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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年5月号

インタビュー
トリノパラリンピック メカニックスタッフ 宮本晃さんに聞く

(まとめ)編集部

【プロフィール】

1990年、神奈川県総合リハビリテーションセンターリハビリテーション工学研究室入職。車いすと車いすを使用する人の関連機器の開発に携わる。チェアスキーの開発にも自然とかかわるようになった。現在、横浜市総合リハビリテーションセンター勤務。パラリンピックのメカニックスタッフとしての参加は、トリノパラリンピックで4度目。

―宮本さんはこれまでに4回パラリンピックにメカニックスタッフとして参加されていますが、メカニックスタッフの役割はどのようなことですか。

もともとは、先輩方が開発してきたチェアスキーを試合中に調整したり、修理することがメインでした。しかし、98年の長野パラリンピックの時に、リハセンターに勤めている専門のエンジニアとチェアスキー製造メーカーの共同プロジェクトにより開発が行われるようになり、より競技性の高いチェアスキーを供給する役割も大きくなったと思います。

―長野パラリンピックは日本開催ということもあり、力の入れ方がそれまでとは違ったのでしょうか。

そうですね。長野以降、チェアスキープロジェクトを毎回立ち上げて進めていく方法に変わりました。当然開発の中でも4年でやり残したこともあるので、さらに性能を上回るものにしていくために目標を掲げてきました。

―今回のトリノのプロジェクトの目標はあったのでしょうか。

実は長野とソルトレークの間にスキー自体が大きく変わっているんです。スキーの形状にカービングスキーというものが導入されました。スキーが変わると体の使い方も変わります。チェアスキーも体の一部ですから、体の動き方を変えていかないとスキーの変化に追いついていかないんです。そのためチェアスキーの性能を大きく変える必要があったわけです。そこには大きなエネルギーと時間がかかり、新しいチェアスキーで選手が十分に練習することができない状況でソルトレークに臨むしかなかったのです。

今回はその部分をクリアさせて、大きく変えた内容を満たしたチェアスキーで臨むことができたといえます。そういった意味では最初から作り始めるのではなく、ソルトレークで積み残した課題をクリアするという過程を踏んでいますので、ある程度、開発にかける時間を短縮できました。したがって今回は、選手が新しいチェアスキーで余裕をもって練習したり調整できたわけです。特に時速約100キロで走るのですから、本人がチェアスキーを体の一部にしていく過程が必ず必要なんです。一般に使う車いすのように、「少し慣れたね、使いやすいね」というものではないんです。ものすごく時間をかけて自分の体の一部にしていく過程を経ていかないと、大日方選手のようにメダルは取れないですね。

今のチェアスキーは、選手に求める要素も高ければ、チェアスキーに対する選手の要求も高いです。

―現在のチェアスキーの性能の特性はどのようなところでしょうか。

現在のチェアスキーは、スキー操作に適した動きを実現しています。また、選手の体重や滑走方法、環境に合わせて緻密に調整できる機能を持たせています。ですから速く滑るための設定や堅い雪だったらこういう設定と、一人ひとりの選手の使い方によって設定を変えています。テストを何度も繰り返して、今日は調子がこうだから、雪の状態がこうだからと本番直前まで一緒について調整をしながらスタートを切るわけです。

以前は修理スタッフとして付いていくことがメインだったのですが、今はどちらかというと、チェアスキーが壊れた場合の保険的な意味もありますが、彼らがスタートを切るまでの間、体の一部となるチェアスキーの調整の役割が非常に大きくなっていますね。ですから、我々も個々の選手の設定はデータ化していますし、それに対してどう調整していくかが要求されるので、シーズン中はできるだけ一緒に行動するようにしています。

―トリノパラリンピックからクラス分けが変わり、メダルの数も少なくなったそうですね。

今回から従来のクラスごとのメダルがなくなって、「立位」「座位」「視覚障害」の3つのカテゴリーに分け、その中でメダルを一つということになりました。LWは1~12-2までとB1~B3/1のクラスがあるのですが、その中の1から9-2までのクラスが立位のクラスで、10~12-2までは座って滑るクラスです。また、B1~B3/1が視覚障害のクラスです。その中に当然障害の差があります。ですから、カテゴリーの中でクラス別に係数を決めてタイムに掛けるんです。

座って滑るクラスは、LW10~12-2ですが、10のほうが障害が重いんです。11、12と障害の重さによって分けられていますが、10のほうが係数が多いので有利なんです。たとえば、大日方選手はLW12-2ですから、10の人と同じタイムでは勝てないんです。係数が掛けられても上回ったタイムを出さないと勝てないわけです。こういったルールの中でメダルを取るということは、レベルがものすごく高いということなんです。我々としては、メダルの価値が高くなったので、非常にやりがいがあると思っています。

―今回、日本のメダル獲得数は9個でしたが、この結果をどう見ていますか。

とても良い結果が得られたと思います。アルペンスキーでメダルを6個取りました。目標は、アルペンだけで10個でしたから、そう考えると、ちょっと惜しいな、という気持ちもあります(笑)。

―今回のパラリンピックで印象的なことはありましたか。

私は主にチェアスキーの担当をしていますが、立位の選手のアウトリガーも私たちが見ています。今回、立位の選手で、日本では初めて東海選手が銀メダルを取りました。パラリンピックに出場する選手の男女比は圧倒的に男性が多いんです。その中で東海選手と森井選手が銀メダルを取ったのは、非常に価値があります。それは本当にうれしかったですね。世界では男子選手の層が厚く、その中でメダルを勝ち得ることは大変なことです。本当によくがんばったと思います。

東海選手は脊髄損傷で下肢にマヒと機能障害があるのですが、アウトリガーを使いません。もともとスキー選手だったこともあるのですが、幸いにスキーブーツが装具の役割をして足首を固定してくれているので、障害があるのですが、意外と動けてしまうんです。ランクでいうと重いほうなので、それが逆に有利でした。

森井選手は座って滑るクラスですが、一番選手が多いクラスです。LW11というクラスです。非常に競争率が高いんです。しかも中間くらいの係数で、12の人もいるわけです。少なくとも森井選手は、LW10のクラスの人と同じタイムではだめなんです。というところでよくがんばったと思います。

―今回、チェアスキーがかなり改良されたので、次のパラリンピックでは、さらにいい結果が期待できるのではないでしょうか。

まだ終わったばかりなので、考えていませんが、次のパラリンピックに向けては、私が先輩から受け継いだように後輩にいろいろと引き継いでいければと思います(笑)。このチェアスキーを今後どうするかはわかりませんが、さらに性能を高めていくというより、選手がもっと乗りこなしていって用具自体の性能を高めていくという用途もあると思っています。

この辺りで若干開発の余地があるかなと思っています。そのためにもある程度、使いこなしながら煮詰めていく期間も必要ではないかと思っています。新たに何かをがらりと変えるよりは、このタイプ自体をもう少し熟成させる時間を持つことになるのかなと思っています。

―後輩の育成も含めて将来の夢は何でしょうか。

チェアスキーは、1976年頃に誕生しました。現在の横浜リハセンター長の田中理さんたちが、車いす利用者を雪の上で楽しませようと考え出したのですが、ドイツでも同様のことが考えられていたようです。その後、スイスなどと交流を持ちながら普及させていきました。そういう経緯があるので、私もこれまでの技術を若手に伝えていきたいと思っています。

現在、日本のチェアスキーのレベルは世界のトップです。チェアスキーの開発だけで言いますと、今は日本の選手だけにしか提供していませんが、パラリンピック全体を見据えていくと、日本製のチェアスキーを多くの海外選手が使用する時代が来るかもしれません。また、人材が育てば、日本のスタッフが海外のチームを支えることがありえるかもしれませんね。(了)