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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年6月号

1000字提言

医療そして福祉に関する雑感

大里晃弘

私はこの病院での診療が3年目になる。ドクター数が少ないことから、小生の臨床業務はこの4月から急増した。小生が盲人になってから、仕事でこんなに忙しくなったのは、たぶん初めてだ。10年前にも1日に何人もマッサージをすると、とても疲れた。でもそれは、純粋に肉体的な疲れであることが多く、健康的ではあった。今はどうか。とにかく書類が多い。診察していても、カルテをパソコンで書くので時間がやたらとかかってしまう。同僚のドクターたちは、面接をしながら、聞いた言葉や症状を書き込んで終了。それに比べて小生はパソコンを音声で聞きながらキーボードをたたくので、患者さんの声とパソコンの声を同時に聞くことができないため、診察が終わってからカルテをまとめることになる。患者さんが多い時は、カルテ書きが追いつかない。さらに、紹介状やら紹介状への返事、患者さんの職場に提出する診断書、自立支援法や介護保険の診断書・意見書。小生は、職場では最近、キーボードをたたいて1日が過ぎていく。

「良い医療」というのがありうるだろうか?「患者のための医療」というスローガンもよく耳にする。しかし、小生の勤務する一般的な精神病院の約200人近い入院患者のうち、10年以上の長期入院者は多い。精神症状が改善しても迎え入れる家族がいなかったり、帰る家がないなどの理由からやむなく病棟にとどまっている「社会的入院」も少なくない。この患者さんたちを含めて、社会的自立に持っていくことが、本当に彼らのためなのか。一人ひとりに聞けば「退院したい」という人と「このまま病院で生活するのがいい」という人とに分かれる。こうした彼らの現状をつくっているのは、今までの日本の社会的な「しくみ」であろう。それは単に法制度だけではなく、社会経済の状況、社会を構成する人々の考え方や意識をも含めた構造的なものそのものである。だからと言って、現に目の前にいる患者さんの感覚や考え方を根本的に変えることはできない。とにかく、彼らは環境の変化に弱く、医療者はどこまで彼らのための医療ができるのだろうか。

視覚障害の世界でも、医療と福祉とはまだ有機的な関係が構築できていない。ここ数年来、ロービジョン・クリニックとして、両者を結びつける医療が盛んになり注目を集めている。しかし多くの眼科医にとって、失明した患者がこれからどうすべきか、どこで訓練を受けたらよいか、説明できない。「タテ割リ」と言ってしまえばそれまでだが、それでは問題は解決しない。医療は医療で、福祉は福祉で、それぞれが「タコツボ」の中で閉じこもったままでいる。タコツボを動かし変えていくために、多くの人たちの協力と実践が必要である。道のりは長い。

(おおさとあきひろ 精神科医、大原神経科病院)