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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

外国人女性として日本に生きること、そして私が生きること

山田英津子

私がフィリピン人女性のEさんに出会ったのは、15年ほど前のことである。スーツに身を包み、婦人相談員のNさんに伴われてわざわざ会いに来てくれたのだ。不安そうな表情ながらも真っ直ぐな眼差しに、私は緊張しながらEさんの話に聞き入った。

当時私は、フィリピンでの勉学を終え、ある国際組織で日本に働きに来たアジアの女性たちが抱える問題や、戦時下の「従軍慰安婦問題」解決への運動に関わりながら、週末には栃木県内の教会での働きを担っていた。フィリピン・マニラでは、「日本から帰った女性たちのためのサポートセンター」の設置に携わり、心身深く傷ついて帰国する女性たちの再出発の第一歩に関わることになった。そんなことでEさんが訪ねてきてくれたのだ。栃木での出会いだった。

Eさんは、日本人の夫に激しい暴力を受け続けた挙句(あげく)に子どもを奪われて離婚させられ、在留資格を失って国外追放されたが、帰ったマニラでさまざまな機関を訪ね歩いて方法を探し、自力で日本再入国を果たした直後だった。

日本人の夫と暮らしていた日々、Eさんは激しい身体的暴力を受けて何度も交番に駆け込んだ。そのたびに「夫婦間の出来事には介入できない」とする警察の対応で何の助けも得られなかった。その後さまざまな取り組みで、ドメスティックバイオレンス〈夫婦間及びあらゆる形のパートナー間での暴力〉(DV)防止法が制定され、現在第3次法改正に向けての準備が進んでいるが、それでも3日に1人はDVによって殺害され、その大多数が女性であるという現状を考えると、暴力のただ中で孤立していたEさんがどんな思いを抱えていたかは、想像に余りある。深い傷を負って、そのころ心に病を抱えるようになったようだ。ようやく駆け込んで保護された婦人相談所でNさんに出会い、さまざまな手続きやケアをNさんが担当されたのだ。

日本に戻ってきたEさんのまず最初の闘いは、奪われた子どもの親権を取り戻すことだった。Nさんの人脈で、女性弁護士や今も支援を続けるKさんが中心となって「Eさんを支える会」が発足し、私も具体的な支援の一端に加わった。家制度の負の遺産を今も引きずる日本は、当時、日本国籍の男性の配偶者である外国人女性は、たとえ子どもがいても離婚すれば直ちに在留資格を失うことが多かった。

日本国籍の子の減少が危ぶまれれば子孫を残すために外国から「嫁」を導入する。差別的な関係の中で傷を負う女性たちは、孤立して追い詰められることが多い。離婚ともなれば、外国人の「嫁」は事実上日本にとって不要な存在とされる。Eさんのように、長年の激しい夫の暴力で心に病を負った女性が親権を得て日本に定住することは、なおさら困難だった。だからこそ裁判に勝訴がもたらされたのは、Eさんのあのまっすぐな粘り強さと、弁護士をはじめとした支援グループの力が大きかっただろう。元夫はすでに子どもの養育を放棄し、6歳のNくんは養護施設に入っていたが、これも裁判に有利に働いたのかもしれない。

こうして親権を得たEさんは、すでに身を寄せていた栃木県の山間にある過疎の町で、Nくんと暮らすことになった。同時に、私も共同生活者のZとともに農家の空き家を見つけて、同じ町で生活を始めた。私とZにとっても、この過疎中山間地での生活は「生きる隙間(すきま)」を探しての一歩であった。心に病をもち、幼い子どもを抱える東南アジアの一女性の生きる術が見つからない限り、「ふつうであること」に抑圧を感じる者たちが生きる場も危うくなるだろう、という差し迫った思いもあった。

Eさん親子は小高い山のふもとの小さな家を借りた。ほどなく幻覚幻聴に悩まされるEさんの元を町の保健師が訪問するようになって、Eさんの通院が始まった。久しぶりに一緒に暮し始めたNくんは、対話が思うように成立せず、独(ひと)りテレビを見て過ごすことが多かった。

夜中にEさんが幻覚に悩まされると、Nくんは布団をかぶって夜をやり過ごした。「ゴジラ」という絶対的な味方があらわれ、Nくんはひたすらそれにのめり込んでいった。やがて、新聞紙を使って製作し始めたNくんのゴジラはまるで今にも動き出しそうな姿で、その数も200体を超えた。それが彼の支えであったことは間違いないが、一方、中学に入るとNくんはあまり学校に行かなくなった。フィリピン人の母に対する周りの特別な態度を感じ取り、Nくんはそれを初めて「差別」という言葉で語り始めた。決してあからさまに暴力的な言葉や行為として現れるわけではないが、Eさんについて、あるいはEさんに対して投げられる言葉はその人の顎の動きや抑揚に現れ、支配的な力を持っていた。

とりあえずはそのありように向き合わなくてはならないNくんの心の中で、それが澱(おり)のように蓄積していったのだと、22歳になった今の彼の生活で改めて知らされる。母であるEさんとの関係をさえ自分で語る言葉を持てず、あのやり過ごした夜の布団の中の世界に安住の地を見出したのかもしれない。

Nくんは今、ひきこもったその場から出てくるための闘いの中にいる。根底に横たわるのは、まさに「私とあなたがどのように生きるのか、何を大切にしたいのか」という生(なま)の出来事である。

そんな中にあっても、折あるごとに「今は幸せになったよ」と言うEさんの、これまでの暮らしは厳しかった。18歳の時にダンサーとして九州にやって来ると、北上しながら日本全国のホテルを転々とした。半年日本で働くと貯まった円通貨を持ってマニラに帰り、また半年後に戻ってくる。ある時、日本から帰国中の家まで押しかけてきた日本人の男と結果的に結婚せざるを得なくなって、日常的な暴力が始まったのだという。

1970年代の高度成長期、いわゆる「買春ツアー」が横行し、日本のサラリーマンが東南アジアの歓楽街に大挙して繰り出した。性を買う男たちの留守宅には家庭をしっかり守る妻がいて、日本経済の成長を支えた。やがて、それが非難を浴びると「買春ツアー」は形を変え、高級ホテルの1室が買春(かいしゅん)の場となっていった。警察の一斉手入れで閉鎖されたカラオケバーの店先で、路上生活の子どもが花輪を売っていた姿を思い出す。仕事もなく、たとえばスモーキーマウンテン(ごみが堆積して煙を吐いている広大な山にできた集落)でごみを眺めて暮らすよりは出稼ぎを、と若い女性たちは日本に向かった。運がよければダンサーに、しかしだまされて買春に巻き込まれる人身取引の被害ケースも多かった。

独立行政法人国立女性教育会館が公表している2001年から2009年までの日本における人身取引事犯の検挙状況によると、検挙件数が495件、被害者数が551人、うちタイ人が202人、フィリピン人が130人である。30年に及んで状況は何も変わっていないことを示す数字ではないか。

確かにEさんは、母であることを取り返して子どもと家族を作りたい、と熱望し日本に戻ってきた。でも、実際はすでに「ふつうであること」を大きく逸脱し、耳元でささやく遠くの声を聞きながら、今日も自転車を引いて卵や石鹸を買いに山道を行く。「家族をする」こと自体に、実はあまり意味がないことがNくんの闘いに見え隠れする。そこには生き延びる方法をともに模索する人たちがいる。Eさんも、新しい関係や暮らしを開いていくところにこそ希望があることを知っているのだろう。困難な暮らしにあっても、笑みを絶やさない。こんなふうにして「そうあらねばならない姿」から解放されるのだろうか。

昨年5月に、2年間の準備を経て、目の前にある閉校後の小学校を使った地域生活相互支援「大山田ノンフェール・くらねぇ」が始まった。ノンフェールはフランスの、ある精神科病院のアトリエの名に由来し、「何もしない」という意味である。「何らかの役割を果たしていなければ価値がない」社会にあって、実は最も創造的ともいえる癒しとしての表現の場を求めて、しだいに形になっていったように思う。先人を含めた多くの人たちが関わっている。近所には知られないように、家族から受けているDVについて相談しに来る女性もいる。絵を描くもの、ステンドグラスのガラスを使って作品を作るもの、詩を描くもの。畑や田んぼを耕すもの。そんな「生き延びる」という真剣な行為のただ中に、EさんもNくんも、そして私もZもいる。

(やまだえつこ NPO法人地域生活相互支援「大山田ノンフェール・くらねぇ」のひとり)