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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年10月号

1000字提言

有事と隔離

萩尾信也

「抜けるような青空にポツンとひとつ、小さな雲が浮かんでいた……」

群馬県草津町の高原にある国立ハンセン病療養所(現・国立療養所、標高1100メートル)の「栗生楽泉園」で暮らしていた元ハンセン病患者の桜井哲夫さんが語る「1955年8月15日」の空の記憶である。戦後60年を迎えて「有事法制」に揺れていた2005年に、楽泉園を訪ねた際にうかがった。

ラジオから流れる「玉音放送」を聞き終えた桜井さんは屋根によじ登って天を仰ぎ、過ぎし日々と新たな時代に思いをはせたという。

敗戦のあの日、園内はさまざまな思いが渦を巻いていた。泣き崩れる人々もいれば、自殺を口にする人もいたし、すでに治療薬を開発していた米国が進駐軍とともに「特効薬」を持ってきてくれることを期待して万歳を繰り返す人々もいた。

戦時中、時の政権は「ハンセン病患者の隔離収容政策」を推し進め、徴兵検査で罹患者を見つけると強制的に収容した。「お前たちはお国のために何もできない、ごくつぶしの役立たず者だ」。罹患者たちは罵声を浴びながら、有無を言わせずに「お召し列車」と呼ばれた隔離車両で施設に移送された。

国は「ハンセン病撲滅」を目指し、患者に子どもをもうけることを禁じた。収容後に園内で結婚した桜井さんの妻はお腹に命を宿したが、妊娠6か月で人工早産を強いられた。多くの罹患者が「田舎の親族に迷惑が及ばないように」と本名を隠して別称を名乗り、存在を消すように息を潜めて施設内で暮らしていた。

そして戦後70年を迎えた今年、国は憲法改正を視野に「安保法制」を可決する中、私は桜井さんの言葉をいま一度、かみ締めている。桜井さんは自戒を込めて、こう言った。

「戦争は国家の存続に関わる最大の有事だ。そんな時、国は力で障がい者や弱者を排除する。でもね、我々はその時の教訓を忘れて、今だに差別や戦争の本質と向き合うことを避けてはいないだろうか。有事に国は弱者を切り捨てることをもう一度心に刻んでおく必要がある」

かつて1300人を超えた楽泉園の入所者は高齢化の中で相次いで死亡し、今秋の入所者は89人、平均年齢は85.5歳に達した。桜井さんも4年前に87歳で亡くなった。

強制隔離をうたった「らい予防法」がようやく撤廃されたのは、戦後41年もの歳月を経た1996年の夏だった。

「ひとたび有事になれば、お上(国)にあらがうことは難しい。ならば、平時に私たちができることは何なのか?」。桜井さんが遺した言葉は重い問いかけを我々に突きつけている。


【プロフィール】

はぎおしんや。1955年生まれ。東京社会部専門編集委員。末期ガンの先輩記者の看取りの軌跡「生きる者の記録」で2003年度早稲田ジャーナリズム大賞を、東日本大震災発生時から1年間にわたる記録をつづった連載記事「三陸物語」で2012年度日本記者クラブ賞を受賞。