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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年7月号

1000字提言

「道徳の確信犯」を育てない社会へ

三宮麻由子

近年気になっていることのひとつに、子どもたちの振る舞いがある。私のような弱い立場の人を標的に意地悪や乱暴な行為をしたり、保護者が見ているときや複数で行動しているときには進んで席を譲るような子が、利害関係のある大人のいないときには仲間同士で乗り物の優先席に陣取ってゲームやおしゃべりに興じるケースが増えているように思うのだ。

小学校中学年くらいの男の子が私の前方を突っ切ったため衝突したら、「おまえが見えないんだから気をつけろ」とどなりながら執拗に追いかけてきたことがある。優先席に座っていた男の子が、いきなり私の杖を蹴飛ばし「あっち行け」と迫ったこともある。中高生たちが優先席で寝た振りをしているといった様子を耳にすると、背筋が寒くなる思いがする。

問題は、弱者への攻撃や優先席に陣取るといった行為が「道徳に反する」とよく知ったうえで、彼らが行動していることである。

その背後には、「我先に」「自分らしく」「勝ち抜こう」といった大人の利己的な競争原理があるように思えてならない。優先席の例でいえば、「私だって疲れているし」とか「誰か立つよね」という素振りで席をいっぱいにしている大人たちに出会うことが少なくない。それを見ている子どもたちは、「道徳に反しても自分のためなら許される」という論理を身に付けてしまうだろう。譲らない、助けない、関わらない理由はたくさん言えるのに、黙って人を気遣うことができない大人が増え、それを見た子どもが次々と「道徳の確信犯」に育っていく。そんな情けないサイクルだけは、何としても断ち切りたいものである。

一方で、公共の基本ルールを幼少期から熱心に指導してくださるお母さんたちも確実に増えている。私とぶつかりそうになった子どもに「杖の人の前を横切っちゃだめよ」「杖の人には道を譲ってあげましょうね」などと明確な指針を示して指導してくださる姿を前にすると、ありがとう!と言いたい気持ちになる。道徳的な習慣が幼少期に身につけば、罪悪感と正義感を正しく感じて暮らすことができる。嫌々ではなく自然体で人道の基本が守れるようになり、「道徳の確信犯」に育つ確立は大きく下がることだろう。特に、体力的に優位にある男の子たちの教育には注意を払い、強く優しい大人に育てていただきたいと心から思う。

「人間の基本」が守れる人材の育成は、必ずや福祉面で成熟した社会の構築につながると思うのである。

(さんのみやまゆこ エッセイスト)