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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年9月号

列島縦断ネットワーキング【京都】

地域社会で生きる 主体としての人間性の回復のために
―いこいの場 ほっとハウスの23年を振り返る―

棚谷直巳

ほっとハウスの始まり

いこいの場ほっとハウスは、4人の精神障害当事者によって1992年4月に誕生しました。

宇治市には、隣接する京都市伏見区を含め、200床以上の精神科病院が3か所あります。当時、解放医療の運動の流れも受けて、民間アパートで一人暮らしを始めていた精神障害者の世帯が多数ありました。閉鎖病棟での処遇から地域での処遇へ、という流れはあったものの、肝心の地域社会には、彼らの生活を支え守るための機関としては、保健所と下請け単純作業を活動の中心とした小規模共同作業所しかありませんでした。

私は、自分自身が精神障害者であり、経験的に、人の癒しには医療だけではなく、普段から人間と人間との交流が必要であると考え、町の中に自由に集えて、プログラム参加を強制しない「いこいの場」が必要だと考えていました。当初は週4日、9時~17時開設のフリースペースとして、昼食活動を中心にレクリエーションや文化芸術活動をしていました。

ほっとハウスには、今もプログラムへの強制参加はありません。陶芸や臨床美術、レクリエーションなどの企画はありますが、唯一、毎日のプログラムである「いっしょに昼ご飯を食べること」も、参加するかしないかはメンバー個人の判断に任せています。

仮に何かのプログラムを行う時でも、参加者がプログラムをこなすことを第一の目的にしてはいけないと考えています。むしろその人がプログラムにつまずいた時に、その人が今、何に困り、何に悩んでいるのかを解決することが大切であり、参加できない、こなすことができないことを責めてはいけないと考えています。つまずいた時こそ、その人と向き合うチャンスであり、そこにグループや地域の小グループから、生きたコミュニティへと育っていく鍵があるのではないかと考えます。

「いっしょに昼ご飯を食べること」という20年以上の地道な活動の積み重ねが、メンバーの多様化したニーズにも対応できるようになった要因だと思います。現在では、いこいの場ほっとハウスの核となるとても大切な取り組みになっています。

自分たちで獲得していった公的助成金

1997年から、当事者の市民運動として「いこいの場に公的な助成を求める請願運動」が始まりました。ほっとハウスのほとんどの利用者(メンバー)は、自分たちの生活のために請願署名を集めて回りました。ほっとハウスの利用者が、「ほっとハウスは自分にとって大事な場所だ」と言い切る人がとても多いのは、こうした行政への働き掛けも自分たち自身がやってきたという自負があるからではないかと思います。

この当事者運動により、ほっとハウスは2000年に、宇治市をはじめとする5市町村による小規模共同作業所としての認可を得ました。その後、2007年からの障害者自立支援法に対する「小規模共同作業所の実践継続を求める請願運動」と、2012年の「地域活動支援センター3型の安定運営を求める請願運動」へと進展しました。

ニーズの多様化と新しい支援の模索

2000年前後から、精神科病院への訪問・面会活動が始まり、緊急入院時支援も行われるようになりました。きっかけは、不調により出勤できなかったメンバーに弁当を届けたことでした。この頃はまだ、ほっとハウスは生活支援のためのスキルを十分には持っていませんでしたし、メンバー一人ひとりも生活のしずらさを理解していなかったと思います。「もしも地域生活が維持できなくなったなら一時的に入院したらいい。そして、入院して元気になったら退院して、また地域生活に戻ればいい」という、単純な思考パターンに頭が支配されていたのだと思います。よく「精神障害者には波があるから支援が難しい」と言われます。しかし、だからこそ、その人に高い波が訪れないように普段からの見守りと支援が必要なのだと思います。

2012年から2013年にかけて、5人のメンバーが相次いで原因不明の意識障害などで総合病院に緊急入院しました。そのうちの1人は救急車で運ばれた時、原因不明で全身が動かない症状を呈していました。たまたま彼のその時の主治医が脳神経外科のパーキンソン病の専門医であったので、「この症状はパーキンソン病に大変によく似ている」という診断を下しました。

私たちは、彼の普段の投薬情報として、お薬手帳の情報だけでなく、普段の服薬状況も病院側に伝えました。そこで疑われたのが、向精神薬の多量投与が原因として起こる「疑似パーキンソン病」でした。医師は、一度、原因と見られる向精神薬を止めて、パーキンソンの薬を投与しました。そして、一定の身体的な症状の改善をみたのですが、「精神科の薬を止めた場合、この人は精神科的には大丈夫だろうか」という課題が残り、医師は、率直に私たちに意見を聞いてこられました。

私たちは、総合病院の入院中にかかりつけの精神科医院を外来受診する、という案を提案したところ、案は受け入れられ、これにより向精神薬の減薬の割合が精神科医師から総合病院の医師に示されました。身体のリハビリを経て、彼はその2週間後に退院しました。またある時は、医師が意識障害から回復しつつある方の回復の度合いを判断する際に、普段の様子を知る私たちに情報の提供を求められることもありました。このような事例は5回も続きました。

この経験はその後、一般内科・外科でも精神障害者に適切な医療が行われるための支援に発展しました。メンバーの入院時に、その人の普段の様子や向精神薬減薬時の様子などをできるだけタイムリーな情報として治療現場に提供するよう、精神科と他科との橋渡しをし、一定の回復をみれば外出許可を病院からもらい、付添いのうえ必要とされる他科を受診する方向に進みました。

この「緊急入院時支援」は、普段からのいこいの場の活動なくしてはできなかった支援でした。入院というデリケートな緊急場面では、何よりもいこいの場で培った信頼関係が重要な働きをしたと考えています。

2014年4月に、こうした「精神障害者の入院及び外来受診時の支援」について、宇治市が単独で助成事業費を出すようになりました。決して十分な額ではありませんが、いこいの場で、独自に生まれた地域保健福祉の支援に公的な助成金がついたことは、意義があるのではないかと考えています。現在では、地域の訪問看護事業所や介護事業所、そして多機能事業所や病院と連携して地域カンファレンスを行なって、退院促進を実現しています。

これからの活動

夢は、全国中核都市のモデルケースとなることです。それは、人口19万人の中核都市である宇治市での地域生活支援事業が成果を収めれば、他の中核都市にある大型精神病院に入院中の全国31万人の仲間も、地域で暮らしていく道筋ができる、と思うからです。これからも、それぞれの看護事業所や介護事業所のスタッフの皆さんとともに、「こんな生活がしたい」というメンバーの思いを大切に、当事者の生活と人権を尊重できるように活動していきたいと思っています。

今後の最大のテーマは、「精神障害者の介護」です。「見守る」「話を聞く」「同じ時間を過ごす」など、これら、一見当たり前に見えることがらが、精神障害者にとって、本当に大切な「介護」であるということを、自分たちの日常から証明していきたいと、願っています。現実にぶつかりながら、いこいの場ほっとハウスの模索は、これからも続きます。

(たなやなおみ 地域活動支援センター3型いこいの場ほっとハウス)