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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

鼎談
私たちが考える当事者活動

大野更紗(おおのさらさ)
作家
小野和佳(おのかずよし)
いわき自立生活センター
熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)
小児科医、東京大学先端科学技術研究センター特任講師

障害当事者運動との出合い

大野 私は1984年生まれなので、国際障害者年(1981年)より後に生まれているんです。障害者手帳を取得したのは2010年ですが、障害当事者運動や自立生活運動についてはそれから本を読んで研究して調べるようになりました。日本でも1960年代、1970年、特に青い芝の会以降、複数の流れが脈々と続いていることを知って、その人たちに会わなければと思い始めました。

現在は、障害や難病をある日突然もつことになっても、そういった当事者運動には出合わない方の方が多数派だと思うんです。出合わなくても普通に制度として使えますから。私や熊谷さんや小野さんというのは、障害当事者の中でも歴史のことに関心があってそれを知ろうとしている、いわゆる「意識が高い系」なのかなと思うのですが、お2人がそもそも障害当事者運動に出合われたのはどういうきっかけですか。

熊谷 自分は必然的に出合う世代ではあるんです。1977年生まれで出身は山口県ですが、山口の青い芝の会が近所にあって、うちの親が市役所の障害福祉課で働いていたんです。父は、気持ちの半分は市役所の職員として振る舞い、もう半分は運動を応援するという両面を持っていたのではないかと想像します。休日は青い芝の会の人たちとイベントに参加したりしていたというのが、最初の出合いでした。

ただ一方では、当時70年代くらいから、特にリハビリの現場で脳性マヒは治ると言われていた時期で、熱狂的な療育ブームに巻き込まれていった世代でもあります。障害当事者運動を知りながらも、日常生活のほとんどは医学モデル的な療育でがんじがらめになっているような生活でした。

私が当事者運動に本格的に出合ったのは18歳になってからです。大学進学をきっかけに一人暮らしを始めました。リハビリでは治らないということが10年間のタイムラグを経て証明されてしまった。最初の人生の20年間くらいは、医学モデルが熱狂的なブームになっていたのですが、途中から急に社会モデルにシフトしていく、そういう時代でした。

あんなに辛いリハビリをやっていたのに逆に障害が重くなってきている現実があって、このままずっとごまかされ続けていくのでは将来がないと思ったんです。親は近くの大学に行きなさいと言いましたが、ここで親と離れないとまた同じことの繰り返しになるんじゃないかと思い、物理的に距離を離して一人暮らしを始めました。

その時、薄々知っていた障害者運動の存在はすごく大きくて、あのおっちゃんたちはあんなに重度だったのに生きていたよな、親もいないのに生きていたよなとか。記憶の中にそういうエビデンスがあったんですよね。だから根拠はないけれど何とかなるんじゃないかと。ぼんやりとした知識をもとに、HANDS世田谷とか、自立生活運動をやっている人たちのところを訪ね歩いて聞いたのが、最初の本格的な出合いです。

小野 私は1982年生まれの30歳で、障害は脳性マヒです。3歳から18歳まで福島県いわき市の入所施設に入っていました。学校も小中高と養護学校に通っていました。

18歳の時に、福島県の事業で福祉の先進国に研修に行くプログラムがありました。福祉の勉強をしたいというよりは、海外に行けるならそれでいいかなと思って受けたら受かってしまった。10日間くらい、アメリカのバークレーで自立生活センター(CIL)や大学を見学したりして、こういうのが日本にあればといいなと思って戻ってきたら、福島県にも意外とあった(笑)。しかも障害者運動の大御所がたくさんいたという、そこが始まりです。

海外研修の時、筋ジストロフィーの先輩がいました。将来、一人暮らしをするんだとアメリカに行く前から決めていた人でした。運動をしていきたいという意識を高く持っている人で、将来、一緒にCILをやらないかと誘われたんです。それまで誰かに頼りにされるということがなかったので、一緒にやりたいと言ってくれるだけでうれしかった。

その時、CILをやっていくには、経験を積んだ方がいいと考えました。20代のうちは好きなことをやって、どんなところが不便かとか、どこが生きづらいかというのを、もっと自分自身が感じた方がいいと。その後で活動した方が意味が出てくるのではないかと思ったんです。ところがその筋ジストロフィーの方は、私が卒業したと同時に亡くなって、一緒にやることは途絶えてしまいました。

私がCILと関わり始めたのは20歳の時ですから10年前で、ちょうど支援費制度が始まる年でした。当時パソコンの専門学校に通っていたのですが、CILの人手が必要になったということで理事長に誘われて入りました。

熊谷 養護学校にいた時は、そういう情報は全くない状態だったのですか。

小野 はい、全くそういうのはないです。確かに本を読んだり情報を得ようと思えば得られるんですが、自分に意識がないと学べないですよね。特に養護学校とか施設に入ってしまうと、そこはすごく制限されるので、読みたい本を自分で選ぶというよりも興味を持つ機会がない。

失礼な言い方かもしれないけれど、頭を回転させる必要がなくなってくるので、それが自然な流れになっていってしまう。何が不満か、何が必要かと聞かれてもパッと思い浮かばないんです。それこそ、アメリカに行ったりCILの存在を知って初めて、世の中と施設って実は違うんだというのに気づいたんです。

その当時は、テーマパークに行くことよりも近くのコンビニに行けることの方がすごく幸せとか、あまり大きいことを求めなかった。もっと楽しいことはたくさんあったのでしょうが、興味を持つ方法を見つけられなかったんです。

経験から必要なことが見えてくる

熊谷 養護学校時代のお話は、すごく印象的ですね。特に、20代は好きなことをしようという話を踏まえると、すごく重いものとして心に染みてきます。20代は何をされたのですか。

小野 結局、20代からCILに入ってしまいました。今思うと、あの時思ったことは正しかったなと思います。

私がCILに関わっている中で、一番自分の糧になっていることは「ロールモデル」という言葉です。自分が経験したことを生かして支援していけるというところ。経験を増やしていろんな失敗をして不便に感じるという単純なことです。そのためには、自分がどう生きたいのかというのを実際にやってみることです。そうでないと、過去の先輩方の運動の歴史を聞いてもピンとこない。

熊谷 システムができ上がってしまった後の世代にとって、そこからいったん外れることや、一気にシステムに乗ってしまわないことは、すごく大きなポイントだと思います。

小野 それなりの生活ができる制度があると、逆に自分らしい生活ができない面が出てくるのではないかと思います。単純に自分がやりたい生き方を1回試してみると、CILの必要性とか当事者運動の必要性、なぜ差別解消法が必要なのか、なぜこのさまざまな法律に不備があるのか、ということに興味を持てるのではないかと思うんです。

たとえば、ライブに行ったのにバリアフリーになっていなくて楽しめなかったとか。先輩方がトイレができなくて介助が必要だからビラを配ったのと一緒で、自分たちの生活の中で気づいていくことが必要だと思いました。若い世代の人には、当事者運動とかCILとかをあまり意識しないで、まずは自分がどう生きたいか、というのを好きにやってもらいたいと思います。

熊谷 説得力がありますね。

大野 難病患者さんたちの話を調査で聞きに行くのですが、行った時には、必ずその土地のCILにも行くようにしています。それで分かったことですが、難病の人たちはほとんどCILに関わりがない。ALSや筋ジストロフィーなどごく一部の疾患は、例外的に難病患者団体ともCILとも両方に関係がありますね。難病患者の患者団体は60~70年代くらいから、さらに古くからさかのぼれば結核やハンセン氏病、そういう流れがあるはずですが、障害当事者団体との間には今なお断絶があります。

先天性の障害と、中途からの障害や難病とは何がどう違うのかを考えることがあります。特に「難病」と呼ばれる人たちは、最初は医療から入りますよね。CILに若い人があまりいないということの要因があるとしたら、医療から障害に移行する時に、自分が在宅に移行する時のための社会資源として障害の制度を使うということ以外には、医療機関には何の情報もないからかもしれません。運動には何の関係もないわけです。

先日、すごく印象的だったのは、乙武洋匡さんがイタリアンレストランに入ろうとして、予約しないで行こうしたら入店を断られて、それが世の中で大騒ぎになるという事件がありました。私は遠回しに乙武さんを擁護した。その時に、インターネット上でどんな反応が返ってきたかというと、世間できちんと立派に暮らしている「私たち障害者」の邪魔をしないでほしいと。だから障害者が差別されるんだと。そういう声が障害をもっている人たちから出てきたんです。

いや、健常者の人は建築基準法によって合理的配慮されているでしょうという話をしても、歴史的な文脈が前提にないので話が通じない。いや自分は必ず予約を取っていくし、事前にそのお店に入店ができるかどうかを聞くし、仮に断られたら行かないと。大野さんみたいな暴走障害者みたいな人がいるから差別が助長されるんです、みたいなことを言われて、すごい衝撃を受けました。何かが何重(なんじゅう)にもねじれている。

熊谷 それって、これまでの歴史の中ですごく反復しているモチーフですよね。前に、世田谷の重鎮の自立生活運動のリーダーのうちの一人と話をした時も、自分の活動に一番石を投げたのは、頑張っている障害者だったといっていた。街の健常な人なんかは案外応援してくれているんですが、街の中で市民として慎(つつ)ましく過剰適応して一生懸命頑張っていた障害者が、自立生活運動に対して最も文句を言ったという話でした。こういう問題はどう考えたらいいのでしょうか。

システムが作ってしまった弊害

大野 難病や後天的な障害をもった人たちの方が、その傾向は強いのかなという気はします。特に難病の人は、2013年4月から、障害者総合支援法で適応要件なしに130疾患のみが申請の窓口に立てるようになったわけです。でも実際には、自治体間格差が可視化されてしまったようなところがあって、従来から難病者を独自に支援していた自治体はうまくいっているのですが、そうでなかったところは、制度、法律はあるけれど申請する人もあまりいない。

そもそも福祉の使い方が分からないし、福祉って何なのかが分からない。他の障害団体が蓄積した知見に接触する場がほどんどないので、社会資源から切り離されて在宅に移行した患者さんはどんどん孤立化していきます。ある意味、システムが作ってしまった縦割りや手帳制度が、当事者の心の有り様も分けてしまっているような状態が今、起こっているのかなと思います。

小野 そこが課題になると思うんです。今まではそれでよかったけれども。

大野 それと、制度の萌芽期をつくってきた諸先輩方に苦言を呈するようで恐縮ですが、「若い障害者は気合が足りないんだ」みたいなことをおっしゃることがありますね。それはまずい論理なんじゃないかと思う時もあるんです。

熊谷 やる気とかそういう問題ではない。小さい頃から不自由を自覚できない構造の中にずっと置かれていて、すごく欠乏しているのに欠乏を感じないという状況に置かれる。しかも制度が完成すればするほど、かえって欠乏が見えづらくなるというところがある。気合が足りないという本人の問題だけにするわけにはいかないですよね。

小野 そこで精神論で言われてしまうと、若い人たちは何したらいいか分からない。

組織力のメリットと個人の運動意識

大野 今のCILを見ていていいなと思うのは、仲間ができるとか、仲間がいるということを皆さんおっしゃるじゃないですか。それはとても大事なことだし、社会運動は一人じゃ絶対できないことなので、そういうものが組織化されて体系立てられて、しかも知識の継承もできやすいのかなと思うことはあります。

小野 そういう仲間の力、組織の力というのが、震災の時にメリットとして生かされた部分はあったと思います。

私は福島県の地元の当事者団体の事務局をやっていた時期があるのですが、障害者団体などが集まる会議に私一人で出席した時、その空気感の中で自分の意見を言えなかったんです。その後の団体の会議で、出席者の中にもっと仲間がいたら心強いのにということを言ったら、ある先輩が、「いやそれは違う、必要だと思ったり間違っていると思ったら、たとえ一人でも言わなくてはいけない」ということを言われました。厳しいと思った反面、それも一理あるかもしれないと思いました。

まず、個人がどれだけ運動意識を持っているかというのも大事にしないといけない。若い人たちにどれだけ運動意識があるのかなという心配はあります。

先ほど大野さんがおっしゃったような、無理して階段のあるお店に行かなくても、どこに行けばスロープが付いているお店があるか、という感覚を持っている人たちは私の周りにもいます。でも、バリアフリーなお店を見つける能力をいかに持つかではなくて、行きたい店に行けるよう、お店の人と話し合っていかに入るかという力をつけることも大事だと思います。

熊谷 確かに、バリアフリーじゃないけどあの店に行ってみたいと思う気持ちと、交渉するのがたいへんで面倒くさいという気持ちの両方がありますね。年がら年中、追い風になるような運動的なモチベーションの火が燃えているわけではないから、なんとなく面倒くささがまさって、店に行きたい気持ちを小さく抑圧していくような感じだね。

東日本大震災の経験を伝える

大野 震災の時、障害者団体の人たちが一致団結して被災三県の人たちのために取り組んだことは大きい経験だったと思います。その経験は、社会全体の震災対応に役立つことを伝える作業はすごく必要だと思います。小野さんは、福島県で只中におられてどうですか。

小野 私は今、神奈川県の相模原で避難生活をしています。福島県郡山市にJDF被災地障害者支援センターふくしまが立ち上がって、相模原に共同生活の場所を用意しました。県外で生活したい人のワンステップとして、相模原の拠点に一時的に住んでもらって、その上でどこで生活するのか、福島に戻るのかの判断基準にしてもらおうというものです。

また、東北関東大震災障害者救援本部で「逃げ遅れる人々」というDVDを作成して上映会や講演会を行なって伝える活動をしています。自分たちの知っている仲間とか障害者団体の話になってはいますが、社会に対して伝えていくことも大きな目的です。これからは福祉分野にこだわらずに、映画を通して、いろんな立場の人たちの声を伝えていかなければいけないと思っています。

CILとつながっている障害者は集団避難できた人がたくさんいますが、そうでない人たちはどうだったのかを考えると、若い人ともっともっと関わりを作っていかなければならないと思いました。講演に行くと、原発事故のことは言わないでくれと言われることもあるんですが。

大野 ご自身たちからすれば、それはどうやっても切り離せないことですね。

小野 福島にとっての震災は、原発事故も重要な問題の一つなんです。やはり、原発のことを伝えないと福島は伝わらないですから。

福島の問題の一つに、放射能汚染のために、復興に向けた生活が進んでいる地域に住む人と避難を余儀なくされている人たちに分かれています。それにより、あたかも、「普通に生活ができる」人と「できない」人に分かれてしまっています。放射能汚染でいえば、福島、いや、日本全体の問題のはずなのに。

大野 今、震災の話も出ましたが、ある程度システムができ上がったために、システムによって分断されてしまうような状況もあるのかもしれません。21世紀的な障害当事者運動というのは、そもそも縦割りに分断されてしまっている自分の生活感や、自分は一体何をしたらいいのかというそもそも論を取り戻していく作業なのかもしれないと思います。

最後に、今後どういうことをしていきたいかということをお伺いします。

これからやっていきたいこと

熊谷 自分がやってみたいのは、可視化されたばかりの新しい声に対する応答責任を果たすことです。

たとえば精神障害や発達障害、慢性疼痛、依存症、そして難病もそうですね。声なき声というか、そういうかすかに聞こえ始めている新しい声、表現が始まっている。それを拡声器のように大きくしたい。その中に、従来の身体障害者中心の言葉づかいに反省を迫る鋭さが眠っていたりする。そういうところからもう一回、かく乱する必要があるのではないか。そのかく乱の只中で、若い身体障害者も含めた新しい人たちが運動に入ってきたらいいなと思います。自立って何だろうとか、仲間って何だろうとか、回復って何だろうとか。そういうことをめぐって、もう一回言葉や思想を練り上げたいなと思っています。

こういう話をするとよく、制度の大事さはどうなんだと批判をもらうのですが、そこは決して乖離していないと思っています。制度を変えるにも、そもそも自立って何だっけとか、極端に言えば、幸福って何だっけということも含めて、そういう「そもそも論」をしっかり考える必要がある。それを抽象的に考えるのではなくて、新しい声への具体的な応答の中で考えていくということをやってみたいなと思っています。

大野 私はこの4月から明治学院大学の社会学研究科というところで、難病との格闘をしつつですが大学院生生活を再開しました。難病に関する社会制度が、なぜ今日のような形に至ったのかという歴史的な経緯を調べています。

制度化されると、必ずこぼれ落ちる人もいます。難病も今、「難病等」とされて障害の範囲に入りましたが、限定された130疾患のみです。制度から外れてしまう人たちが、支援を受けられない合理的な理由は何なのか、歴史的な文脈はどういうものだったのでしょう。

今まではどちらかというと必要だから、大変だから、かわいそうだからという論調が多かったけれども、合理的な理由や論理性がなければ、当事者の人たちを守りきれなくなるという危機感が強い。財政逼迫と少子高齢化の論理に、対抗せざるを得ない日が近いうちに来ます。それに備えないといけない。経済や財政を考えている人たちとの連携をどうとったらいいのかということも、最近は考え始めています。

小野 私が障害者運動に本当の意味でスイッチが入ったのは、この震災を経験してからだと思っています。震災を経験した後に皆さん口をそろえて、やはり日頃からの近隣住民との関係性が重要だということを言われます。CILは待ちの姿勢なので、もっとつながりを持つ必要があると思っています。また、今悩んでいるとか、どうしたらいいか分からない人たちの声を聞いてあげることはCILの役割だと思うので、そこを大事にしていきたいと思っています。

制度を作ることはもちろんですが、CILの活動をもっと魅力あるものにしていくことがより大切ではないかと思っています。若い世代の人たちやこれから地域で生活していきたいという人たちにうまく伝えていくには、基本的なところはきちんと守った上で、自立生活プログラムとかピア・カウンセリングとかもその時代に生きる人たちに合ったやり方に変えていっていいと思うんです。あくまで基本は守ったうえで。こうしたらもっとおもしろいと思いますとか、若い世代に運動意識を期待しながらも、きちんと活動に参画できる環境や、自由に意見を聞いてあげられるような時間を作りながら活動していきたいと思っています。

熊谷 おそらく、形式だけの継承ではなく、大事な部分を継承するためにこそ、時代に合わせて更新していく態度が大事なのでしょうね。私が以前受けていたリハビリでも、とある流儀の初代開発者なんかは、わりと柔軟で交渉可能性に開かれている。でも、その継承者の代になると、特に教条的でまじめな人ほどたちが悪い。形式だけを受け継いでいるから、技術や思考が硬いんですね。一方で、師匠に言いたいことをバンバン言っているようなお弟子さんは、案外大切な部分を受け継いでいるような印象がありました。私も、先輩に言いたいことは言いながら、大事なバトンを受け継いでいきたいと、いつも思っています。