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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年8月号

「障害の受容」も「身辺の自立」も〈御国〉がからめとろうとした

岸博実

「戦争」を「平和」と言いくるめ、憲法9条とあまりにも食い違う国へ導く動きが急ピッチで進められています。

1974年に盲学校で働き始めた私は、1980年代から、「戦時下の盲学校」や「視覚障害者と戦争」をめぐってどんなことが起きたのかを調べてきました。最近は、4つの側面から史実を明らかにし、記録しておこうと努めています。第一は、差別され、排除されてきた側面です。第二は、物的・人的な被害の側面です。第三は、動員され、参加させられてきた側面です。今回は主にこの面を採り上げます。そして、第四は、戦争はいやだ!と声を上げた側面です。

第一の、戦時下で障害者が受けた差別には、二重のしんどさがありました。一つは、古くからの「因果の報い」思想から来る差別、もう一つは、明治初めの徴兵制によって「軍人になれない」存在におとしめられたことによる蔑視です。昭和の戦争の頃、「役立たず」「穀潰し」などと、冷たい言葉のつぶてを浴びた人が少なくありません。

第二の、被害の例は比較的よく知られています。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下や各都市への空襲が多くの盲学校やろう学校を破壊し、生徒・保護者や教員のいのちを奪いました。軍事費が優先されたため、盲・ろう教育の義務化は敗戦後まで先延ばしされました。養護学校・学級はごく一部に止まりました。学童疎開でも、国民学校の場合は行政が責任を持ちましたが、盲・ろう学校については、学校長などが疎開先を探さねばならなかったため、実施が遅れ、戦後の再開も後回しにされました。

さて、「第三」の「視覚障害者の戦争への参加」の側面です。一方では「役立たず」とみなしつつ、他方では「盲人もお国のために役立つ」ことを求める動きがありました。それは、「報道」や「教育」などを通して行われました。二つの資料をご紹介しましょう。

一つ目は、1945(昭和20)年1月4日付の『点字毎日』新聞に印刷されている「新春譜」と題する呼びかけ文です。一部を抜き出してみましょう。

「我々は過去に於て陸海軍への『航空機献納』に、直接『兵器増産』に、将又(はたまた)第一線の神鷲たちの疲労回復のため『航空あんま』に、産業戦士のための『産報あんま』に、戦病勇士の『慰問治療』に、又『音楽報国』に『食糧増産』に、盲人としてなし得る、ありとあらゆる方面に挺身して来た。(中略)然し、これでもうよいのではない。」

「航空機献納」は、昭和17年、全国の盲人からの寄付金をもとに海軍へゼロ戦を納めたことを指します。「兵器増産」は、軍需工場で働くこと。各地の盲人団体や盲学校は、鍼(はり)や按摩(あんま)の技を生かした治療奉仕を広く行いました。戦場で傷ついた兵士が入院している病院を訪ねて、琴の演奏で慰問する活動もありました。

石川県で、敵の飛行機が近づくのを耳で聴きとる防空監視に参加した盲人がありますが、その近江谷さんは「当時は、うれしかった」とおっしゃいました。裏返せば、それだけの心理的なプレッシャーが背後にあったのです。

視覚、聴覚、肢体などの障害のある人々の「戦争への協力」は、しばしば新聞などで大きく報じられました。一般の国民を戦争遂行へとあおるキャンペーンに利用されたのです。

近江谷さんの証言にもう少し耳を傾けてみましょう。

「私のような、こういう眼の見えない障害者でもですね、何かまたお役に立つことがあったら、ありがたいと思ってね。当番の日に出かけました。特に楽しいとか特に苦しいとかいうような、そういう思いをしたことはないように思います」

当時、防空監視哨で働いていた眼の見えた人たちは公務扱いになっていて、給料が出ていたが、いかがでしたか、とお尋ねしたのに対して、近江谷さんは「えっ。ほおう、そうですか。私は別に何も。いただいたことはありません」とお答えになりました。防空監視への参加をめぐっても差別的な取り扱いがあった可能性があります。

二つ目は、1944(昭和18)年の7月2日に、京都府立盲学校で行われた生徒向けの講演です。満州建国大学・森信三先生の「御講和」の記録が残っています。

それは、「国家非常の時に」「目のご不自由なあなた方は一体どういう態度で生活されたらお国のためになるのでありましょうか」という問いかけと、それへの回答でした。

まず、「あなた方は少年航空兵にもなれず、潜水艦にものれず、直接召に応じて出征できない身の上」つまり、兵士になれない立場であるという切り捨てから始まります。そして、「そうした人々と自分をひきくらべてみて、目の不自由からくる身の至らなさに思いを致されなければなるまい」と、盲児たちを責めます。さらに、「それをしないというと、あなた方は目のご不自由なためとはいえ、この国家の安危にかかわる重大時局において、日本国民の一員として生をこの国土の上にうけている意義を果たさぬということになる」とたたみかけ、話は、「盲人としての心得」へと続いていきます。

「食べ物に対して絶対に不平をいわないというようなことは目のご不自由なあなた方としてまず第一に心がけるべきことでありましょう」

「次には、自分の身のまわりのことに対してなるべく人手を煩わさないということです。(略)すなわち朝起きたらまず自分の夜具は自分でかたづける。(略)この非常時にはこれくらいのことは一人のこらずやらねばなりません」

「これまでともすれば癇癪を起しがちだった人が次第にそれを起こさないようになる。このように自分の欠点をなおしてゆくということは、周囲の人々に対して一つの貢献となるのであります」

「今日、日本国において一番大切なことは大東亜戦を本当にやりぬくことであります。(略)そうしたあげくの果て、日本国に対して尊敬敬愛の念を起させるようにするということであります。それまではどんなことがあってもゆるめず、突いて突いて突きぬくのであります」

なんと激しい言葉でしょう。読むのも辛い言葉です。自分が存在する意味を否定的に「受容」させることを入り口に、要求を抑え込み、我慢を強い、「身辺の自立」を「国家への貢献」の方向に誘導していく筋書きに空恐ろしいものを感じます。このようにして巧みに人を追いこみ、利用する社会と時代を再現してはなりません。

人間を「戦力」と見なす時代、障害者の尊厳はふみにじられました。兵士の命も軽んじられました。戦争が最も大量に障害者を生み出します。

まず、戦場に狩り出された兵士たちが、敵方からの爆撃、銃撃などによる大量の死傷に見舞われました。傷痍軍人に関する資料や記録を保存・公開している東京・九段の「しょうけい館」によると、失明した兵士の正確な人数さえはっきりとは分かっていないとのことです。昭和10年代、盲学校や失明軍人寮におびただしい入所者がありました。現在、「平和安全」の名をかぶせて法制化されようとしている「自衛隊の後方支援」などが、再びの悪夢につながらない保証はありません。

戦場ではなかったはずの国土においても空襲や原爆投下により、障害の有無を超えてすべての国民が命の危機にさらされました。

それだけに、今、平和の危機に際して、第四の側面に光を当てることが大切になっています。障害児者による厭戦・反戦の言動はまだ調査のとば口にありますが、それでも、大正時代、陸軍の大演習に反対するビラまきに参加した盲人エスペランティスト小野兼次郎がいたこと、警察に追われる彼を京都ライトハウスの創立者・鳥居篤治郎が一晩かくまったことなどが分かってきています。昭和期には、弱視の守田正義が音楽家として反戦運動のリーダーになりました。果敢に生きた先人もいたのです。小さなつぶやきを遺(のこ)した名もない人たちも見つかりつつあります。それらをもっと丁寧に拾い上げる営みを通じて、平和へと向かう勇気の輪を太く強く育みたいと思います。

日々の生き方の底には、「御国への貢献」よりも「ゆたかな自己の追求」を!

(きしひろみ 日本盲教育史研究会事務局長)