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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年7月号

文学にみる障害者像

元木由記雄著『もっと強く、もっと愚直に』

高橋正雄

平成16年に発表された元木由記雄の『もっと強く、もっと愚直に』(講談社)には、日本を代表するラガーマンである著者がパニック障害に苦しんだ時の様子や病を経験することによってもたらされた生き方の変化が描かれている。

著者は明治大学や神戸製鋼で活躍し、何度も日本一に輝いたことがあるラグビーの名選手であるが、平成12年10月、この心身ともに頑健なはずの猛者が突然得体の知れぬ発作に襲われたのである。その時の様子を本書から抜粋すると、以下のようになる。

(1)突然、心臓が破裂するのではないかと思うほど、バクバクと音をたてて鼓動を始めた。

(2)後頭部をわしづかみにされて真上に引っ張り上げられるような激しい頭痛に襲われた。

(3)息苦しさと頭痛と恐怖で目の前が真っ白になった。

(4)押し寄せる苦しさや痛みの中で、死の恐怖が頭をよぎった。

(5)そうした状態が10分ほど続き、半ば死をも覚悟させた激しい発作はどうにか治まった。

当時はこうした発作が何度も起きたため、著者は「また起こるのではないか」「また、あの苦しみに襲われるのではないか」という不安にかられて、仕事やラグビーの練習もままならない状態が続いた。会社に行ってデスクワークをしていても、「もし、ここで倒れたらどうしよう」という不安が頭をよぎると、たちまち汗が吹き出して動悸も激しくなったという。

このように、突然動悸や息苦しさが始まって死の恐怖に襲われるという発作を繰り返していることや、発作の持続時間が10分前後であること、また発作に襲われるのではないかという予期不安から日常生活に支障を来していることなどから、著者の発作はパニック障害だったと思われる。しかもこの間、著者は体調すぐれず、まともに食事もとれない状態で2か月間に体重が7キロ以上減少したというのだから、軽いうつ状態になっていた可能性もあるが、当初はどこの医者に行っても診断がつかなかった。というのも、救急車で駆けつけても病院に着くころには発作は治まっているからで、医師からは「風邪」とか「特に異常はありませんね」と言われるだけだった。

パニック障害という診断が下されたのは発作が始まってから1か月以上過ぎた頃であるが、この時初めて神経内科の医師から病気についての説明を受けた著者は、「自分は重病なのでは」という不安からも少しずつ解放されていったという。何より心強かったのは、この医師が「何かあったら、いつでも電話をしてきなさい」と言って、緊急の連絡先まで教えてくれたことで、いざという時には医師に連絡がとれるということでずいぶん気持ちが楽になった。実際に発作が起きて深夜に電話したことは一度だけだったが、深夜でも医師に連絡がとれたことが心強かったと著者は語っている。

パニック障害という診断がつき、正しい治療を受けるようになってからは発作の起こる間隔も1週間から2週間、1か月と徐々に長くなっていき、2年を過ぎるころには以前と変わらないレベルにまで回復した。発病から2年経った平成16年秋の本書執筆時点では、全く問題なく日常生活を送れるようになり、平成15年から始まったラグビーのトップリーグでも初代MVPに選ばれるほどの活躍をしている。

著者は今でも「また、発作が起こるのではないか」という予期不安との闘いは続いているとしながらも、「この病気のおかげで、病気にならなければ知ることのできなかったさまざまなことを学べた点は、自分の糧となった気がする」として、パニック障害を体験してよかったと思う点を、次のように述べている。

(1)自分のことを気づかってくれる人たちが周囲にたくさんいることのありがたさを実感した。特に著者の妻は、「もしかしたら、自分はこのまま死ぬんやないか」と子どものように訴える著者に対して文句も言わず、笑顔を絶やさず看病してくれたため、事態が深刻であるにもかかわらず、家の空気は不思議と明るく、笑いも多かった。

(2)チームに迷惑をかけていることを心苦しく思っていた著者に、ゼネラルマネジャーの平尾が「まあ、無理はするなよ。もし会社やチームのことが気になるようなら、何があっても自分がすべて対処するから、安心してまかせてほしい」と言ってくれたため、安心して治療に専念することができた。

(3)自分の周りにパニック障害の経験者が何人かいて、経験者ならではの励ましをしてもらったことが、心の支えになった。特に、著者が尊敬しお世話になっている人も、若いころ同じ病気で苦しんだことを聞いた時には、「こんなに強い方がなるのだから、私がかかったとしてもこれは仕方がないだろう」と、気持ちに余裕ができた。

(4)治療に専念している間、自分のことのように心配してくれる人がいたり、気がつかないふりをしてくれる仲間がいた。

著者の体調がだいぶ回復してきたころ、事情を知る同期や先輩が「お前も少しはリラックスすることを覚えたほうがいいぞ」と言って、食事や飲み会に誘ってくれるようになった。それまでの著者は、飲み会が苦手で、試合後に飲みに出かけることもあまり楽しいとは思えなかった。「酒を飲む時間があるなら、なぜもっと努力しようとしないんや」と思っていた著者は、いわば修行僧のような気持ちでラグビーに打ち込んでいたのである。しかし、今回の病気を通じて「人間はひたむきさだけでは生きていくことはできない。時には息抜きをする余裕もなければ、パンパンに張り詰めた風船のように、何かに触れただけでパンクしてしまう」と気づいた著者は、チームメイトの誘いも積極的に受けるようになり、今では試合が終わると自分のほうから誘うようになった。そして、食事をしながらいろいろな人と話をし、時にはまったく違う職種の人から聞いた話が何かのヒントになるというような経験もして、単にリラックスというだけでなく、日常生活全般におけるコミュニケーションの大切さを実感することもできるようになったという。

このように著者は、最初はパニック障害という得体の知れぬ病に苦しみながらも、その後見事に回復し、多少の不安を抱えながらも、再び日本のトップ選手として活躍できるようにまでなっている。しかも、病気を経験してからの著者は、それまでの「自分がうまくなることで、チームを強くしたい」という思いから、「自分がもっといいパスを放れば、あの選手が活きるのではないか」とか「あの選手をこう使ったら、もっと面白いラグビーができるのではないか」といった、人を活かすという考え方が以前よりも強くなったと、自らの視野が広くなったことを実感しているのである。

その意味では、著者はパニック障害から回復したというよりは、パニック障害を経験することで人間的に成長し、新たな境地に達したとも言えるのであって、著者自身、「病気を克服したことで、もう一つ人間的にも大きくなれた」「この年齢で病気を体験し、それがきっかけで自分の世界が広がったことはたいへん大きな体験」だったと語っている。

ここには、人間の視野を広げ、人間的な成長を促すものとしての病が描かれているが、著者は前記のような体験を通じて、自分の頑張りを支えてくれている周囲の優しさや思いやりの大きさに気づき、以来、自分なりのひたむきさの質が何となく変化したという。特に医師がいつでも連絡してよいと言ってくれたことが安心感につながったことや、妻が明るく振る舞ってくれたことが救いになったこと、チームの上司から安心して治療に専念しろと言ってもらえたことなどの記述を読むと、確かに著者は多くの人々の理解と支えがあったからこそ、不幸な病にあっても幸福な闘病生活を送れたという印象が強い。

もちろん、それは日頃精進を怠らない著者のラグビーに賭ける情熱とひたむきな姿勢が周囲から評価されていたという前提があってのことであろうが、実際にはこの著者の場合も、最初はなかなか診断がつかずに苦しんだように、パニック障害に対する一般世間の理解は十分なものとは言えず、心密かに傷ついている患者が少なくないというのが実情である。

パニック障害は何も心が弱いからなるのではなく、著者のような人並み以上の体力・精神力の持ち主もなりうるのだという事実や、またチェーホフや谷崎潤一郎など優れた才能の持ち主も生涯の一時期パニック障害に陥っていたという事実は、この病に対する誤解や偏見を解くうえでも指摘しておいてよい事実であろう。

(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)