音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年6月号

私の学生生活とこれから学ぶ人たちへ

ごく普通に学生生活が送れる喜び

三輪佳子

障害学生がいるのが当たり前

筑波大学で大学院生としての生活を始めて1年と少しが経過した現在、受けてきた大小さまざまの支援を振り返ってみて、「ごく普通の学生生活を送ることができてありがたい」以外に、私は適切な表現を思い浮かべられない。

四肢に進行中の障害をもつ私が、もし障害ゆえに必要な配慮や支援を全く得られなかったら、私はどのような意味でも「普通」の社会生活を送ることができない。大学で「必要な支援を得ながら、ごく普通の学生として学生生活を送ることができる」ことそのものに、私はどれだけ勇気づけられているだろうか。障害に対する配慮や支援が必要でも与えられるとは限らない日本の社会から筑波大学にやってくると、私は心底ほっとするのだ。

私が受けている支援のうち最大のものは、「いろんな障害をもった学生がいるのが当たり前、受け入れるのが当たり前、支援するのが当たり前」という大学の風土であり、その風土によって整備されたインフラであると思う。研究棟・図書館・食堂・学生宿舎といった重要な場所と経路は、私の入学より以前に、すでにバリアフリー化されていた。私は最初、電動車いすで無理なくたどれる経路を見つけることに苦労したのだが、慣れてしまえば毎日の移動そのものが楽しみになった。広大な森林公園のような筑波大学のキャンパスでは、四季折々の風景を見ていて飽きるということがない。

学内での駐輪・駐車マナーは、十分に守られているわけではない。しかし、私の所属研究室のある研究棟では、どんなに乱雑に駐輪されているように見えても、車いすの通行に必要なスペースが必ず確保されている。さりげなく、非常にありがたい配慮である。

施設改善は迅速

それでも、施設改善のお願いをする必要はあった。一つ一つは「学生宿舎の共同浴場にシャワーいすを」「水栓をレバー式に」「歩道から車道へのスロープを」といった些細(ささい)なことである。対応は非常に迅速に得られた。浴場のシャワーいすは、いったん置かれたら、健常な学生も頻繁に利用するようになった。入浴にまつわる作業を安全に快適に行いたいのは、健常な学生であっても同じことなのだ。「バリアフリー化はだれの利便にもかなう」という至極当然の事実を、わがこととして実感した。

私の専門~計算機シミュレーション

私の専門は、計算機シミュレーションである。実験設備として利用しているのは、ごく一般的なパソコンである。所属研究室が私を受け入れるにあたって、必要な施設改善は何もなかった。研究室のメンバーはすぐに、私がいることに慣れ、私に何ができて何ができないのかを理解し、ごく自然に支援の手を差し伸べてくれるようになった。問題はむしろ、「できないことが増えてゆく」という現実に直面し続けている私自身が、新しい「できない」を認めたがらず、したがって周囲に支援を要請せず……といったところにある。

専門が計算機シミュレーションであったことは、私にとって非常に幸いなことであったと思う。肢体が不自由になる将来を見越して選択したわけではなかったのだが、もし専門が実験らしい実験を伴う分野であったら、障害によって研究への道は完全に閉ざされるに近かっただろう。実験ができるということは、実験で研究成果を出すために必要不可欠な最初の一歩に過ぎない。その分野に必要不可欠な最初の一歩を踏み出すことが、あまりにも大変で時間がかかりすぎるのだったら、実質的に選択できないのだ。

私は実験が嫌いなのでシミュレーションを選択したわけではなく、実験をやっているだけで幸福感を感じる、典型的な「実験屋」だった。今でも「実験がやりたい」という渇望を感じて涙ぐむことがある。しかし、自分の身体で実験を行うことに伴う危険や疲労を冷静に考えると、あまりにも無理がありすぎて、最初から断念するしかない。障害者は、障害があってもできること・障害のある自分に社会が許すことの範囲で生きてゆくしかないのだけれど、障害によって選択肢が限定されることに直面するのは辛い。

高等教育が生きる社会を

問題は実験だけでなく、社会生活・職業生活のあらゆる場面にある。教育の場である大学では、教育の問題として、障害学生支援の必要性が認識される。しかし経済競争の場である企業では、同じ人数の健常者以上の利益を示しつづけられるのでなければ、障害者の居場所はない。障害者は、特別な何かでなくては生きてゆけない。ごく普通の学生生活を送ることができるということは、将来の、ごく普通の社会人生活につながるのであろうか? たぶん、そんなことはない。

日々の学生生活や研究生活の喜びは、日本の一般社会の中で生きていくしかない自分の日常や将来を思い浮かべての悲哀と裏腹である。高等教育は、そんな社会の中でも生きられる、特別な自分を作るための手段なのかもしれない。しかし一方で、特別ではなく普通にすら足りない自分が、そのままで「普通」に生きてゆける社会を、私は望んでやまない。自分が生きていける社会があってこそ、高等教育は意味を持つのではないだろうか。

(みわよしこ・筑波大学博士後期課程数物理科学研究科2年)