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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

介護保障の原点―府中療育センター闘争と新田勲

大野更紗

介助者の40代の男性が、「新田さん」の電動車いすの横で正座する。車いすの足元には、1枚の板切れ。板には、何の印もない。文字盤の類が記してあるわけでもない。どこからどう見ても、ただの木の板だ。新田さんが、不自由な足先を、ポン、ポン、と板の上で弾ませる。

「さむ くて ねむくなってとうし しかけ た ことも なんかいもあった」

「CPはいまはじり つする ことかい ごほしょうをじぶんでさが さない」

わたしには全く読み取れぬ不可解なサインを、一字一句正確に、一切の抑揚のない声で代わりに「喋る」介助者。その姿を見て、人形浄瑠璃の黒子が思いうかんだ。これが、「足文字」か。

「魔法のようですね」と、わたしがため息をつきながら一言こぼしたら、「ぐうううう」とうなられた。新田さんが、せせら笑った。

◇「武闘派」の重度脳性まひ者

新田勲(にったいさお)さんは「伝説」がやたらと多い方だ。特に1970年代~80年代の障害当事者たちにまつわる文献や資料を集めてめくっていると、「府中療育センター闘争」と「新田勲」という固有名詞が頻繁に目に留まる。

――府中問題はまえまえから会報を通じて知っておりました。

私は障害がひどかったので一般の学校にいけなかったわけです。

ですから幼ないころよく同じような人たちと一つ屋根の下で暮したらどんなに楽しいだろうと考えたものでした。

しかし、今こうして施設を見たり来たりして、改めて考えさせられます。

私たちは社会から、また親・兄妹などから見はなされた場合、結局は施設にいかなければならないのでしょうか。――

――先日もある重障者の施設に知人をたずねていきましたが、その人が「早く家にかえって、あったかいゴハンをたべたい」といっておりました。

私がいるあいだも外に出たいが、出してもらえないでおりましたし、そのほか、ひどいなあと思う事がありました。――(「府中のハンストに思う」金子和弘『会報 青い芝』1973年 施設問題特集号)

◇新田兄妹

新田勲さんは、1940年、東京都内で貧しい家庭の7人兄弟の1人として生まれた。この7人の兄弟のうち、2人が重度の脳性まひ児であった。

勲さんと、妹の絹子さん。「新田兄妹」は、当時の市井の差別や偏見の中で、文字通り、這いつくばるようにして育つ。

勲さんは自身の手記で、幼かった子ども時代をこう振り返っている。

――障害者を2人もつ家族がありました。その家族は障害者を入れて7人兄弟がいました。すごく貧乏で、母は2人の障害者の世話だの兄弟の世話に追いまくられていましたが、子供が小さいうちは楽しい家族として暮らしていました。

しかし、子供が成長期にむかい、この世の中の当然のごとく、健全な兄弟にとっては障害者が1人いても負担や重圧に感じるのに、まして障害者が2人もいると……、特に結婚の年頃になると健全な兄弟といさかいは絶えず起き、その上、父が亡くなり家族の生活の収入源を健全な兄弟の収入に頼ると、母としての実権もなくなり、2人の健全な兄弟に楯突くこともできないし、家の片隅で小さくなっていなければなりません。

そういう状況のあげく母といざこざの結果、健全な兄弟は「家族はみられない2人の障害者は施設へ入れろ」といって、家族からとびだして2人の障害者のいることを隠して結婚したのです。

生活の収入源を断たれた母は、働きたくても2人の障害者を抱えては働きにも出られませんでした。それに、まだ幼い健全な兄弟3人もいました。収入源を断たれた母は心中するか、2人の障害者を施設に入れるしかありません。――(新田勲『重度障害者の自立と介護保障』1985年)

◇「府中療育センター」

府中療育センターが東京都府中市に設立されたのは、1968年4月。当時の美濃部都政は「東洋一の規模・近代的施設」という鳴り物入りの福祉拡大施策として、このセンターを建設した。

現在もセンターは現役で運営されており、約250床を有する。平成22年度のデータによれば長期入所者225名中105名、46.7%が「50歳以上」である。また、その入所期間については「15年以上」が74.2%を占める。

わたしのひいき目を差し引いても、在籍が長期にわたっておりかつ在籍者が高齢化していることは明らかである。

このような大規模施設が、1968年当時からつい先ごろまで「近代的」で「進歩的」なものとして認識されていたことは特筆しておきたい。

◇公的介護サービス保障の原点

劣化して茶色に変色した、1970年12月14日付、朝日新聞のスクラップが手元にある。「重度障害者も人間です」との見出しの記事からは、都の事業の当時の見解がどのようなものであったかが、端的にみてとれる。

――こういう人たちを各家庭に分散しておくより、集団として扱った方がはるかに社会的に経済であるという。確かにうなずけると思う。――(センター事業年報から)

現在、障害の領域では2005年に成立した自立支援法をはじめとして―自立支援法について数多の欠陥や不備が国際的に指摘され久しいことはひとまず置いておく―「ある程度」制度が存在している。また、高齢ケアの領域では2000年に介護保険制度がスタートした。

「介護」サービスは法的な建前としては、どのような人でもニーズが生じれば普遍的に使えるようにする、というのが大きなレベルでの潮流である。

しかし公的な介護サービスが、日本においてもともと自明のものだったわけではない。1970年代以前は、重度脳性まひ者による当事者団体の代名詞である「青い芝の会」ですら、「国が介護を保障できるわけがない」という認識がむしろ主流派であった。

「自立生活」という言葉すら存在しなかった時代。特殊な例を除く、ほとんどの重度の脳性まひの人や重い身体障害がある人は、「死に瀕する」か「座敷牢」のように生きるかしかなかったのだ。

介護の制度化の過程において、障害当事者が建前上も「人間ではない」(=人権がない)扱いから脱するために戦後を歩み続けてきたことは、障害者運動関係者の間でしか知られていない。

日本の戦後社会の、〈障害〉にまつわる記録偏在や資料収集の困難は、言語を発することができぬ重度の脳性まひ者が、その最前線に立っていたことと無関係ではない。

――演説やディベートという形で、時に不特定多数の人々に自らの肉声を伝えなければならない社会運動のリーダーの位置に、重い言語障害を伴う重度脳性麻痺者がついたという事例は世界的にも珍しいのではないか。――(荒井裕樹『障害と文学』2011年、現代書館)

◇「黒子」のこれから

東京都北区の、勲さんのご自宅へ伺った2012年2月半ば。勲さんは末期のガンを患われていた。一週間おきに入院と退院を繰り返して、抗がん剤の投与治療を受けている。

抗がん剤治療の副作用でさぞかし弱られておられるだろうと思っていたのに、その片鱗すら、見せてくれなかった。わたしなどが一度行ったくらいで、見せてもらえるはずもなかった。

眼光鋭く言葉は厳しく、禍々(まがまが)しい「生ける伝説」そのものであった。残り少ない限られた時間をインタビューに割かせてしまった、その思いしか残らなかった。

「勲さん。また、お会いしましょう」

それがおそらくは、口約束になってしまうのだろうと思いながら。わたしの浅はかな思考の底など、すべて見透かしているような目線に、一礼をして、老朽化した、古い都営アパートのドアを閉めた。

外は日が落ちかけていて、冷たい凍えるような氷雨が降っていた。緊張が抜けて、鎮痛剤が足りぬと忽(たちま)ち身体が訴えてくる。フラフラと壁をつたう様子を、心配したのだろう。「足文字」を読みあげていた介助者の男性が、駅前のタクシー乗り場まで、車で送って下さった。道中、ぼそりとおっしゃった一言が、耳に残っている。

「これまで僕が、勲さんに生かされてきたようなものです」

勲さんに十数年間付き添ってきた人は、苦しげなかすれた声でそう言ったのだった。「黒子」の彼からこの日唯一聞いた、人間らしい感情のこもった声だった。

(おおのさらさ 作家)