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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年2月号

福の神おかめ?

花田春兆

おかめは天のうずめの尊(みこと)、ひょっとこは火を吹く男、と先生から教えていただきましたが、古来より現代まで当たり前のように、わたしたちのそばで生き続けている、おかめとひょっとこについて、解説していただく。

一時期よりは少し、体調も回復したらしいのを幸いに、年越し原稿を減らそうとしていた矢先、こんなメールが舞い込んで来た。

正直のところ、迂闊(うかつ)に取り組むと、明るく開放的な編集意図とは逆に、妙な差別意識と受け取られかねないもの、を書いてしまいそうな怖れが走った。

差別用語と騒がれるものも、生来の意味ではなく、使われ方で付着した垢(あか)が主なのだ。逆に使い方次第で、敬語・丁寧語でも、侮蔑的に十分使えるではないか、控えるつもりでも勢いに乗ればその辺まで踏み込みかねない。特集そのものに迷惑を及ぼしそうな怖れだ。

それも私に白羽の矢が立つなど、そもそもの発端。障害と福の神を結び付けた元祖とも言えそうな江戸川柳の、

弁天を除けばかたわばかりなり

にしても、それを生んで定着させた基盤の、江戸庶民の屈託無い開放的な生活ぶりが、どこまで汲み取られているのだろうか。

もちろん戸籍台帳さえ別誂(あつら)えにするほどに、画然と格差をつけた区分けが、厳しく行われていたのは、疑いようもあるまい。日本の中で隣り合っている別世界が存在していたのだろう。

ただ、この別世界、お互いに存在を確認し合い、違いは違いとして納得しあって、それぞれの特性を活かし、利用し合う交流は行われていた。という解釈も可能な自在さは、許されていたはずだ。特に芸能の世界では、創造・伝承・普及の供給面と、鑑賞・享受・支援の需要面とを、見事に分担し合い、ともに生活の潤いを得ていたのは事実だろう。

そしてお互いの別世界の中では、個々の個人や家族を超えて、互助・共生の協同社会が組み上げられてゆく。妙なプライバシーや人権尊重が先行して、高齢や障害による独居や孤独死の激増対策に追われ始めた、日本の現状とは一味違うと言えそうな、ゆったりと落ち着いた気分で、生活を楽しむ社会を築いていたのだ。とも思われてくる世界…。

そもそもの発端の川柳を生んだその世界。背景に広がる江戸の庶民生活の日常。その明るく屈託ない面に触れておかねばと、書き始めたのだが、どうにも重く硬い論文調になりそうで、本特集の看板“笑い”と掛け離れたものに流れかねない怖れが、パソコンのキーを一層打ち渋らせてしまう。

加えて、いざ書くとなると肝心の原典・川柳には、おかめもひょっとこも、影さえ落としていない。

お正月の福笑いや、お神楽の面などからの縁で、呼び出されるらしいが、福相は福相でも美人の弁天様より、道化の要素の濃いおかめの登場の方が、本来の川柳の狙いに相応(ふさわ)しそうだ。だが、いずれにせよ除かれているのだから、失格に変わりは無い。道化役では、日の神の岩戸隠れの祭、ストリップダンスで神々を和らげ、事件解決を早めた天のうずめの尊の名が浮かぶ。お神楽界のトップスターだ。

火を吹く表情が道化じみているとばかりに、このおかめと好一対のペアとして登場させられるひょっとこ。実は彼こそ、遡(さかのぼ)れば、お神楽の世界を創り、伝える基である神話の産みの親でもあったのだ。つまり人々の集まる情報の集散の場所でもある、囲炉裏(いろり)や竈(かまど)の火を守る番人、労働の第一線を離れ、あまり動かずにすむ老人や障害者の可能性が、高いからだ。

と、ここで初めて本物の障害者らしい存在が姿を現わす。ようやく見分けられた存在。周りに溶け込んでいる存在。違いは違いとして認めながら、それぞれの特性を活かして、協同社会の生活を分担し合う存在だったのだ。

まさにようやくここまで辿(たど)り着いたとき、追い討ちをかけるようなメールに見舞われた。私のマイコンには重すぎるような写真。それがこれ。(上掲)

NHK福祉系TVの写真の写しらしいそれには、神社の社頭に据えられた、巨大な波の彫刻、巻き上げられてまさに頭上に崩れ落ちんばかりに、襲い掛かってくる波頭が、画面一杯に広がっているのだ。海の神の神社。金毘羅宮かえびす神社か。豊漁の縁で商売繁盛を祈っての奉納だろうが、どうせなら蛭子様(ヒルコさま)にしておきたい。日本のアダムとイブ、イザナギ・イザナミの第一子に産まれながら、酷(ひど)すぎる障害、未熟出産による重度CP??で、葦舟(あしぶね)に乗せられて海に流されたヒルコが、流れ着いて救われた地元の漁民たちの間で、豊漁を祈る福の神エビスに甦(よみがえ)るのだ。

この蛭子伝説を、そもそもの冒頭に置いた作者たちの、想いの深さが伝わってくる。同じような弱者の仲間たちを包み込んだ共生社会実現への願いだ。

身贔屓(みびいき)で言うのだが、より弱き者の存在を強調することで、生命そのものの貴重さを、共感を呼びやすそうな庶民仲間に、直接語りかけているのだ。

共生生活する庶民。と言えばまず、都会では江戸の長屋の住民たちだろう。この人々に直接語りかける実践者としては、おかめも、お神楽界から飛び出して漫才コンビを組んだ相棒の、ひょっとこと何の変わりもない。笑っているだけではない。その特性である笑顔を活用して、能動的に働きかけているのだ。聞く側の庶民にも、それを積極的に受け入れる包容力のあること、を信じての働きかけなのだ。

さらに、ヒルコなど弱者本人にも、それを認めさせる努力と能力のあることも強調する。もう一人障害を生きる証しとして、存在を誇示している人がいる。クエビコ。今でいう一本足のかかし。障害はマイナスでなく特性なのだ。

(はなだしゅんちょう 俳人、本誌編集委員)