一人であることに気がついた次第。

(かみぬまみゆき 社会福祉法人国際視覚障害者援護協会)

〈参考文献〉

  • 梅原猛著『小栗判官』1991 新潮社
  • 板橋区教育委員会社会教育課/編『文化財シリーズ第74集説経節と若松若太夫』1993 板橋区教育委員会
  • 荒木繁・山本吉左右編注『説経節』1994 平凡社東洋文庫
  • 花田春兆著『日本の障害者』1997 中央法規