「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年4月号
追悼
丸山一郎さんの「共生の人生」を偲ぶ
板山賢治
丸山一郎氏略歴
- 学歴
- 昭和41年3月 慶應義塾大学工学部卒業
- 昭和44年6月 米国サンフランシスコ大学卒業
- 職歴
- 昭和41年4月 (福)太陽の家
- 昭和45年6月 東京都心身障害者福祉センター
- 昭和47年4月 (福)東京コロニー福祉工場長
- 昭和55年1月 厚生省社会局身体障害者福祉専門官
- 昭和55年3月 内閣総理大臣官房国際障害者年担当参事官補
- 平成2年7月 (社)全国社会福祉協議会障害福祉部長
- 平成4年4月 アジア太平洋障害者の十年推進NGO会議事務局長
- 平成8年4月 (財)日本障害者リハビリテーション協会企画研修部長兼国際部長
- 平成11年4月 埼玉県立大学保健医療福祉学部教授
丸山一郎さんの社会的活動の40年は、まさに「共生の人生」というにふさわしい。
丸山さんの「共生の人生」の序曲は、昭和39年、慶応大学在学中に日本赤十字社語学奉仕団の一員として東京パラリンピックに参加、障害者選手団の国際的格差の存在に驚愕・開眼した時にはじまる。そして中村裕(ゆたか)博士との出会いから別府・太陽の家の創設に参加、アメリカ留学を経て東京都心身障害者センターから東京コロニー運動に参画するまでの15年余につながる。
昭和55年1月、私は、厚生省障害福祉専門官の辞令を丸山さんに渡した。思えばそれからの25年余、丸山さんの「共生の人生」は絶えず私との「二人三脚」ともいえる歩みであった。内閣官房国際障害者年担当室への転出、全国社会福祉協議会障害福祉部長への招へい、日本障害者リハビリテーション協会国際部長への就任。その間におけるアジア太平洋障害者の十年NGO会議事務局長、日本障害者協議会副代表等の兼職を通じて果たされた国内外の障害者団体およびリハビリテーション専門職団体等の「つなぎ役」「相談役」「エンジン役」等の超人的ともいえる活躍の数々。そして、平成9年、埼玉県立大学保健医療福祉学部への転身を決意されるに至る経緯も考えてみれば、丸山さんと私との絆から生まれたように思われる。
丸山さんと私の年齢差は16歳。その年齢差を超えて、よきパートナー、同志ともいえる行動をとり得たゆえんのものは、何であったろうか。
一つには、障害者問題への開眼の動機、原体験が同じ東京パラリンピックであったことかもしれない。
二つには、国際障害者年の成功・外圧を活かして、遅れている日本の障害者施策の前進を、という共通の「志」が最大の理由ともいえよう。
三つには、障害当事者およびリハビリテーション専門職の幅広い結集とそのエネルギーこそがすべての原動力という共通の確信を持っていたからだとも思う。
「丸山さんをお役人にした課長の声を聞きたい」という秋山ちえ子さん、「一ちゃんを活かして育ててネ」と挨拶にみえた日赤奉仕課長の故橋本祐子(さちこ)さんなど、丸山さんは人に愛されていた。昭和56年1月22日の読売新聞の「ともに生きる」欄は「民間から抜てきの専門官」―身障者を代弁する行政めざす―と丸山さんの顔写真入りの記事を掲載、大きな反響を呼んだものである。
障害者問題を国際的視野に立って考え、絶えず障害者の立場に立ちつつ、リハビリテーション専門家として改革への挑戦を続けられた丸山一郎さんの志を継承する人々の存在を確信しつつ、哀惜の辞としたい。
(日本障害者リハビリテーション協会顧問)