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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年11月号

時代を読む61

全脊連発足(1959年)の背景とその経緯

全国脊髄損傷者連合会の前身である全国脊髄損傷患者療友会は、労働災害で脊髄を損傷し、重度障害を負った人々の終身年金補償制度を求めて、1959年10月に、神奈川県の国立療養所箱根病院で発足した。

当時、1947年4月に施行された「労働者災害補償保険法」は、次のような条文であった。

「第81条(打切補償)、第75条(療養補償)の規定によって補償を受ける労働者が、療養開始後3年を経過しても負傷又は疾病がなおらない場合においては、使用者は、平均賃金の1,200日分の打切補償を行い、その後はこの法律の規定による補償を行わなくてもよい。」とあり、絶対に治らない重度の障害があるにもかかわらず、3年間の補償だけで打ち切られ、後は何の補償もなかった。

その後、1955年7月に「けい肺及び外傷性脊髄障害の療養等に関する特別保護法」が参議院で可決され、長期にわたる職業性疾患の場合は、手当支給を2年間延長されることになった。しかし、この法律で保護されたのは、法律が公布された日以降に打ち切り補償を受けた被災者だけで、それ以前の被災者は何の補償もなかった。

1958年3月「けい肺及び外傷性脊髄障害の治療等に関する臨時措置法」が可決され、さらに2年間の保護が延長された。同時に、政府は1960年度中に恒久保護対策を樹立するための法案を国会に提出する義務を負うことになった。そこで、労働大臣の諮問機関として公、労、使から各1人、計3人の委員で構成される「けい肺審議会」が設置された。

ところが、この審議会の席上、使用者側委員が、突然「脊髄障害を保護対象から除外せよ」と言う暴言を発した。

これを聞いて全国の脊損患者は、血が逆流せんばかりの怒りを覚えたと言われていた。

この暴言がきっかけとなり、国立療養所箱根病院の脊損患者が主導的になって、全国の脊損患者と大同団結して、使用者側委員の暴言「脊髄障害除外」を撤回させると固く決意して、全国の労災病院と主要な病院に入院している脊損患者に全国組織の結成を呼び掛けた。

その結果、全国各県単位で22支部、900人の会員で構成する全国組織が集大成され、初代会長に伊藤治夫が就任し、早速、国会陳情や要望活動など療友会の活動が始まった。

この年の11月3日には、小金義照自民党組織委員長、田中正巳自民党社会部長、永山忠則衆議院議長、厚生、労働両省の幹部をわざわざ国立療養所箱根病院に招き、脊損の永久保護を直接陳情した。こうした活動の結果、1960年3月に『労災法』が改正され、待望の年金補償制度が導入されることになった。

(妻屋明(つまやあきら) (公社)全国脊髄損傷者連合会代表理事)