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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年3月号

文学にみる障害者像

障害者の太平洋戦争を記録する会編 代表 仁木悦子
『もうひとつの太平洋戦争』

中島虎彦

これは小説家の仁木悦子氏が、夫の翻訳家である後藤安彦氏らとともに、太平洋戦争中の障害者たちの知られざる実態を、全国から作文や短歌や俳句や川柳として募集し、一冊に編集したものである。戦争当時の体験を書き残され(あるいは語り残され)たものは多いが、またその作者たちの熱意と責任感には打たれるが、残念ながら障害者の声が含まれている例はきわめて少ない。

そういう貴重な資料でありながら、今では絶版となり在庫もないようなので、私は障害者関係の本を専門に扱っている「スペース96」の久保耕造氏から私蔵のものを譲ってもらった次第である。

仁木悦子氏は胸椎カリエスの障害を抱えながら推理小説を書き、29歳の時『猫は知っていた』で第3回江戸川乱歩賞を受賞している。仁木兄妹探偵シリーズなどで読者を獲得した。小説に『暗い日曜日』『夢魔の爪』『みずほ荘殺人事件』などがある。障害者の書き手としては珍しいプロの流行作家であった。最近でこそ猫もシャクシも文庫本になるが、彼女の作品は早くから文庫本になっていて、文学をめざす障害者(果たしてどれくらいいるのか知らないが)たちには一目置かれていることだろう。

同じく脳性マヒの障害を抱える後藤安彦氏と結婚するあたりの苦労は、『猫と車いす 思い出の仁木悦子』(後藤安彦著、早川書房、1992年)などという評伝に詳しい。後藤氏は「障害者の生活保障を要求する連絡会議」(障害連)の事務局長も務める。翻訳にチャステインの『パンドラの函』、デイストンの『爆撃機』、他に歌集『沈め夕陽』などがある。夫婦ともに著述業や障害者運動に関わっているさまは、かの旭川のクリスチャン作家で障害のデパートのような三浦綾子・光世夫妻を思わせるが、彼らにも劣らず実に精力的なご夫婦だったようである。

採録されているのは後藤氏が脳性マヒ者たちの障害者運動の重鎮であった関係からか脳性マヒの人たちが多いが、なかには脊髄腫瘍の手術失敗で半身不随の身となった佐藤冬児氏のような例もある。それでは作品の中からいくつか見てみよう。

「平凡な体験だが」

「石油ショックというのがあった。ある朝目覚めたら、突然、商店、スーパー・マーケットから砂糖、洗剤、トイレット・ペーパーなどが消えていった。誰も、障害者のために品物を探してくれる人はなかった。遠い昔から、私たちは殺され続けているのだ」

(横田弘、脳性マヒ、著作家、神奈川「青い芝の会」前会長、詩集に『花芯』、映画「さよならCP」製作など)

「集団疎開のころ」

「世田谷の学校も爆撃されるおそれがあるので(中略)疎開をさせてほしいと軍に許可を求めに行くと、軍は障害児など国の役に立たないものを疎開などして助ける必要はないと拒否したそうです。しかし校長は本土決戦になったら足手まといになるからと重ねて許可を求めると、軍は、それなら良いだろう、ということになったそうです。そしてこれは校長でなく、別の人の話ですが、その時軍は、本土決戦が全国に及んで長野県が戦場になった時は、これを使って障害児を処分するようにと、毒薬を渡したそうです。つまり障害児はいざというとき処分の対象になる動物園の動物と同じに見られていたというわけです。また当時の教育関係者が、光明学校に見学に来ると、校長に向かってこんな子供たちを教育して何になるんだ、こんな無駄なことをしているあなたは非国民だ、といったそうです」

(秋山孝、小児マヒ、ボイラー技師)

「戦争が私を小さくした」

「教官は冷やかな目で私を見、『こんな馬鹿は学校に来る必要はないのだ』というようなことを言いながら立ち去っていった」

「東京に戻り、元の学校へ行くようになった私は、疎開前のように級の誰彼と気軽に話しをし、先生の質問に手を挙げ、成績を競い合うということをしなくなってしまっていた。戦争が私を小さく、いじけさせてしまっていたのであった」

(山北厚、脳性マヒ、昭和32年「青い芝の会」を創立し初代会長、國學院大政治学科卒、「しののめ双書」の編集者、アパート経営)

「臥たっきりの半世紀」
「松葉杖なりと歩いてみたい空」
「手術台一札とられモルモット」
「白骨を渡す妻の手飯をつぐ」
「一匹のにしんに並ぶ小半時」
「征く人を見送り窓のベートーベン」
「疎開した窓で日米海空戦」
「敗戦に涙が出ない非国民」
「虫の音が心に沁みる負けいくさ」

(佐藤冬児、脊髄損傷、川柳作家、貸本屋・下宿屋)

「身障者の戦中戦後記」
「麻痺負えど女と生きむ教材に裁ちし羽織の赤き花柄」
「戦いに命をかけて人等征くに千人針麻痺の手に縫いやりぬ」
「手萎う吾の一日短く父の靴下一足のみを繕えぬまま」
「萎え身もてば吾に向けらるる記事かとも邪魔者は殺せの新聞の文字」
「破壊されて寄処なき町並を目付き鋭き人ら群れゆく」

(前田ヤス子、脳性マヒ、短歌結社「姫由理」同人、「しののめ」所属)

などなど。「集団疎開のころ」からはナチの障害児抹殺を描いた『灰色のバスがやってきた』(フランツ・ルツィウス著、草思社、1991年)などを連想させられる。こういう発想は洋の東西を問わぬようである。優生思想や民族主義や選民思想などというもののこれが正体である。

その他にも、戦時中「非国民」とか「役立たず」とか「穀潰し」呼ばわりされて、さまざまな辛酸をなめさせられてきた障害者たちの貴重な肉声が収録されている。ともすれば「苦労話のオンパレード」になりがちなところだが、寄稿者たちのふつふつと湧いてくる怒気がそれをかろうじて押しとどめている。これだけの原稿を寄せられれば、仁木夫妻らの編集眼も簡単に曇るわけにはいかなかっただろう。

たとえば佐藤氏の「臥たっきりの半世紀」などは川柳になくてはならない風刺精神が小気味よい。虐待された川柳作家鶴彬の反骨精神にあふれた遺作などを思い起こさせられる。

しかし戦時中の作家たちはさぞかし表現に気を遣わねばならなかっただろう。魂を試されるような局面にも出会ったことだろう。それに比べれば現代の私たちは恵まれていると思う。しかしその恵みがこういう本を読まないとなかなか実感できないから困ったものである。

編集について欲をいえば、在日朝鮮人や被差別部落出身者や在米日系人の障害者からの声も採録されてあれば、さらに当時の社会の鬼畜ぶりが浮き彫りにされたことだろう。また寄稿者に「青い芝の会」の脳性マヒ者たちが片寄っているが、できればそれだけでなく、車いすの普及していない時代に脊(頸)髄損傷や筋ジストロフィーやALSなど、難病患者たちがどんな難渋を味わわされていたのかも読んでみたいところだ。

それを補うものの一つとしては、社団法人全国脊髄損傷者連合会の企画になる『車イス生活者の戦後50年史 われら市民 めざせ21世紀』(全国脊髄損傷者連合会九州ブロック連絡協議会編集、1995年)などという労作がある。

(なかしまとらひこ 文芸同人誌「ペン人」編集者、本誌編集同人)

●障害者の大平洋戦争を記録する会編 代表二木悦子、『もうひとつの太平洋戦争』、立風書房、1981年