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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年10月号

トピックス

障碍者対策ことはじめ―身体障害者福祉法はこうして誕生した。

わが国が障碍のある人々に向けた施策を開始したのは、敗戦後の米国の占領下でした。

最初の法律である「身体障害者福祉法」(1949年成立、翌年4月施行)も、連合国軍総司令部(SCAP―GHQ)公衆衛生福祉部リハビリテーション課の指導の下で作られたものです。その担当者であったミクラウツ氏(当時34歳、現在91歳)が本年7月末に訪日され、本協会金田一郎会長を表敬されました。この絶好の機会に、元GHQ本部ビルを望む皇居前「竹橋会館」にて、「障碍者対策ことはじめ」を回顧していただきました(以下 Mはミクラウツ氏、金田は金田会長)。

金田 皇居堀の前の並びに旧GHQのビルが保存されています。40年ぶりに日本をご覧になってのご感想は如何ですか?

 あそこ(皇居前広場)で多くの人々が亡くなったことを思い出して悲しい気持ちになりますが、当時、焼け野原であった場所が、今はパリかニューヨークか分からないほどのビルの林立に変わりました。戦後、日本が戦争をしなかったことによる驚くべき発展です。その間アメリカはずっと戦ってきており、現在も戦争をしていて社会は疲弊しています。何と愚かなことでしょう。

金田 障碍者対策の開始については、お亡くなりになりましたが、厚生省(現 厚生労働省)の先輩であった葛西嘉資(かさいよしすけ)さんや木村忠次郎さんなどからお話を伺ったことがありますが、日本政府側からの提案によるものなのでしょうか?

 占領政策にはリハビリテーション対策が必要であると考えられ、公衆衛生福祉部(PHW)の「管理およびリハビリテーション課」は占領当初から設置されていたのです。日本の戦後社会は混乱と窮乏の中でしたが、特に戦災で傷ついた多くの人々が街を浮浪したり、乞食をしている悲惨な状態でした。病院や施設には障害のある人々が溢れて、不衛生な中で、治療も受けられず家族とともに塵のように捨てられている状況でした。PHWの担当者たちは、この酷い状態を何とかしなければと思っていたのですが、この雰囲気が日本政府に伝わり、厚生省が障害者施策の開始を打診してきたのだと思います。

金田 傷痍軍人の優遇は全く駄目だということで、障害の問題をなかなか言い出せなかったと聞いていました。

 日本の非軍事化はSCAPの重要方針であり、また米国人の感情は、傷痍軍人といえども戦った相手を決して許さないという厳しいものでした。米国の世論、その多くは議員からでしたが、傷痍軍人を対象にすることは全く論外でした。一方で、SCAPは無差別平等を社会保障政策の原則としていましたから、障碍だけを特別に扱うことには反対だったのです。

私は米国向けの記者会見をセットして、障碍対策を進めることを発表しました。その際、当時の推定障碍者60万人のうち60%は傷痍軍人であるので、他の障碍者と同じ権利を与え差別しない方針を公表したのですが、マッカサー元帥を含めSCAPからのお叱りはなかったのです。

金田 リハビリテーションは日本では「更生」と翻訳されましたが、障害者だけが対象ではなかったようですね。

 PHWのリハビリテーションのほかに犯罪者と売春婦も対象としていました。当時の米国の関心は、これらの人々の権利の回復や社会参加にもあったのです。

金田 身体障害者福祉法の対象として精神障害者も検討されたのは本当ですか。

 当然、すべての障碍の種類を対象とすべきと考えました。法案の検討にはすべての種類の障碍関係者がそろったのです。特に精神障碍に関しては、PHWの精神保健福祉士であるフローレンス・ブルガーやそのほかの医療ソーシャルワーカーもいて検討に加わりました。

身体障害者福祉法(注)は、現在のように身体障害と精神障害の区別を意図するものではありませんでした。このことは、都道府県の福祉施策担当者に行った研修会(1949年10月実施)でも明確に示しました。

金田 これは、日本最初のリハビリテーションの講義でしたね。全文が米国の公文書館に残っていますが、そこで強調された〈差別禁止条項(第3条)〉を法律に入れるようにしたのはミクラウツさんですか?

 はい、私の指示です。アジア各国や沖縄・朝鮮での救援活動の経験では、どこでも障碍のある人たちは不当に虐げられていました。このような差別的な状態を改めない限り、新しい法律がつくられ施策が始まっても、何の効果もないと危惧したのです。

また、私の少年時代に家にいた黒人メードのことや、ニューヨークの大施設に閉じ込められている精神障碍のある人々をみたことなど、米国における差別に関しても強い憤りをもっていました。

金田 お手本にした米国のリハビリテーション法が差別禁止を入れたのは1973年ですから、それよりも25年も早く先駆的な条文が日本にあったのです。今日は、こちらの記録には残っていない貴重ないろいろなお話を聞くことができて大変うれしかったです。特に、身体障害者福祉法制定にあたっての米国側の熱心さと、あの困窮時での日本側の先輩たちの真摯な取り組みが伺えたことは感激です。

 現在、私は回顧録を執筆しています。毎週日曜日の9時から10時まで口述してまとめていますが、あと2年はかかるのではないかと思っています。

金田 それはそれは、ぜひ読ませていただきたいものです。楽しみにしております。

 ではそれまでお互い元気で過ごすことにいたしましょう。

[通訳とまとめ:丸山一郎(本会理事、埼玉県立大学教授)]

※「障碍」という表記は、ミクラウツ氏が着任された当時は、日本で使用されておりましたので、合わせました。

(注)身体障害者福祉法(1949年制定当時)第3条(差別的取扱の禁止):国、地方公共団体及び国民は、身体障害者に対してその障害のゆえをもって不当な差別的取扱をしてはならない。


フェルディナンド・ミクラウツ氏(1915年ニューヨーク生まれ、現在91歳)

敗戦後、1945年から7年間占領政策を行った「連合国軍総司令部(SCAP―GHQ)・公衆衛生福祉部(PHW)・管理およびリハビリテーション課」の責任者(1948年11月―1949年11月の1年間)。この前後、氏は米国赤十字の難民や帰還兵や災害担当者として、中国、韓国、沖縄と本土、東南アジアなどで救援活動に従事した。米国公文書館にはPHWの膨大な資料が保存されているが、ミクラウツ氏のサインした記録もダンボール数個に及んでいる。