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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年7月号

文学にみる障害者像

14年ぶりの公演に向けて 石牟礼道子原作・砂田明脚色
ひとり芝居「天の魚(いを)」

佐藤健太

はじめに

昨2006年9月15日から24日にかけて、和光大学創立四十周年記念行事の一環として「水俣・和光大学展」が開催された。会場となった新体育館内のダンス演習室において、じつに14年ぶりにひとり芝居「天の魚」1)が上演された。

この歳月の開きは、かつて「天の魚」の舞台を556回にわたって演じた故砂田明が志半ばにして病に倒れ、その後、後継者がいなかったためである。正確を期して言えば、砂田の後を継いで演じたいとの申し出はあったそうだが、エミ子夫人が許可しなかったという。

和光大学展において演じたのは川島宏知。舞台芸術学院の学生時代に砂田から演劇の教えを受け、1970年から砂田が行った「劇・苦海浄土」の全国巡演に幾度も参加し、晩年まで砂田の芝居活動を支えてきたうちのひとりである。さらに言えば、川島は巡演に参加した者たちの中で、現在に至るまでただひとり演劇活動を続けてきた。和光大学展を前にちょうど60歳を迎えた。

砂田明と水俣病闘争

このひとり芝居は石牟礼道子の『苦海浄土』2)の第4章「天の魚」(「九竜権現さま」「海石」の二節で構成されている)を原作とし、これに砂田が脚色を加えたものである3)。胎児性水俣病である江津野杢太郎少年の家を訪ねたあねさんに向かって、祖父(江津野老)がひとり語りをする。天草弁による語りが一家の受難に満ちた生を読者に生々しく想起させ、『苦海浄土』の中でも第3章「ゆき女聞き書き」とならんで圧巻である。

江津野老が抱く(舞台上は役者によるパントマイムである)胎児性水俣病に侵された杢太郎は「口はひとくちもきけん。飯も自分じゃ食やならん。便所も行きゃならん。それでも目は見え耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごと深」4)く、彼は江津野老によってしばしば仏になぞらえられる。この芝居は江津野老だけでなく杢太郎も主役といっていい。

脚色および主演した砂田明は1928年に京都で生まれ、19歳のとき上京し、東京で新劇俳優として役者人生をスタートさせた。「平均的軍国少年」だった砂田は、敗戦を機に右往左往する大人たちを見て大きな失望を覚える。「自己に忠実に生きよう」と決意し、「……突然、「役者になろう!」という、明確な意欲が、自己主張が、内部から噴き上げてきた」のだという。二十数年にわたる東京での役者生活の中で「平均的大人として戦後社会の中にちんまり納まっている自分の姿」を発見したそのころ、石牟礼道子の『苦海浄土』と出会い衝撃を受け、急速に水俣病運動に接近していく5)

この時期は水俣病闘争が大きな展開を見せたころであった。1968年9月26日に政府が水俣病を公害病と認める見解を発表し、翌1969年には加害企業であるチッソに対して、患者互助会の訴訟派が損害賠償を求めて提訴、環境庁(現 環境省)発足の1971年12月、チッソ東京本社前での座り込みが行われた。

1970年6月に結成された「東京・水俣病を告発する会」で砂田は世話人を務め、主宰する劇団「地球座」の団員や学生らとともに、「東京―水俣巡礼団」を結成した。その後、「劇・苦海浄土」6)を携えて全国を巡演、1979年に水俣へ移住し「天の魚」の全国勧進行脚を開始する。1992年までに「天の魚」は上演556回を数えたが、砂田は病に倒れ1993年に亡くなった。享年65歳だった。このようにひとり芝居「天の魚」は、稀有な文学作品と水俣病運動、そして演劇人が出会うことによって生まれた。それゆえその舞台は、告発劇の色合いを濃くしていたといえよう。

別れて、またつながる

じつのところ砂田の水俣移住については、今回主演を務める川島宏知もふくめ幾人もが反対や懸念を表明したようだ。岩瀬政夫は当時の日記にこう記している。「砂田さんは役者であるということを抜きにして水俣を語り得ない。役者はどこに行っても虚構の中に生きられるということを忘れてはならない。水俣の実像を虚構に写しかえ、その中で生きることのできる人だ」「砂田さんは水俣に寄生しようとしている」7)水俣に惹かれ移住してしまう砂田の軽さは一種の才覚であり、その生を全うした点においてきわめて幸福な人であった。

厳しい批判を記した岩瀬は砂田とともに過ごした闘争の季節を終え、「生活の場」を水俣ではない離島に築くことを求めて別の道を歩いてゆく。そして川島は東京にとどまり、商業主義のはびこる世界で役者として生き抜いてゆくことになる。砂田の後を襲うまでに14年という歳月を要した理由の一端はそこにある。

川島は先述したとおり、砂田の巡演に長く同行していた。参加の動機には『苦海浄土』を読んだ感動があった。「劇・苦海浄土」の巡演中、川島には忘れられない経験があるという。まだ20代だった川島はその旅程で胎児性患者のひとりと親しくなった。水俣の公会堂で劇中ただひとりの悪役である厚生省(現 厚生労働省)の役人を演じたところ、その子が劇であることを忘れ、川島に向かい指を指し「なんばいうか!」と激しい抗議を口にした。川島と水俣をつなげているのは、このエピソードに代表される若き日の水俣で会った人々との記憶だ。

ひとり芝居「天の魚」はその舞台の幕開けから終盤まで、仮面劇として展開される。細い目と鼻の部分をのぞき、異様に大きくぽっかりと開いた口が顔の広い面積を占めている仮面8)を役者は被って演じる。病に侵された一家の歴史を、ひとりでは生きてゆけない孫杢太郎への愛惜を、また水俣の海の豊穣さ、美しさを語るとき、この一見無表情な仮面がさまざまな顔を見せる。

江津野老が語り疲れあねさんの前で眠りについた後、舞台は急速に溶暗し、まばゆい光とともに壮年のころに還った江津野老が現れ、生き生きと鹿児島ハンヤ節にのって踊る。この仮面がはじめて外されるのが、このラストにおける失われた幻想の時間であるのは、いっそう悲しく私の目に映る。

砂田明が演じはじめた時代と比して、現在はさらに人は病んで、自然にも他者に対しても敬う心を喪失してしまっているかのようだ。この芝居を通して人としての在り様を問い/問われ続けることは、今後ますます重要性を増していくように感じている。

(さとうけんた 東京不知火座)


【参考文献】

1)本年9月19日(水)から22日(土)、タワーホール船堀小ホールにおいて本公演が行われる。原作/石牟礼道子、脚色/砂田明、潤色・演出・主演/川島宏知(江津野老)、琵琶/田原順子、笛/設楽瞬山、ナレーション/金澤喜久子。主催は東京不知火座(代表 岡村春彦)。お問い合わせは、江戸川区中央2―4―18 ほっと館 石橋こどもクリニック内、電話・ファックス:03―3653―1130、Eメール:info@tennoio.jp、http://www.tennoio.jp/index.html

2)副題は「わが水俣病」。「サークル村」に発表された「奇病」を皮切りとして1965年から「熊本風土記」に「海と空のあいだに」のタイトルで続編を発表。1969年に講談社から刊行された。1972年講談社文庫、2004年新装版刊行。

3)砂田による脚本「〈現代夢幻能〉天の魚」は、砂田明『海よ母よ子どもらよ 砂田明・夢勧進の世界』(樹心社、昭和58年)に収録されている。

4)前掲「〈現代夢幻能〉天の魚」。

5)砂田の来歴については前掲『海よ母よ子どもらよ』の1「夢勧進・問わず語り」を参照。

6)「劇・苦海浄土」は石牟礼の原作から「天の魚」の章を除いて演劇化されたものである。この興行に同行した学生のひとりである岩瀬政夫の日記(1970年4月27日≠P972年4月8日におよぶ)によると、1971年1月25日から本格的な稽古が始まったと記録されている。岩瀬政夫『水俣巡礼 青春グラフィティ’70~’72』(現代書館、1999年)を参照。

7)前掲岩瀬『水俣巡礼』第5章「告発」参照。

8)この仮面は、水俣出身の画家である秀島由紀男の作品をモデルとしてつくられた。