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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年2月号

文学にみる障害者像

ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』
―障害あるがゆえの自由―

高橋正雄

1906年、ヘッセ(1877―1962)が29歳の時に発表した『車輪の下』1)は、一般には歪んだ学校教育に対する批判の書として読まれているが、そこでは、天才的な人物が学校教育にはしばしば不適応を示すとして、次のような教師批判が展開されている。「天才と教師連とのあいだには、昔から動かしがたい深いみぞがある」「学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである」。

ヘッセは、天才のような個性的な人物には学校が外傷的に作用するとして、「国家と学校とが、毎日現われて来る数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めている」「学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれの国民の宝を富ますものとなる」と指摘するのである。ヘッセは、同時代の漱石がそうであったように2)―『坊っちゃん』や『草枕』は『車輪の下』と同年の発表である―、天才は現実世界では不適応であると主張しているのだが、おそらくそれは、学校生活に不適応で退学を余儀なくされたヘッセ自身の自己弁護的な見解でもあったのであろう。

しかし、その一方で『車輪の下』の主人公であるハンスの言動には、単なる不適応にとどまらない統合失調症を思わせるものがあるため3)、『車輪の下』は統合失調症を発症した少年が学校を追われて故郷へ帰る物語としても読むことができる。『車輪の下』は、精神障害者のリハビリテーションという観点からも興味深い作品なのである。

ドイツ南西部、シュヴァルツヴァルトの小さな町始まって以来の秀才と謳(うた)われたハンスは、厳しい受験勉強のすえ、見事難関を突破して神学校に入る。しかし、神学校でのハンスには、次第に頭痛や集中困難、易労感などの症状が出現し、成績も低下した。さらにハンスには、空笑や幻覚のような症状も現われて自閉的な生活を送るようになったため、教師たちは彼を怒り、軽蔑し、遂には見放した。「ハンスのとほうにくれた微笑に心をいため、脱線した少年を思いやりのあるいたわりをもって遇した」教師や、「とほうにくれた微笑の裏に、滅びゆく魂が悩みおぼれようとしておびえながら絶望的に周囲を見まわしているのを見る者」は、ほとんどいなかったのである。

結局ハンスは学校を去ることになるが、神学校を辞めて帰ってきたハンスに故郷の人々は冷たかった。かつてハンスに期待して自分が持っている学問を惜しみなく与えた町の教師や牧師も、最早ハンスのことを顧みようとはしなかった。ハンスには今ほど周囲の配慮や支援の必要な時はなかったのに、彼らは、脱落者たるハンスのために時間や心づかいを費やすことなど、意味がないと思ったのである。

ハンスの父親自身、息子の「神経病」に対する不安と恐怖を抱いていた。「彼の一家にはこれまで神経病にかかったものはいなかった。そんな病人ときては、世間の人は、無理解なあざけりやけいべつ的な同情をもって、狂人のようにいうのだった。ところが、いまハンスはそういうしろものを背負いこんで帰って来たのだ」。

当時のドイツでも、精神障害者に対しては強い差別や偏見があったのである。

父親は、ハンスに対する失望の憤りを極力隠すように努めていたものの、ハンスの方では「むりに自制して自分を遇してくれる父親の遠慮がちな気詰りないたわり」に気づいていた。ハンスは「父親が自分を妙にさぐるような目で不気味な好奇心をもって見たり、(中略)それとなく気づかぬように自分をじろじろ見たりする」ことも知っていたのである。

このあたり、ヘッセは、精神障害者が自分に対する周囲の態度を結構観察しているものだということをわかっていたようである。

そうした状況の中で、ハンスは「見捨てられたきらわれ者」のような心境になっていくのだが、父親の口利きで機械工の見習いになってからのハンスは、自分の手で人の役に立つ物を作り出すことに喜びを感じるようになる。もっとも、初めて青い鍛冶屋服を着て、教師や牧師の家のそばを通る時は惨めな気持ちになった。「あれほどの苦しみも、勉強も汗も、あれほど身をうちこんだささやかな喜びも、あの誇りも功名心も、希望にはずんだ夢想も、なにもかもむだになり、結局、すべての仲間より遅れ、みんなから笑われながら、いまごろいちばんのびりの弟子になって仕事場にはいるというのが、けりだった」。

だが、ハンスは見習工として働く中で、生まれて初めて「労働の賛歌」を味わうとともに、日曜日の喜びも感じるようになる。仕事で五体を疲れさせた後の日曜日は往来も改まった感じがして、すべてが晴れやかだった。いまや彼は、家の前のベンチに腰かけて朗らかな顔をしている肉屋や皮なめし屋やパン屋や鍛冶屋の気持ちがわかるようになり、「もうけっして彼らをあわれむべき職人ふぜいだなどという目では見なかった」。

「職人仕事の美しさと誇り」を理解したハンスは、自分もその仲間の一員であることを喜ぶようになったのである。

すなわち、作業療法的な仕事をする中で、ハンスは学校秀才時代には知ることのできなかった物作りの喜びや職人の気持ちが実感できるようになっている。秀才として他者よりも優位に立つことに生きがいを見出していたころは、彼らのことを「平凡なみじめな人間」として軽蔑していたハンスだが、病を得てからは、そうした普通の人々の喜びや誇りに共感し、彼らの生き方を尊重できるようになったのである。この時ハンスは、健康だった時には気づかなかった人生の価値に目覚め、人間的にも成長したと言えるのであって4)、そこにはいわば「障害あるがゆえの自由」といった現象を見ることができる。

ハンスは、精神障害者となることでさまざまな不自由さを抱えながらも、その一方で、既成の価値観から自由になり平等主義的な人間観を得ることができているのである。それはおそらく、ハンス同様、精神的な病によって退学した後、町工場の見習工として働いたことのあるヘッセ自身の体験でもあって、ヘッセの場合も、思春期の病や挫折体験が作家となる上で重要な役割を果たしている。ハンスもヘッセも、精神障害とその後の作業療法的な体験によって、それまでの常識にとらわれた偏狭な考えから脱却して人間や人生に対する洞察を深めているわけで、その意味では『車輪の下』は、精神障害者のリハビリテーションにおける作業療法の意義を示すとともに、病による洞察の深化という優れて病跡学的な認識を示した作品ということもできる。

もっとも、後に世界的な作家となって85歳まで生きることのできたヘッセと異なり、故郷のだれからも理解されず、自らの新たな才能も見出すことができなかったハンスは、一人静かに死んでいくのであって、そこには精神障害者に過酷で無理解な社会に対するヘッセの深い絶望と怒りが込められているように思われる。

(たかはしまさお 筑波大学障害科学系)

(付記)『車輪の下』では、統合失調症的な特徴のあるハンスが「きゃしゃな顔」「細いやせた腕と手」など細長型の体格に設定されているのに対して、俗人の父親は「格幅のある丈夫そうなからだつき」とされるなど、1921年に発表されるクレッチマーの『体格と性格』5)に先駆する形で、体格と性格の相関が描かれている。

また、「鋭敏な観察者は、病弱な母親と年功を積んでいる家柄を想起して、知力の肥大を衰退の始まる徴候だというかもしれない」という文章を見ると、これも1929年に発表されるクレッチマーの『天才人』6)に先駆して、当時のドイツでは、優れた家系の衰退過程で天才的な人物が出現すると考えられていたらしいことがわかる。

参考文献:

1)ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳):『車輪の下』、新潮社、1985

2)高橋正雄:夏目漱石の天才論、日本病跡学雑誌65:4―11、2003

3)高橋正雄:『車輪の下』について、日本病跡学雑誌41:2―8、1991

4)高橋正雄:人間的な成長をもたらすものとしての病~病みながら生きる者への畏敬~、逓信医学60(3):143―156、2008

5)クレッチマー(相場均訳):『体格と性格』、文光堂、1960

6)クレッチュメル(内村祐之訳):『天才人』、岩波書店、1932