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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

障害をもつ人々の〈自己〉表現と文学活動
~特集「障害を超えた芸術交流」に寄せて

荒井裕樹

障害と芸術の関係は非常に難しい。ある表現者の芸術作品や内的世界を捉えて、それがどの程度障害とかかわるものなのかは個々の表現者によってさまざまであり、一概に言うことなどできない。しかし一方で、間違いなく自身の障害を芸術の動機としてきた人々がいたことも事実である。

私がここで何かを言えるとしたら、障害を動機としてきた芸術の中でも特に文学に関して、それもある特定の障害をもつ人々が担ってきた文学及び文学活動の、しかもある一側面に関して、という非常に限られたことについてだけである。そのことを、まず初めにお断りしておきたい。

いま、ここにいて、喜んだり悲しんだりしている自分自身。自分自身が大切にしたい自分自身の考え方や心のありようを、多少仰々しいけれど、ここで〈自己〉と呼んでおきたい。日本のように調和や協調が重んじられる社会では、障害をもつ人など、周りと違う性質を持ち、弱い立場にいる人が、公に〈自己〉を表現することは容易なことではない。それは長らく障害をもつ人々が、生きていくうえでの当然の権利を主張することさえ難しかった事情を見れば分かる。

重要なのは、現在のように障害をもつ人々が、芸術や文化をはじめさまざまな分野において、自信を持って〈自己〉を表現できるようになった要因に何があったのか、その歴史を知ることである。そして一部の障害をもつ人たちにとっては、文学が〈自己〉を育み、表現するために重要な役割を果たしてきたのである。その様子を二つの障害を例に採り上げ、概観してみたい。

まずはハンセン病を採り上げたい。この病気を厳密な意味で障害と言えるかどうかは難しい。しかし施設への隔離という、障害にまつわる核心的な問題を最も極端な形で示した事例ではある。周知の通り、かつて(そして今も)ハンセン病患者(回復者)たちは苛酷な差別を受け、家族や友人から引き離されて人里離れた療養所に隔離された。

そのハンセン病療養所では、場所によっては明治期から患者たちによる文学活動が営まれていた痕跡が窺(うかが)える。ただ初めのうちは、俳句や短歌を作り、仲間内で評し合うといった、いわば無聊(ぶりょう)を慰める程度のものであったようだ。しかし療養所の文学活動も時と共に成熟し、人間とは何かを問い返すような、深い思索の果てに生み出された文学作品が登場するようになる。代表的な例として、北條民雄や明石海人などが挙げられるだろう。

ハンセン病患者の多くは身元を隠し、家族や友人との縁を切り、一切の社会的役割を剥奪されて療養所に入所してくる。つまり自分という存在が零(ぜろ)となってしまうのである。一たび零となり絶望の底に落とされた患者にとって、〈自己〉を表現するのは極めて難しい。表現すべき〈自己〉そのものを喪失してしまったからである。北條民雄も、いつでも創作を始められる用意をして入所したにもかかわらず、実際に筆を執るまでに(それも私的な日記)、約2か月間も沈黙し続けていた。

その意味で興味深いのは、療養所の文学活動の多くがサークル形態をとっていたということである。つまり文学活動は、療養所内で仲間を作る貴重な場でもあったのである(孤高の作家と言われた北條民雄にも、「いのちの友」と評された親友・東條耿一がいた)。患者たちは文学活動を通じて、苦しみを表現する言葉を学び、自分を受け入れてくれる仲間を作り、そして再び〈自己〉を探究し表現する力を手に入れたのである。

また虚構性や匿名性が保障される文学は、身元を隠さねばならない患者にとって好都合であったうえに、療養所の機関誌や文芸誌などを通じて、社会と繋がれる貴重な機会でもあったようだ。患者たちは自分たちの作品が療養所の外でだれかの眼に触れ、間接的にも社会と繋がれることをひそかに期待したに違いない。ただしそのことは、患者たちにとって自分という存在を刻み込める場所が、小さな文芸欄の中だけであったという悲しい事態の裏返しでもあった。また、かつての療養所は規制が厳しく、患者の文学も検閲を受け、常に監視下に置かれており、いわば制限された中での小さな自由であったことも付言しておきたい。

敗戦後、ハンセン病患者たちは「らい予防法闘争」(1953年〔昭和28年〕)という激しい人権闘争を繰り広げた。ハンセン病患者による社会運動は、世界的にも極めて稀な出来事である。この背景には新憲法の制定や左翼政党の活躍があった。しかしここで留意しておきたいのは、権利を制度的に保障されることが、必ずしもそれを行使する主体性の芽生えに直結するわけではないということである。そこには、それまでに患者一人ひとりが文学を通して、〈自己〉を表現する勇気を培ってきたことが大きな要因としてあったように思われる。事実、「らい予防法闘争」を指導した患者の中には、療養所の文学活動でも重要な役割を果たした人たちがいたのである。

次に身体障害、特に在宅障害者を採り上げよう。戦後は在宅障害者の文学活動にも重要な変化が生じてきた。それまで在宅障害者の文学と言えば、富田木歩や素木しづのように、障害をもちながら一般の俳壇や文壇へと果敢に挑戦した人びとによって担われたものが中心であった。その意味で1947年(昭和22年)に文芸同人団体「しののめ」会が結成され、同人誌『しののめ』が創刊されたことは画期的な出来事であった。

「しののめ」会は花田春兆を中心として、東京光明学校(現・都立光明養護学校)研究科生徒の手によって結成された。同人の多くは光明学校卒業生で、東京近郊在住の比較的重度の脳性マヒ者であった。手書きの廻覧誌として出発した『しののめ』も、1950年代後半には体裁も整い部数も拡大し、60~70年代にかけては特に在宅障害者を中心に、他障害の人々も広く受け入れながら、全国各地に同人の輪を広げていった。

自宅の奥深くに押し込められ、個々に散在してきた在宅障害者たちが、同人雑誌を通じて結びつき、心理的な連帯感と家族以外への帰属意識を得たことの意味は大きい。同人たちは日々直面する心の痛みを文学に託し、また同じような境遇にある同人の作品に触発されながら、雑誌と会合を通じて、それまで家族にも打ち明けられず、孤独の内に噛みしめてきた感情を表現し合える仲間を獲得していったのである。

現在ほど障害をもつ人々の社会参加が進んでいなかった当時、在宅障害者が触れられる世界は極めて限定されたものであった。日常生活の多くで家族の手を借りなければならず、プライバシーも保障されにくい境遇にいる人々にとっては、家族という閉じられた関係性が世界のすべてになりかねない。そのような中では、家族の利害とは異なる自分自身の考えを持つこと、またそのような自分を大切にすることは想像以上に難しい。その意味で、在宅障害者が家族以外の世界に触れ、障害をもつわが身の人生について思索を巡らし、〈自己〉を温める場として『しののめ』は重要な役割を果たしてきたのである。

また「しののめ」会を母体として、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」が誕生したこと(1957年〔昭和32年〕)や、横田弘をはじめとした障害者運動のリーダーたちが数多く巣立っていったことなども見落とせない。「しののめ」会は人と思想が交流する場として、1970年代に花開く障害者運動の重要な土台を形成していたのである。

70年代の障害者運動は「脱施設」のみならず「脱家族」を唱えて社会に衝撃を与えた。どんなに障害が重くとも、家族によって代弁されない、他ならぬ私自身を大切にしたいという考え方も、このような仲間との繋がりの中で育まれてきた、小さな〈自己〉の芽が花開いた結果であったと言えるだろう。

以上、私が述べてきた事柄は、当然のことながら物事の一つの側面に過ぎない。これ以外にも、本来ならば紹介しなければならない雑誌・団体・個人も多く、また具体的な文学作品を引用して鑑賞したいところなのだが、紙幅の都合から割愛せざるを得ない。詳しくは、本特集に寄せられた各氏の優れた文章と作品に譲りたい。

ただここで強調しておきたいのは、障害をもつ人々の〈自己〉表現の歴史において、文学は想像以上に大きい役割を果たしてきたということであり、この点はこれから検討と評価が進められて良いのではないかと思うのである。

(あらいゆうき 東京大学博士課程)