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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年9月号

1000字提言

ふたりの息子

田辺和子

お子さんを亡くした親御さんが「あの子と今も毎日、話しているんですよ。あの子は私の中で生きているんです」というようなことを言われることがある。

愛する人が亡くなる。悲嘆にくれる日々。それを癒すのは時間。やがて亡くなった人は愛する人の心に蘇ってくる。そうなるともう永遠の命を授かったのと同じだ(と想像する。私はそれを経験していない)。寂しさから立ち直るというのはそういうことなのだろう。

しかし、そうした言葉を口にできない人たちがいる。高次脳機能障害。事故や病気で脳を損傷したことによりさまざまな症状が現れる。記憶の保持ができず、トンチンカンな振る舞いをするようになることもある。人格の変容はさまざまだ。まるっきり別人としか思えなくなる人もいる。その人らしさが消える。その人になかったものが現れる。障害をもつ以前のその人はこの世にいなくなったのだろうか。

私の仲間である、高次脳機能障害の当事者の妻や母親のことば。「明らかに夫として頼りにしたり求めたりするものがなくなりました。私の中で夫というパートナーは存在しなくなりました。以前の彼を今の彼に重ねることもなくなりました。今ここにいる人を家族の中の大事な人として思っています」「今の息子を愛しています。奇跡が起こって障害前の彼に戻ったら、昔の息子が障害をもち別人になってしまった時の喪失感と同じように、今度は今の息子がいなくなったという喪失感に襲われるような気がします」。

交通事故で高次脳機能障害をもった息子さんをその後、亡くした人がいる。「息子をふたり亡くしたと思っています。受傷前の彼と受傷後の彼のしぐさや表情を思い出します。それは別々のふたりです」。

以前の存在が消えた悲しみを「さよならを言わない別れ」「儀式のない別れ」と言った人がいる。割り切れない思いの中で新しい日常が始まり、月日が経過する。元に戻ることはないことを知る中で新しい人への慈しみが育っていく。しかし、お子さんを亡くした親御さんが、「今もあの子は生きている」と日常にあの子を取り戻したように、高次脳機能障害の家族を持つ人たちは、自分の胸の内に確かに存在している。しかし、現実にはいなくなってしまったその人を取り戻せるのだろうか。「昔を懐かしんでばかりいないで、今、目の前の人のことを考えるべき」というアドバイスにすっと口をつぐむ。体験したことのない人は分かるはずがないのだと思う。

高次脳機能障害について関心を持つ人が増えてきた。難しいことではあるが、支援に携わる人たちにこういうことを伝える必要があると思うようになった。

(たなべかずこ 高次脳機能障害を考える「サークルエコー」代表)