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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年6月号

ワールドナウ

車いすを介した海外協働事業“さくら・車いすプロジェクト”
車いすと技術を贈る

斎藤省

さくら・車いすプロジェクトとは

さくら・車いすプロジェクト(以下、当プロジェクト)は、日本で不要になった中古の電動車いすを全国から提供を受け、コンテナでパキスタンに送り、それを現地の障がい者団体の当事者が整備し配布していく活動です。その整備やシーティング技術を日本車椅子シーティング協会(JAWS)のメンバー等専門家が伝承に赴き、身体に合った車いすを長く安心して使用できるインフラづくりと、技術の習得を持って経済的自立を目指している。そして将来的には「車いすトレーニングセンター」として近隣の国々からも学びに来られる場に育つことを描いている。パキスタンからのニュースは、アルカイダなどテロ等の殺伐としているものばかりだが、障がい者の世界では、このような日本との交流が育まれている。

プロジェクトの始まり

当プロジェクトの始まりは二つの流れからであった。一つは2000年頃より、全国自立生活センター協議会(JIL)と協働で当社(さいとう工房)は、アジア各国から研修で来日した障がい者が帰国時に持ち帰れるよう中古電動車いすを提供していた。それも数十台になると故障が出始め、その修理に韓国やタイ、そしてパキスタン等を訪問するようになった。その現場で同時に見たものは、修理技術や身体に合わせるフィッティングの概念がない環境での普及の難しさだった。それはさまざまなNGOから贈られた手動車いすも同じで、当時「難民を助ける会」がインドで調査したデータでも、せっかく届けられた車いすが有効に利用できていない現状を示していた。

もう一つの流れ

2003年に、ダスキンアジア太平洋障害者リーダー育成事業で来日した、パキスタンの青年シャフィック氏が帰国し、日本で体験したアクティブな車いすの製作を志し、手探りで挑戦していた。そこに2005年、パキスタンに8万人の死者を出す大地震が襲った。その救援活動に参加した彼らは、車いすの必要性は切実なものとなり、JILやJAWSの協力でシャフィック氏の弟のハビブ青年を日本に招聘し、本格的な技術研修を行なった。

また、製作費も世界銀行への支援要請が叶い、翌年、彼らはパキスタンで2,300台の車いすを製作し被災者に提供した。人間を運ぶだけの病院型の車いすしか目にすることがなかった彼らに、アクティブに動ける車いすは希望を見い出し、もっと多くの人に提供できるようムーブメントが起こった。2008年ついに政府を動かし、パキスタン独立記念日に大統領自ら「車いすの交付制度施行の発表」という劇的な出来事につながった。これはシャフィック氏たちが描いた以上のものだったかもしれないが、そこにあっても筋ジストロフィーや重度のポリオの人など車いすを漕げない人たちにはその恩恵が届かなかった。

電動車いすの有効利用プラン

手動車いすを使えない彼らにも、これまでの取り組みを上手く活(い)かせば電動車いすを利用できるのではないか。

日本では、毎年5,000台を超える電動車いすが全国で支給され、同数が不要になっている。それを1か所に集め、コンテナで送付すれば安価に送れる。車いす造りを成功させたシャフィック氏の自立生活センター「マイルストン」のメンバーなら修理等もできるようになるのではないか。パーツと技術があればいつまでも使用でき、直せないものは2台を1台にしたり、交換パーツにもなる。その技術を障がい当事者たちの収入源につなげられないか、そんな構想が湧きあがった。

修理やシーティング技術はJAWSの得意分野である。その場が車いすの技術トレーニングセンターに育てば、近隣の国々からも学びに来られるようにもなる。そして、日本から赴く技術者も友人ができ、視野も広がり、10年後の業界にきっと新しい流れを生み出すのではないか。

また、物を送るだけでは「もらうこと」を助長し、自立しにくい現実が過去の支援には多くあった。それ故「自分たちで切り開く」志のある人たち(カウンターパート)との協働事業であることが重要で、そのロールモデルとして、ダスキン研修の卒業生であるシャフィック氏の自立生活センターは最善のパートナーであった。

初めての送付

当プロジェクト案が固まり、発起人としてJILやJAWS、そしてメインストリーム協会やDPI日本会議等パキスタンにゆかりのある団体と、すでに当社で働くようになっていたハビブ氏の存在が大きくあった。そして2011年4月、NPO法人さくら・車いすプロジェクトとして認証され登録することができた。

同年7月、初のコンテナは53台の中古電動車いすを積み込み、11月、ラホール市にある「マイルストン」に到着した。そして、第1回車いす技術セミナーには、企業や大学からの協力者も参加して、可能性への予感にワクワクしながらのスタートとなった。

しかしその道も平坦ではなく、カラチ港で陸揚げできず膨大なコンテナ保管料を請求されたり、テロのセキュリティによる積荷検査の強化やバッテリーの入手問題等々、常に山あり谷ありの連続だが、日本側もパキスタン側も、その都度正面から取り組んできた。

5年が経って

車いすの提供も送料自己負担ながら多くの方々の協力の上、2016年4月までに7回のコンテナで累計400台ほどの電動車いすが送られた。セミナーもこれまで10回開催され、現在、マイルストンがあるラホールだけでなく、イスラマバードやカラチの団体にも提供されるようになった。昨年はその3都市から代表たちが来日し、交流会を開催することもできた。

5年が経っていまだ課題は山積しているが、パキスタンでも車いすを見かけるようになり、可視化された問題はさまざまなバリアフリーを生み出し、ラホール市ではノンステップバスも走るようになった。支援者によって土地が提供され、トレーニングセンターの建屋も立ち上がった。

現在は、JICAの草の根技術協力助成や外務省のNGO連携支援も叶い、イスラマバードの国立科学大学(NUST)との技術協力も生まれ、パキスタンの新聞やテレビでの紹介、大学でのプレゼンもしばしばある。今年は、職業訓練校の車いす技術の先生が講師に赴いたりもした。先日、東京で行われたJICAでの報告会には、パキスタンから来日した当事者と介助者6人が、電動車いすを手に入れ変化した記録映像や感動的な感想を届けてくれ、関係者は皆このプロジェクトの交流で生まれた歓びで満たされた。

車椅子クリケット大会

この活動が始まった2011年、「車椅子クリケット」のトーナメントに招待された。これはアクティブに動ける車いすを手にした彼らが生み出した車いすスポーツだ。世界のスポーツ人口第2位のクリケットは、イギリス領だった南アジアでは熱狂的なスポーツだ。パキスタン全土から集い、汗を流してのプレーと歓声、そして地域の有力者や芸能人によってトロフィーが授与され、マスコミも取材に来る晴れがましい大会となった。認められる機会が少なかった彼らが、拍手と歓声を受け誇りを持って活躍している姿は、受け身ではない自ら切り開いた自信に満ちたものだった。

昨年、この車椅子クリケットはネパール、インド、バングラデシュ、スリランカ等にまで広がり交流試合も行われていることを知った。もし一人の青年が日本に来てまで技術を学び、アクティブに動ける車いすを自国で生み出す挑戦がなければ、車椅子クリケット大会はまだ産まれていないだろう。日本の企業や団体が撒(ま)いた絆の種(願い)は、いまバラバラになりそうな激動の世界においてさまざまに芽を出し育っていることを思う。当プロジェクトも、その活動の一つとして、これからも多くの方々との協働でその輪を広げていきたいと願っている。

(さいとうしょう NPO法人さくら・車いすプロジェクト理事長)