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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年5月号

文学にみる障害者像

不安とともにある〈わたし〉
―山本昌代「猫」―

後藤聡子

対他関係にまつわる不安というのは、多かれ少なかれ、誰もが抱くものであろう。不安が色濃く世界に立ち込めるように感じられる時、ひとは時に日常世界から物理的にも心理的にも距離を取り、現実から乖離して病へと近接してゆく。そのようなひとたちの痛みを、山本昌代はいつも、緊張感に満ちた筆致で浮かび上がらせてみせる。彼女の描くひとたちは、必ずしも〈障害者〉ではないかもしれないが、日常生活に著しい困難を覚えているという点において、その延長線上にあると言えるだろう。

まず、山本の創作活動の概略を述べておこう。山本は、津田塾大学在学中、浮世絵師・葛飾北斎とその娘応為を描いた「応為坦坦録」(「文藝」83.12)で第20回文藝賞を受賞し、作家としてデビューした。以後、『文七殺し』(河出書房新社、85)、『江戸役者異聞』(河出書房新社、86)などを刊行し、江戸の人間模様を飄々とした文体で綴る作家として注目を浴びる。一方で、「豚神祀り」(「新潮」86.8)、「春のたより」(「新潮」87.4)といった現代家族の崩壊を描いた作品を発表し、両作品とも芥川賞候補に挙げられた。しかし、「善知鳥」(「文藝」87夏季)と「朝顔」(「オール讀物」87.8)の発表を最後に断筆期に入る。5年ほどを経て、十の掌編を収めた「小さな黄色い鯉」(「文藝」92秋季)で執筆活動を再開。以後、不安に満ち満ちた現代小説を書き継いでゆく。

本稿で取り上げる「猫」(「波」95.11、後、『水の面』に収録)は、一見たわいもない、穏やかな日常を描いたかのような作品である。しかし、対他関係にひどく怯えて自閉する一方で、特異な仕方で関係を希求する語り手「私」の葛藤を見逃してはなるまい。物語は、現在の「私」が、5、6年前までさかのぼって、5匹の猫にまつわる自己の記憶を辿ってゆくという形式をとっている。

最初の猫に出会った頃の「私」は、仕事がなく、食べるものでさえ十分に調達できないような状況にあった。しかし、「私」は住む部屋があることにそれなりに満足していたようだ。現在生じている物質的困難に関しては、「私」がひどく「呑気」であり、その感性が現実的な秩序に支えられた日常生活からは乖離していることが窺える。「私」の不安や怯えは、もっと別のところに向かうのだ。

この物語には、「私」以外の人間は気配や痕跡としてしか登場しない。「私」はさまざまな関係性を断ったところに、そっと身を置いて生きている。次の引用は、人気のない公園でサンドイッチを食べていた「私」に近づいてきて、食物を求めた最初の猫に関するものである。

《その濃茶の猫は数度ニャアニャア鳴いて、前脚を食物の方へ伸ばし、執拗に私から離れてくれない。/そっと、本当にそっと、自分の膝へ絡みついて来るその太った大きな動物を、向うへ押しやった。見ようによっては蹴っているように思われたかも知れない。/それで私は暗い気持ちになった。猫は2、3度それでも諦めずに、私の膝に前脚をかけて来た。/否、これは記憶違いかもしれない。一度の拒否で彼、か彼女か分からない、は引き下がったのだったか。》(下線引用者)

この猫に関する「私」の記憶は曖昧で、語りには怯えが滲む。「私」は、猫の行為を「執拗」「絡みついてくる」と感じて押しやるが、「見ようによっては蹴っているように思われたかも知れない」と、自分が何者かによって加害者と見なされてしまうのではないかという不安感を抱く。そこにはいない〈見る者〉は、自己に内在化している罪責感が不在の他者として外在化されたものである。つまり、自己から切り離されたものが、本来自己に属しているというラベルを剥ぎ取られたまま意識に上り、リアリティを帯びて「私」を脅かすのだ。「そっと、本当にそっと」という語りは、不在の他者に対する防衛性を帯びている。ひどく自他不分明な「私」のありようが、ここに浮かび上がってくる。

また、猫が「私をじっと見ていた」「私の目をじっと見た」「もう一度私の目を見つめた」という執拗とも思われる語りは、自らを圧迫し侵入してくるものとして、「私」が猫を捉えていることを告げている。しかし猫を「拒否」すると、今度は感じる必要のないはずの加害者意識を抱いてしまうのだ。つまり「私」は、被侵入感や罪責感を抱かずにすむ関係を対象との間に持つことができず、関係を拒否せざるを得ないのである。

最初の猫を追い払ってから1か月ほど経ったある日、「私」は散歩の途中で、一匹の猫がゴミ捨て場にあるビニール袋を破り、中に入った鱈の煮つけを食べているのを目にする。その猫は、「私」の方を「チラとも見ずに、鱈に神経を集中させていた」。

《少しの間、猫の食事をすぐそばにしゃがんで眺めていたが、鱈が白っぽくて味つけが薄そうなのと、自分が空腹であることに思い当たり、猫に少し分けて貰いたくなった。/腹が減っているということは、実は二の次で、猫といっしょに同じものを食べたいという願いがまず頭に浮かんだ。/そして私は迷わず、ビニール袋に入っている方の鱈、猫が食べていない方のである、もし食事中のそれを盗ったら盗人である、をとり出して、口の中へ入れてみた。/猫はそれでも「私」を無視して、自分の食事に熱中している。/……(中略)……/しかし私はその白身の魚を確か二タ口食べたが、猫はとうとう一度も目を上げてこちらを見なかった。》

見知らぬ猫と同じものを食べるということは、通常の人間文化を生きている者にとっては違和感のある、場合によってはおぞましい行為となろう。生理的な拒否感は言うまでもないが、共に食べたものたちの間には、否応なく親密な関係が生じてしまうからである。

山本作品には、共食の風景が現れることはほとんどない。親密な関係は、自己性の弱いものにとっては、たやすく侵入性へと反転するからであろう。この「私」もまた、自己性の脆弱さゆえに、圧迫や侵入に怯えていたはずなのだ。

しかし、この時「私」は空腹からではなく、「猫と一緒に同じものを食べたい」という願いに突き動かされたかのように、迷うことなくゴミ捨て場の鱈を口にしている。この奇妙な飛躍は、何を示しているのだろうか。

「私」が安らぎを覚える人気のない図書館の地下室は、「外の光が届くように設計された開架式」であるという。その程度の外界とのつながりは、生きる自己である以上、この「私」にとってでさえ、どうしても必要なものなのだ。関係性の希求が、猫と一緒に同じものを食べるという行為となったのであろう。過剰に接近してこようとした(と「私」には感じられる)最初の猫とは対照的に、ゴミ捨て場の猫は「私」の方を振り向きもしない。距離を前提として存在している猫は、「私」の怯えを拭う。すると、「一ト目こちらを見てくれないか」という思いが、猫に対して湧き上がってきたりもするのだ。

「私」は後に、この猫が「食べ物を分けてくれた」と語る。しかし、猫が食べていない「ゴミ」を「私」は口にしたのであり、猫はそれを意に介さなかっただけなのである。つまり、実際は猫のものを分け与えてもらったわけではないのだ。それにもかかわらず、「どうもありがとう」と礼を言い、さらに「同じ鍋の魚を共食した仲」(下線原文)と語る「私」は、ここでも猫と自分との間に関係性を作り出そうとしているようだ。

しかもその関係性は、客観的に保証されている必要はない。主観的に納得でき、もう一方の当事者である猫が拒みさえしなければ成立するものなのだ。しかし結局は、自分は最初の猫にサンドイッチを分け与えてやらなかったにもかかわらず、この猫に鱈を分け与えてもらったという罪責感が、この関係に纏(まと)わりついてゆくこととなる。

他存在との関係の生起に被侵入感を覚えて怯え、関係を拒否すると罪責感が生じる。そしてまた関係を求めるのだが、そこにもまた、罪責感が否応なく生じて怯えてしまう。「私」は〈自閉〉と〈関係〉の両極に振れながら、他存在との程よい距離感がつかめずに痛んでいるのだ。これは山本作品に通底するテーマであるが、多くの現代人にとっても無関係な事態ではあるまい。山本の描く不安とともにある〈わたし〉はいつも、静謐で強烈なリアリティをもって、読者の胸に迫ってくる。

(ごとうさとこ 麻布中学校・高等学校教諭/博士(教育学))