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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年6月号

文学にみる障害者像

映画化された『マラソン』

クァク・ジョンナン

2002年ベニス国際映画祭で監督賞を受賞したイ・チャンドン監督『オアシス』の興業が成功して以来、韓国では障害者を主人公にした大衆映画が増えている。『オアシス』は重度脳性マヒをもつ障害女性の生活と非障害者の偏見をリアルに再現することで社会の注目をひいた。

『オアシス』は主人公コンジュの隣りに住む夫婦が真昼間にコンジュの家で性関係をもち、「あの子がみても、かまわない」と発言するシーンなど、重度障害女性に対する韓国社会の認識の一側面を衝撃的に表現した。しかし、障害者の間(とくに障害女性)では、重度障害女性であるコンジュが自分をレイプした人物(チョンドゥ)を愛するようになるという設定は「レイプ神話」を再現しており、チョンドゥと愛を交わす途中でチョンドゥが強姦犯で捕まり拘束されるにもかかわらず、最後までチョンドゥを弁護できずに終わるなど、障害女性を無気力な存在として描写していると批判された1)

『オアシス』以来、『フー・アー・ユー』(2002年)、『アンニョン、ユーフォー』(2004年)などの映画でも障害者が主人公として登場したが、それほど注目を浴びることはなかった。そこに登場した『マラソン』(2005年)は韓国で500万人以上の観客を動員し、『オアシス』と同様に日本でも公開された。障害者を主人公にした大衆映画が成功を収める可能性を再び提起することになった。また『マラソン』は『オアシス』よりも障害者の間でも比較的、好意的な評価を受けた。評価された理由は、一つに、『マラソン』が自閉者のマラソン成功記によって障害克服の神話を再現することに集中するよりは、自閉症をもつ子どもとその母親の視線に集中していたということにある。もう一つには、映画を通じて自閉者への認識改善に寄与したということである2)

また、一方で『マラソン』に再現された母親キョンスクの姿を通じて、障害児を産んだ母親が直面する日常の現実を理解しようとする視点も提起されている。パク・ミラ(2005)は「だれも養育と育児のしんどさを共有しようとはしない」、「現実には母親たちが子どもを抱いて走るマラソン選手になる」と言及した。それならば、ひょっとすると、映画『マラソン』の成功や障害者界の肯定的反応には養育を含めて自閉児に対するすべての責任を母親に負担させている現実から目をそむけようとする、感情的な忌避感が作用しているのではないか? このような疑問を念頭におきつつ、映画『マラソン』に表れた自閉者の物語を検討する。

『マラソン』は、数え年で20歳の自閉者のチョウォンがマラソンをするプロセスを描いた映画である3)。とはいえ、『マラソン』はチョウォンがマラソンを完走する姿に執着するよりは、チョウォンの日常とチョウォンの母キョンスクの視線に注目している。

物語はチョウォンの幼いころの話から始まる。「自閉症は病気ではなくて障害です」との医者の診断に母キョンスクは挫折する。キョンスクは動物園でチョウォンを見失ってしまう事件をきっかけに、だれも自閉児の養育を手助けしてはくれず、自分でもどうすればいいのかわからないが、チョウォンと自分をより密接に結びつけるようになる。キョンスクはチョウォンと2人で登山しながら、「チョウォン、どきどきしてるね。(省略)かあさんもどきどきするし、(省略)みんないっしょ。他の人と違うことは、ひとつもない」といい、チョウォンの障害を否定したりもする。

映画は幼児期から現在に移り、10キロマラソンで3等をとり、「100万ドルの足」に「体格は最高に抜群の」20歳のチョウォンと、その横で記念撮影をするキョンスクの2人を映し出す。しかし物語は、チョウォンが女性のハンドバッグをぬすもうとしたと誤解される場面によって、チョウォンが他の人とは違うことを伝える。母親のキョンスクはチョウォンはまだら模様が好きなだけで、お金には興味がないのだと弁護するが、腹を立てた女性は「あの子の気持ちがどうしてわかりますか? 体は丈夫そうだけどさ。(省略)子どもの状態があんなだったら外に出してはいけないでしょ。他人にこんなふうに害を与えてもいいんですか。精神病院か施設にでも送ったらどうですか」と反応する。

キョンスクは「うちの子はそんなことに興味ないんだから、いいかげんなことを言うな。大韓民国は自由国家だ。うちの子はわたしが思うように育てる」と言い返す。結局キョンスクにとって、自由国家大韓民国は子どもの養育に関して社会的安全装置のない、養育の負担がすべて母親に強要される社会なのだ。

またキョンスクの反論は、そのような社会でチョウォンをここまで育てたのだという自信の表れである。だからキョンスクは、願い事は何かという記者の質問に、マラソンを3時間以内に完走すること(「サブスリー」)だと笑いながら答える。しかし水着を着けずに記者の前に現れたチョウォンを見て、自分の願いは、「チョウォンが私より1日早く死ぬこと」であると、韓国社会を生きる母親キョンスクが抱く悲劇的メタファーを口にする。

キョンスクとチョウォンの一対一の関係は、元有名マラソンランナーであるチョンウクが飲酒運転で社会奉仕の罰を受けるためにチョウォンの通う養護学校に来ることで、ある変化がもたらされる。チョンウクにチョウォンのコーチになってもらいたいとお願いするキョンスクは「20年の間、罰を受けながら生きる気分がわかります?」という発言を通して、社会の障害に対する認識がどのような形で個人化されているのかを映し出す。

しかし映画は、母性を強要する社会の野蛮さを暴露するよりは母子間に新たに登場したチョンウクを通じて、キョンスクがマラソンを強要したのではないのか、チョウォンが本当にマラソンが好きなのかを問う。

地下鉄でシマウマ模様の洋服を着ていた女性を追いかけてしまったチョウォンは痴漢と勘違いされ、暴行を受ける。まさにその瞬間チョウォンは「チョウォン、迷子になったろ。かあさんが手をはなしたろ。動物園でチョウォンを迷子にしたろ」と、動物園で母親が自分を捨てた過去を思い出す。

キョンスクは、軽いけいれんで倒れ込み、病院に運び込まれる。病室でキョンスクは「担任の先生が言うには、おまえはしんどくても、しんどいって口にださないって。わたしがいつも言ってたものね。チョウォン、しんどい?しんどくない?しんどくないね?しんどくないよね?いいでしょ?好きでしょ?15年の間、そうやっておまえをせきたててた。それで、もうつらい。もうやりたくないって全然言えない。(省略)ひょっとするとチョウォンは、かあさんが自分をまた捨てるんじゃないかって、そんなふうに一生懸命になって、疲れたって言えずに今まで生きてきたんじゃないか?」と自分の母性を否定する。

このような映画の設定に対し、ファン・ジョンミ(2005)は「どんな母性も絶対的であるとか完全ではないし、母性愛の内部に残酷な権力が隠されていることを暴露している」と評した。このような、母性を美化しようとはしない観点は「うちの子は違うんです。他の人たちとは違うんです。一緒ではないんです。それがわかるのに20年かかりました」という発言によってさらに強化される。母性の否定によってチョウォンの障害は認められる。そうしてキョンスクが「野生で生き残るすべ」として教えたマラソンは、キョンスク自身を「悪い母親」と認識させることになる。しかし映画はキョンスクを脇に置き、チョウォンは本当にマラソンが好きなのか?と、問い続ける。

チョウォンは一人でマラソン大会に出場する。家に帰ろうというキョンスクの引き止めに、チョウォンは「チョウォンの足は?」と問いかける。キョンスクは涙を流し「100万ドルの足」と答える。チョウォンは走り始める。チョウォンは幼いころ何をするときにもキョンスクからもらっていたお菓子をほかのマラソンランナーにもらうが、そのお菓子も投げ捨てて、走って行く。母親キョンスクからの独立的存在としてのチョウォンの姿だ。そしてチョウォンは、マラソンを応援するために道路に並び立つ人たちと手のひらを合わせうちながら走る。

ここで自閉者チョウォンは非障害者との和解を、社会との和解をしているようにみえる。そしてチョウォンはサブスリーを達成する。

映画はチョウォンが走るとき世の中と和解できたと信じて疑わない。チョウォンが努力しつづけ、世間が誉め讃えるだけの能力をもったとき社会は手を差し出し、誉め讃えていると信じて疑わない。努力をけしかけ、良い結果がでたとき拍手を送る世間のありさまは、幸せそうに走るチョウォンの姿によって隠されてしまう。チョウォンが楽しそうに走るとき、観客は幸せになる。しかし、もしチョウォンが走るのをやめたとき、世間は自閉者チョウォンに、そしてチョウォンの母キョンスクに手を差し出しただろうか。

その答えが「イエス」であることを、そして障害児を産んだ母親が障害克服という隊列の最前列から抜け出すことができることを願う。

(郭貞蘭 韓国テグ大学大学院生、日本語訳あべ・やすし=韓国テグ大学修士課程修了)

【引用文献】

カン・ミラ(2005)「映画『マラソン』のなかの意地悪な母性」インターネットハンギョレ新聞
(http://www.hani.co.kr/section-005300003/2005/03/005300003200503231638042.html)

ファン・ジョンミ(2005)「『マラソン』と『我が愛しのトラミ』を通じてみた障碍映画の進展」『障碍と社会』6、156―165頁

【注】

1)韓国女性障碍人聯合(http://www.kdawu.org/kdawu_board/board.asp?no=9&table_name=media&subpage=view)、障碍女性共感(www.wde.or.kr/)の活動家たちの各種インタビュー、女性文化理論研究所(http://www.gofeminist.org/Board/Content.asp?TxtCode=6146&Page=1&BoardCode=Board004)のウェブ上の論争などがその代表的な例である。

2)韓国の代表的障害者新聞のひとつである『エイブルニュース(Ablenews)』(2005年1月19日、2月2日、2月23日、3月9日付)と『障碍と社会』に掲載されたファン・ジョンミ(2005)の映画評、『ハンギョレ21』第547号に掲載されたシンユン・ドンウク(2005)の「障碍克服の神話も克服せよ」など。

3)チョン・ユンチョル監督/チョ・スンウ、キム・ミスク主演(2005年)『マラソン』は、2002年にKBSの『人生劇場』という番組で放送された「走れ!我が息子」(5部作)というドキュメンタリーを土台に制作された。このドキュメンタリーの主人公ぺ・ヒョンジン氏はマラソン競技で42.195キロを3時間以内に完走するサブスリーを達成し、トライアスロン競技を完走した。ペ・ヒョンジュン氏の母パク・ミギョン氏は「自閉児をアイアンマンにした母の話」という副題のついた『走れ!ヒョンジン』(月刊朝鮮社、2002年)という本を出版している。映画『マラソン』を制作したのちKBS『人生劇場』では「走れ!我が息子 その後」を制作、放映した。KBSで制作されたドキュメンタリーはウェブ上で視聴できる(http://www.kbs.co.kr/2tv/sisa/human/vod/1249602_1278.html)。