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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年1月号

障害者の権利をめぐる国内の政策課題

野沢和弘

福祉施設や雇用の場や学校で障害者への虐待が後を絶たない。毎年、各地でひどい被害が報告されているが、国は児童や高齢者に関する虐待防止法は制定しても障害者への法整備をしようとはしない。超党派の国会議員と厚生労働省が障害者虐待防止法の制定に向けて動き出した時期もあったが、郵政民営化をめぐる衆院解散・総選挙でキーパーソンの議員が複数落選し、障害者自立支援法をめぐる混乱もあって、虐待防止法の方はまったく動きが止まってしまった。また、日本弁護士連合会などは障害者差別禁止法案を独自に作成し、国に制定を働きかけているが、政府の反応はかんばしくない。

こうした中で2006年10月に成立したのが「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」である。自治体版の障害者差別禁止法ともいえる。憲法や地方自治法の制約から、条例を運営する委員会は県知事の付属機関にしか位置づけられず、独立性に関しては限界があるのは事実だ。罰則規定がなく、悪質な差別行為を公表できるとした規定も県議会の反対で削除せざるを得なかった。

しかし、そうした問題を差し引いたとしてもこの条例には大きな意義がある。詳しくは千葉県のホームぺージ(http://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/c_syoufuku/keikaku/sabetu/170120sabetu.html)を見ていただきたいが、この条例の特徴は、差別している人を見つけ出して罰しようというものではなく、障害者の特性や暮らしにくさについて理解を促すことによって差別を解消していこうというものだ。障害を定義し、差別について分野ごとに類型を示して定義し、これらに当てはまるものについては、1.相談員、2.広域専門指導員、3.調整委員会などの機関が、仲介、調停、勧告などによって解決に努める。また、教育や啓発を重視し、障害当事者と関係団体と県による推進会議が、個々の差別事例から浮かんできた普遍的な課題を解決するために政策立案に努めることも盛り込まれている。

条例制定に先立って千葉県の担当課はどんな差別事例があるのかを県民から募集した。800件を超える事例が集まったが、その多くは差別とは気づかずに行っているものだった。誤解や理解不足や無関心から障害者の痛みに気づいていないのである。こうした人に罰則をもって迫っていったら、障害者を敬遠し反発する空気を醸成してしまうのではないだろうか。また、罰則を設けると、だれが見ても差別だと疑いを差し挟めないものにしか適用できなくなり、差別であることを立証する責任も障害者側が負わねばならなくなる。「汚いものを見るような視線を浴びた」「白い目でジロジロ見られた」などという「小さな差別」は障害者や家族の自尊心を傷つけ、無力感を身につけさせ、虐待されても声を上げられずに泣き寝入りする心理をつくっていく。虐待や差別の本質的解消のためには、心の底からの意識改革をはかっていくしかない。罰則ではなく理解を促す取り組みを進める意義はこういう点にある。

千葉県では政策立案段階から「官」と「民」が一緒に会議をして福祉施策をつくっている。2005年1月に条例をつくるための「研究会」が発足したが、その研究会は公募によって選ばれた29人の委員で構成された。目の見えない人、耳の聞こえない人、精神障害の人、車いすの人、知的障害者の家族……。委員たちはそれぞれ自分たちの障害が一番大変なんだとばかりに主張した。なかなか議論は先に進まず、障害者同士が手話通訳を介して激しい議論をはじめたりもした。企業関係者も4人が委員になっていたが、黙って下を向いたままだった。言葉の話せない重度の知的障害のある息子がいる私は心の中で思った。〈ここで議論ができるのだからまだいいじゃないか、重度の知的障害者はこういう会議にすら出られないのだ〉

しかし、委員の話を聞いていると、耳の聞こえない人も独特の疎外感や孤立感にさいなまれ、周囲から誤解されて生きていることが実感できるようになってきた。また、精神障害の人は絞り出すような声で「名前を隠さなければ生きていけない」「家族からも隠れて生きている」と言う。

目の不自由な人はこんなことを言った。「神様のいたずらで、障害者はどの時代でもどの町でも一定の割合で生まれる。だけど、この町で目の見えない人が多くなったら、どうなるか。私は市長選に立候補する。そしたら、目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、灯りをすべて撤去する。そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。『なんて公約をするんだ。だいたい夜は危なくて通りを歩けやしないじゃないか』と。市長になった私はこう言います。『あなたたちの気持ちはわかるけれども、一部の人たちのわがままには付き合いきれません。少しは一般市民のことも考えてください』。そう、視覚障害者である私たち一般市民ににとっては、灯りなんて何の必要もない。そのために地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわがままを言うんだろう」

障害の問題の本質は、何かができるかできないかということではない。どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのかいないのか、という点にあるのだ。

私は知的障害者だけが特別に大変な思いをしているのだとは思えなくなってきた。それぞれの障害者がお互いの苦労に共感するようになり、お互いに折り合いをつけなくてはいけないと考えるようになった。

関係団体のヒアリングも実施したが、中小企業の経営者からは厳しいことを言われた。

「障害者だからといって甘えないでほしい。10年に及ぶ日本の不況の中で、中小企業は一体どれだけつぶれていったのかをあなたたちは知っているのか。障害者を雇いたくても、会社を維持するだけで大変なんだ」

実は、その経営者には重度の知的障害の息子がいて、会社の経営は苦しいけれども障害者を雇っている人だった。ほかの経営者仲間にも、障害者を雇うように一生懸命働きかけていた。「障害者のつらさを訴えているだけでなく、企業や社会のことも理解しなければ、世の中は障害者を理解しようとはしないよ」ということを言いたかったのだ。

私たちは障害者同士で折り合いをつけるだけではなく、社会とも折り合いをつけなくてはならないのじゃないかと考えるようになってきた。

こうした研究会の議論が日本ではじめて成立した障害者への差別をなくすための条例の下敷きになっているのである。地方分権が進められ、福祉に関する権限も税財源も身近な自治体に移ってくるようになる。自らの生活は自ら決め、守っていかなければならない。障害者のことを地域社会に理解してもらい、障害者も地域社会を理解するようになってこそ、障害者の自立と社会参加は進むのではないか。そのための条例なのである。

しかし、どんなに立派な条例案をつくったところで県議会で可決されなければ施行されない。ところが、千葉県議会は堂本県政に対して野党宣言する自民党が7割の議席を占めていた。

06年2月議会では「統合教育を求める運動が勢いづいて就学指導の現場が混乱する」「予算の裏付けがなくては絵に描いた餅になる」などと反対意見が相次ぎ、継続審議にされた。

6月議会でも議会の批判は収まらず、条例案はいったん撤回にまで追い込まれた。170席の傍聴席が埋め尽くされた中で、条例案の撤回が決まったとき、傍聴席の障害者や家族は落胆して立ち上がれなかった。

しかし、障害のある人や家族はあきらめなかった。県議会のたびに傍聴に訪れ、議員を一人ひとり説得して歩いた。それまでは、だれが県会議員なのか、いつ県議会は開かれるのか、どうすれば傍聴できるのか、私たちは何も知らなかった。

県内各地で開催した勉強会では、どこでも地元の県会議員や市会議員が参加して熱心にメモを取る姿が見られた。知事や県庁職員も一丸となって動き回った。あれだけ反対していた自民党内にも賛成の声が静かに広がっていった。

これは紛れもない「市民立法」である。ほんとうの意味での地方自治を築いていくのに何が必要なのか、千葉で起きた小さな奇跡が教えてくれるはずだ。

(のざわかずひろ 千葉県障害者差別をなくす研究会座長)