音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年10月号

ワールドナウ

ガザとアトファルナろう学校

田中好子

2008年12月末から今年1月半ばまで、パレスチナのガザ地区は、イスラエル軍の大規模な軍事侵攻を受け、1,300人以上の死者、5,000人以上の重傷者、4万軒以上の家屋破壊という被害を出しました。

戦争と聴覚障害者

アトファルナろう学校に通うアリくん(5歳)とタスニーンさん(11歳)の姉弟は、今回の攻撃で家を失いました。停戦直後に家庭訪問したろう学校の教師に、タスニーンは「生まれて初めて音が聞こえた」と言っています。空爆の爆音やビルの倒壊の音が聞こえたという子どもたちはかなりいました。彼女は「戦争中とても怖かった。いつ死んじゃうかと思って、お兄ちゃんにひっついていたの。家族で逃げて家に戻ってきたら、家がなくなってたわ」と手話で話してくれました。しかし、5歳のアリには、これが戦争だったことも戦争が終わったことも分からず、怖い思いで心をしばらく閉ざしてしまい、訪問した幼稚園の担任が手話で話しかけても全く反応を示さないままでした。

戦争中は停電が続き、視覚情報に頼る聴覚障害者は十分な情報を得ることもできず、また家庭内にきちんと手話ができる人がいない家族では、聴覚障害者の孤立感は想像以上でした。アトファルナろう学校の聴覚障害者のスタッフたちも、3月に実施した心理サポートのなかで、「自分たちは見捨てられるのではないか、自分たちが死んでも家族はそれほど悲しまないのではないか」と感じたと話してくれました。当会のホームページでは、聴覚障害のあるアトファルナの職業訓練指導員のハーシムさんの体験談をご紹介しています(http://ccp-ngo.jp/salam/0904gs-1.pdf)。

ガザという場所

地中海に面してエジプトのシナイ半島と接するガザは、面積が約350平方キロメートル(琵琶湖の半分)の狭い土地に、150万人以上が住んでいます。1948年にイスラエルが建国されたときに70万人以上のパレスチナ人が難民となって故郷を追われましたが、15万人以上がこのガザにやってきました。現在、難民として国連に登録されている人が人口の8割を占めています。1967年からはイスラエルの軍事占領下にあり、2006年からは厳しい封鎖にあって、物資も人の出入りも厳しく制限されています。

アトファルナろう学校の開校

長年の占領によって、ガザの地場産業は破壊され、イスラエル経済に依存せざるを得ないままインフラ整備も進みませんでした。医療や福祉サービスのレベルは低く、人口増加率が高いために学校は二部制のままです。

90年代終わりのスクリーニング調査で、ガザでは人口の1.5%に何らかの聴覚障害があると推定されていますが、1992年にアトファルナろう学校が開校するまで聴覚障害者の教育施設はありませんでした。アトファルナろう学校開校のきっかけは、1990年に私たちがジェリー・シャワさんという米国生まれの女性に会ったことです。パレスチナ人と結婚してガザで生活していたシャワさんは、当時、脳性マヒの子どものためのNGOで働いていましたが、聴覚障害者のための施設が一つもないことを訴えました。

「一緒にろう学校を作ろう!」と意気投合して、教師のトレーニングから始めました。当時は、まだガザはイスラエル軍の完全な占領下にありました。日本の市民の募金で92年に開校したアトファルナろう学校は、1軒の民家を借りて27人の生徒と8人の教師でスタートしました。最初の3年間は、日本からの資金が中心でした。当会も小さなNGOでしたので、大変苦労しました。「アトファルナ」とは「われらの子どもたち」という意味のアラビア語です。障害のある子どもたちは社会全体の子どもたちとして育てようという思いを込めています。

手話教育へ移行

アトファルナろう学校は最初、イスラエルのろう学校で作られたアラブ系市民の聴覚障害者向けのプログラムを参考に、アラビア語のカリキュラムでスタートしました。しかし、徐々に手話を中心としたバイリンガル教育に移行します。アラビア語は文語と口語があり、話し言葉と書き言葉が違っているためにとても難しいのです。最初の頃に入学してきた子どもたちは、年齢が高く、しかもそれまで全く何の教育も受けていなかったために、手話によるコミュニケーションでなければ、理解を進めることができませんでした。

幼稚園を開設して幼い子どもたちを受け入れるためには、聴覚障害者のスタッフの存在も不可欠でした。その結果、手話を使ったほうが子どもたちの学習が大きく進むことが分かり、地域の成人ろう者の積極的な関わりも得られるようになりました。社会や科学などの科目では、新しい手話を創造しながらカリキュラムが組まれています。

現在、アトファルナろう学校ではスタッフの半数は聴覚障害者です。聞こえるスタッフたちも手話が必須で、アトファルナではしばしばスタッフや親たち、地域住民向けの手話講習会が開かれています。1994年にパレスチナ自治政府ができて、パレスチナ・テレビが開局しましたが、それ以来、アトファルナのスタッフがニュース番組の手話通訳を務めています。

ろう教育のほかに、補聴器外来、スピーチセラピー、ソーシャルワークなどのサービスを地域に提供するようになり、今ではガザの聴覚障害者のための中心的なセンターになりました。常に地域の人々がたくさん訪問をしています。

5年前に悲願の中学校が開校しました。ガザの学校は障害のある子どもを受け入れる体制がありません。一方で職業訓練も実施し、製品を「アトファルナ・クラフト」として販売しています。この「アトファルナ・クラフト」は順調で、一時期は運営資金の3分の1を賄えるほどまで成長しました(残念ながら封鎖の影響で、今は生産量・販売量とも減っています)。クラフト製作の現場には、卒業生だけでなく成人のろう者がたくさん参加していますし、学校教育を受けられなかった成人ろう者のための識字学級も継続しています。

厳しいなかでもチャレンジは続く

現在、アトファルナろう学校は、生徒数350人、スタッフ50人、クラフト部門70人を抱える大きなセンターに発展しました。1990年代という遅い時期に始まったことは、アトファルナろう学校には幸いでした。最新の考えや技術を取り入れることができたからです。ガザという隔離され、貧しい土地にあるにもかかわらず、英語の勉強にはASLを使い、コンピューターなど生徒が理解を深めやすい手段も活用されています。

また、デジタル補聴器も電池さえあれば十分に使いこなせ、自前で修理をすることもできます。聴覚障害の若者が運営するカフェテリアがセンター内に作られています。開校から15年以上経った現在、海外の専門家たちにも十分評価される施設になり、日本の補聴器会社からは、中古補聴器やフィッティングソフトのご提供もいただくようになりました。

ガザの現状はとても厳しいものです。停戦にはなったものの、いつイスラエル軍が攻撃を再開するか分からない状態は続いています。封鎖と経済制裁は全く緩められておらず、食料や燃料のほか文具や紙、クラフト原材料、補聴器と電池などの不足、停電にも苦しめられています。人々の移動は制限され、ほとんどの人が長年ガザを出ることもできません。そのうえ、パレスチナ内部の政治対立が深刻化していて、ガザを支配しているハマス政権によるNGOへの締め付けや市民生活への規制が強まっています。

それでも、「聴覚障害の早期発見のために、乳児検診での聴覚検査をできるようにしたい」「町に来られない人たちのためにアウトリーチの活動がしたい」「高校を開校したい」など、アトファルナろう学校の夢はまだまだ続いています。こうした夢が実現できるように、日本の皆様もぜひご協力ください。

(たなかよしこ 特定非営利活動法人パレスチナ子どものキャンペーン事務局長)

パレスチナ子どものキャンペーンでは、“アトファルナ・クラフト”の販売もしています。詳しいことは、下記にお問い合わせください。

◯特定非営利活動法人
パレスチナ子どものキャンペーン

〒171―0031 東京都豊島区目白3―4―5 アビタメジロ603
Tel:03―3953―1393
Fax:03―3953―1394
Eメール:ccp@bd.mbn.or.jp
HP:http://ccp-ngo.jp/