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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

障害と生命倫理学

堀田義太郎

1 生命倫理学の問題と議論枠組み

「障害者問題」と「生命倫理(学)」はどのような場面で交差するのだろうか。

「生命倫理(学)」とは、70年代以降に米国を中心として大学や研究機関で制度化された「バイオエシックス」の訳語である。バイオエシックスは、当初は人類の生存を広く扱う研究領域として提唱されたが、非道な人体実験の問題を契機として、また経済的な利害関心を背景として、生命科学と医療をめぐる諸問題に議論の焦点が移り、今では倫理学の応用分野となっている。以下では「生命倫理学」という語を使うことにしたい。

生命倫理学で問題になるのは、人体実験、選択的中絶を含む人工妊娠中絶、生殖技術、臓器移植や人体組織・情報の利用、安楽死、人体改造など、生命科学と医療技術の具体的な活用・利用の是非である。これらの共通点は、従来の通常の医療の対象と目的の範囲に収まらないような性質をもつことである。通常、医療の目的は、傷病を治療し、生命を救い、苦痛を和らげることであり、その対象になるのは傷病を負った個人の身体である。

それに対して、たとえば人体実験が問題になるのは、いわゆる「治験」も含めて、そこには、実験台になる人(被験者)の治療や救命とは別の目的が含まれるからである。また、人工妊娠中絶や生殖補助技術も、通常の意味での「治療」とは呼べない。そして安楽死は、積極的・消極的のいずれにしても医師の一般的な救命義務に反する。

こうした諸問題に対する生命倫理学の基本的な枠組みは、関係者自身の身体や生命にとっての利益、つまり医学的・生理学的利益とは別に、個々人の「自己決定」を尊重するという考え方である。この「自己決定」には、自己決定能力がないとされる人に対する家族の「代理決定」も含まれる。

では、なぜ人は身体的に利益にならないような決定を下すのか。それは、「利益」という語を使うならば、身体的・生理学的利益とは別の利益、つまり精神的・心理的・社会的な利益があるからである。したがって問題は、決定の前提になっている精神的・心理的・社会的利益の内実である。生命倫理学がこのような問題構成をもつとして、では、障害者をめぐる諸問題はそれにどのように関係しているのだろうか。

2 社会的問題としての障害者問題

「障害者問題」と生命倫理学が交差するポイントを把握するために、まずは障害者と医療との関係を再確認しておこう。

重要な点は、障害と傷病の違いである。もちろん障害と傷病の間にはグレーゾーンもあるが、障害学が「医学モデル」に対して「社会モデル」を提唱したように、障害は、悪化/改善について相対的に状態が固定している。したがって第一に、医学的な介入や治療について、その必要性は傷病に比べて少なく、またその効果も、そのために当人が払う代償に比して大きいとは言えない。第二に、個人の身体への医学的な介入(リハビリや治療)が本人に与える負担や害と、社会的サポートを充実させるために周囲(主に健常者)が負う負担を比べれば、後者の方が軽い。

第一点については、たとえば、無理なリハビリや手術等が、本人の身体機能を改善するよりも、むしろ本人に害を与える場合があることが指摘されてきた。第二点についても、障害者の生活上の不利益や不自由の大部分は、サポートを充実させることで解消できるし、サポート充実のために他の人々が負う負担は、家族以外の多数の人が関与するほど軽くなることが指摘されてきた。

この観点からみれば、「障害者問題」と生命倫理学が交差する点は明らかだといえる。生命倫理学が扱う諸問題の多くは、非身体的な利益に基づく決定に関わっており、その背景には人々の価値観を含む社会経済的な状況がある。そしてその大部分が、障害者が改善を求めてきた価値観や状況である。まず、直接的には、治療拒否あるいは非治療的な処置の要求のいずれにしても、傷病ではなく「障害」をもって生きることに対する否定的な価値評価が前提になっていることが多い。間接的にも、障害者が問題にしてきたような既存の価値観や社会状況(とくにジェンダー家族規範と制度)が、決定に圧力をかける背景になっていることは多い。

さらに、「自己決定」そのものについて、障害者の主張には、決定の内容と条件を吟味し、決定そのものの重みを評価する視点が含まれている。

具体的な問題にも言及しつつ、簡単に論点を確認しておきたい。

3 決定の背景にある諸要素

生命や身体に利益のない「決定」の背景にある要素は、大きく、決定する人の価値観とその人を取り巻く社会的状況に分けられる。障害者問題に関わってとくに重要なのは、障害をもって生きることを否定的に評価するような価値観であり、サポートを家族に委ねる社会規範と制度によって当人と家族に負担が集中する状況である。

たとえば、肉体的激痛を理由にしない安楽死の場合、身体が動かないこと自体がもたらす精神的苦痛を除けば、残るのは、「こんな状態」あるいは「あんな状態」で生き続けるのは尊厳がないといった価値判断と、社会的サポート不足による当人と家族の負担という要素である。そこで想定されているのは重度障害者の状態に近い。また、生命維持治療の不開始や中止に対する決定の背景に「家族に迷惑をかけたくない」といった思いがある場合は少なくない。そこでは、「家族に負担をかけなければ生きられない」という状況が想定されている。

障害を理由にした出生前の選別(胚の選別も含む)や、重症心身障害新生児の治療差し控えや中止のケースでも、障害をもつ人はQOLが低いから「生まれない方がよい」とか「生かさなくてもよい」といった評価や、障害者(児)をもつ家族に負担がかかる社会状況が前提になっていることは多い。

これらに対して、障害をもつ人々は、第一に、障害をもって生きることへの偏見を批判し、その生活に不自由があるとしてその大部分がサポート不足に起因すると主張してきた。第二に、家族にケア負担を集中させるような規範と社会状況を批判し、それを改変するように要求してきた。これらの主張は、生命倫理学の諸問題を考察する際にも重要である。

4 利益と負担のバランスに基づく決定の評価

もう一つのポイントは、前述のように「決定の背景」を問い直すための前提である。そこには、決定の内容と条件を「利益と負担のバランス」に基づいて吟味し、決定の重みを評価する視点があるからである。

先に、社会的サポートを要求する理由として、1.障害者にとって医学的介入はむしろ益よりも害が多いこと、2.周囲のサポートにより生活上の不利益の大部分は除去できること、そして、3.そのために人々が負う負担は、多数の人が関与するほど軽くなるという点を確認した。ここには、(基本的自由を基盤として)人々の利益と負担のバランスに対する計算が反映されている。そしてそれは、生命倫理学の諸問題を考察する際にも重要である。

ここで計算されているのは、障害者の生活保障という基本的な利益と、当人がリハビリ等のために被る負担、そして周囲の人々が負う負担とのバランスである。そして、生活に関わる基本的な利益を、当人がリハビリ等で大きな負担を負う前に、周囲の人々の軽い負担で実現できるならばその方が望ましいと判断されている。これは、人々の軽い負担で解消できる状況で、だれかが生活のために重大な利益を犠牲にするような「決定」を強いられている場合、仮にそれがその時点での当人の自己決定だとしても、それを鵜呑みにする前に、その状況を解消するために人々に軽い負担を(その決定に抗してでも)課した方がよい、という主張にもなる。

この考え方は、他の生命倫理学の諸問題、たとえば臓器売買や代理母契約等についても当てはまる。経済的自由がある人は臓器を売ろうとは思わない。臓器売買等は選択肢が制約された中でなされる。そして、その決定は本人にリスクと負担をもたらす。それに対して、人が臓器を売らざるをえないような状況をなくすべきであり、そのために余裕のある人々に負担が課されてよいと考えるとすれば、その前提には、利益と負担のバランスに基づく個々人の決定に対する評価がある。

決定の背景を問い直し、自己決定をそのまま鵜呑みにしないという態度は、障害をもつ人々による社会批判と要求の前提でもある。そこには利益と負担のバランスに対する考慮がある。そしてそれは、生命倫理学の諸問題を考察するための枠組みとしても、重要なものだろう。

(ほったよしたろう 立命館大学、日本学術振興会特別研究員)