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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年11月号

文学にみる障害者像

有川浩著『図書館内乱』

野田晃生

『図書館戦争』シリーズについて

2006年に刊行された『図書館内乱』は、有川浩(ありかわひろ)による『図書館戦争』シリーズの一巻である。『図書館戦争』シリーズは、近未来の日本を舞台としたパラレルワールドの物語である(正化*130年代の物語)。

『図書館戦争』シリーズにおける日本は、公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を取り締まる「メディア良化法」が施行される世界である。この世界には、「メディア良化法」を運用する「メディア良化委員会」と実行する「メディア良化隊」が存在している。「メディア良化隊」の言論弾圧に対抗するため、図書館は武装化、「図書隊」として良化隊に対抗する、というストーリーが物語の根幹となっている。

たとえば、シリーズの第一巻である『図書館戦争』は、主人公笠原郁(かさはらいく)(新人の図書隊員)が両親に書いた手紙が冒頭に登場する。その内容は、「お父さん、お母さん、お元気ですか。私は元気です。(中略)念願の図書館に採用されて、私は今―毎日軍事訓練に励んでいます。」というものである。

有川は、他にも自衛隊を扱う等、ミリタリー色の濃い作品を書いており、この『図書館戦争』シリーズもミリタリー要素を取り入れた作品となっている。本誌10月号において取り上げた、有川の『レインツリーの国』とは違う系統の作品である。ただし、有川の特徴である、繊細な恋愛描写は『図書館戦争』シリーズにおいても見られる。

一エピソード「恋の障害」

『図書館内乱』の中の一エピソード「恋の障害」には、聴覚障害、難聴の少女・中澤毬江(なかざわまりえ)が登場する。毬江は、『レインツリーの国』に登場する「ひとみ」と同じ中途の難聴者である。

毬江は、中学3年生の時、突発性難聴という病気にかかり、右耳は完全に聞こえなくなり、左耳の聴力は補聴器がないと聞き取りができないという状態になってしまった。突発性難聴は発症2週間以内に治療を開始するのが望ましいものであったが、毬江の場合は発症してから1か月が過ぎており、回復のリミットを過ぎてしまっていた。

有川は、『レインツリーの国』のあとがきで、有川の夫が突発性難聴にかかったことから「たった2週間かそこら『耳の具合が悪いなあ、今度病院へ行こうかなぁ』と悩んでいるうちに難聴が取り返しのつかないのが突発性難聴です。これは耳の病気に疎かった私たちにはたいへんな恐怖で、その取り返しのつかなさを微力ながら書きたかったというのが『図書館内乱』のエピソード。」と書いている。

メールによるコミュニケーションが重要な役割を果たした『レインツリーの国』と同様、『図書館内乱』においても、コミュニケーションの手段としてメールが登場する。この場合、メールを送信してその内容を相手に伝える、ということもそうであるが、毬江が使う方法に携帯電話のメール機能を使い、画面を相手に見せて伝える、というものがある。

毬江は、障害のために、自身の声がどれくらいの大きさであるのか把握することに困難があった。声が大きすぎたり小さすぎたりしないよう、また、図書館という場所に配慮したため、メール機能を使うのである。

『レインツリーの国』をめぐる事件

毬江に図書隊の小牧幹久(こまきみきひさ)(健聴者・毬江とお互いに想い合っている)が、聴覚障害者の登場する小説『レインツリーの国』を勧めたことから事件が起きる。毬江の通う高校で、「中澤さん耳が悪いのに、難聴のヒロインの本を勧めるなんてちょっと無神経じゃない?」という話になってしまい、話は1人歩きしてメディア良化委員会の知るところとなる。

後日、図書館に良化隊が踏み込み、小牧を強制的に連れて行く。『レインツリーの国』を勧めたことが、障害者に対する差別、人権侵害ではないか、というメディア良化隊の言いがかりである。聾唖者に難聴の登場人物が出てくる本を勧めるとはけしからん、人権侵害だという難癖をつけられ、小牧は良化隊によって査問という名の拷問にかけられる。

物語の終盤、毬江は小牧を救うため、メディア良化隊に向かい、こう言う。これは、知らない人間と話をすることに消極的であった毬江が振り絞った勇気であった。

(毬江)「小牧さんにどういう容疑がかかっているのか教えて下さい」

(小牧)「……聾唖者に難聴者の登場する図書を勧めたことが甚だしく被害者への配慮に欠ける、とのお話でした」

(毬江)「聾唖者って誰のことですか?」

(良化隊)「いやそれは聾者と言い間違えて」

(毬江)「聾者って誰のことですか?」

「みなさんは聾者と中途失聴者と難聴者の区別もついてないのに、どうして私がその障害者として差別されたと分かるんですか?」

毬江は、難聴者であり、聾唖者や聾者ではない。

障害者(差別)に対する見方、考え方に一石を投じた作品

有川は書いている。聴覚障害者にとってそのカテゴリーは、自身のアイデンティティーに関わる重要な違いがある。主には言語の問題である。手話を第一言語としているタイプの聾者と、日本語獲得後に聴覚障害を負い、日本語を思考の第一言語としているタイプの中途失聴者や難聴者である。両者は、持っている文化やコミュニケーション方法そのものが違う。そのカテゴリーは外的な条件で部外者が一律に区別できるものではなく、当事者が選択的に変更することさえできる。どのカテゴリーに属するかは重大な個性の選択である。ことに聾は、アイデンティティーの表明として聾という言葉が使われるくらい独自の文化圏を形成している、と。

毬江は、自分を日本語獲得後に聴覚障害を負ったという意味での中途失聴者であり、難聴者であると位置づけている。意思疎通は発声による会話と筆談(の代わりに携帯メール)が主である。

毬江は、良化隊に対してさらにこう言う。「私がこの本を楽しんだことを何で差別だなんて言われなきゃいけないんですか?せっかくの楽しかった気分が台無し。私にはあなたたちが一番私の耳のことを差別したがっているとしか思えません。だって私はこの物語の主人公にすごく思い入れして読んでたのに」

続けて、毬江はこう言う。「障害を持っていたら物語の中でヒロインになる権利もないんですか?私みたいな女の子が恋愛小説の主役になってたらおかしいんですか?私に難聴者が出てくる本を勧めるのが酷いなんて、すごい難癖。差別をわざわざ探してるみたい。そんなに差別が好きなの?」と。これは、私たちの障害者に対する見方、考え方に対して一石を投じた台詞であり、物語である。

なお、この『図書館内乱』の中の一エピソード「兄と弟」では、『図書館員の一刀両断レビュー』として、『レインツリーの国』について「一言で言って薄っぺらい。身障者をダシにお涙頂戴を狙う思惑が鼻について怒りさえ覚える」として、ネット上で一人の図書隊員が酷評する場面がある。果たしてそうだろうか。有川の作品は、障害者の恋愛、コミュニケーション、見方・考え方について考えさせられる、そう言うことができないだろうか。

小牧を救い出した毬江は、小牧に『レインツリーの国』を「私のことだと思っていい?」と聞いている。小牧が毬江の補聴器を付けているほうの耳に話しかけ、「もう子供に見えないから困ってるよ」と言って抱きしめる場面を読むと、この『図書館内乱』、そして『レインツリーの国』は、新しい恋愛小説のスタンダードという形にとどまらず、新しい見方を開くための物語ということができる。

『図書館戦争』シリーズは、2008年にテレビアニメ化されたが、この原稿において取り上げたエピソード「恋の障害」は、『図書館戦争』がアニメ化された際に放映されなかった(DVDには収録されている)。障害者を描くこと、伝えることについての難しさを考えさせられるエピソードである。

(のだあきお 筑波大学大学院人間総合科学研究科)


◎有川浩『図書館内乱』角川書店、2006年

*1 「平成」が年号に採用される際、新年号の候補として挙げられていた。