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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年2月号

時代を読む40

生活圏拡大運動から車いす市民全国集会へ

1973(昭和48)年9月、仙台市において朝日新聞厚生文化事業団主催により、車いす市民交流集会が開催された。参加者は、東京、名古屋、京都、福岡、那覇などから29人が集まった。

この年は田中角栄内閣で福祉元年と言われ、仙台市と北九州市が福祉のまちづくり都市宣言をした年でもあった。つまり列島改造論に乗り、福祉のまちづくりもスタートした。しかし福祉のまちづくり宣言がなされても、当時200万大都市の名古屋の街はバリアフルで、車いす利用者の私たちは段差に悩み、車いす用トイレやエレベーターもなく、一人では自由にどこにも行けない時代であった。

しかし仙台では、筋ジスの仲間たちによる生活圏拡大運動により、仙台駅をはじめ市内の百貨店等に車いす用トイレやスロープが設置されており、全国的にもまちづくり運動が先行していた。この仙台集会は、これらの運動を行なっていた筋ジスの仲間たちの手によって開催された。

集会は3日間、侃々諤々喧々囂々(かんかんがくがくけんけんごうごう)議論を重ねた。その中で、今後の運動のあり方を生活圏から生活権にシフトして取り組むことが全会一致で決められた。施設見学では、外出するのにいくつも印鑑をもらわなければ外出できない仕組みに対して参加者から猛然と批判が起き、施設管理のあり方に批判がなされ、生活権拡大の意義の重要さを確認し合ったことを明確に覚えている。

バリアフリーという言葉もない時代、福祉のまちづくりの原点を単に移動範囲の拡大にとどめず、権利に基づき、障害者も人としての尊厳が確立される施策を求めていくことを確認したことは、青い芝運動の当事者運動の原点を確実に引き継いでいく障害者運動を、脳性マヒの人たちだけでなく、車いす利用者も加わり、さらに運動の輪を広げ共に闘うという姿勢を宣言した集会だった。

こうした姿勢を打ち出せたのは、青い芝の会から参加されていた横田弘氏のおかげだと思う。横田氏が常に理論的に議論を導いていた姿が印象に残っている。

翌年、東京での開催を予定していたが、東京のメンバーの中で活動路線の集約ができず、当事者運動を一から組み立て直すという事態になり、全国の主だった仲間が手弁当で集い、隔年開催で行うこととなった。その後、全国各地で展開される。

今言えることは、第1回の仙台集会を創(つく)った人たちが明日の命も知れないという、山田富也氏をはじめ重度の筋ジスの仲間たちであったことも、その後の当事者運動に大きな影響をもたらしたと思う。

(山田昭義(やまだあきよし) AJU自立の家)