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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年11月号

文学やアートにおける日本の文化史

あの頃の、光明学校

堀沢繁治

昭和43年3月15日。都立光明養護学校(現・都立光明特別支援学校)の講堂兼体育館では第27期生の高等部卒業式が行われようとしていた。教職員、来賓、保護者、在校生が整然と並べられたパイプ椅子に着席して、卒業生の入場を待っていた。

よぉーく見れば、松葉杖や車イスがあり、横から付き添いの人に傾いていく、あるいは前へずり落ちそうになる体を支えてもらっている児童生徒は散見される。それを除けば、ありふれた卒業式のひとコマである。

後方のドアが開かれ、中央に設けられた通路を列をなして進んで行くうちに、いつもの卒業式と違う雰囲気が会場に広がっていることが感じ取れた。通路寄りに座った後輩たちから声が掛けられる。「おめでとう!」がほとんどだが、「寂しいです!」というのがあったことが、わが27期を最もよく表している祝辞(?)だったのではないだろうか。

卒業証書は、卒業生一人ひとりにあった餞(はなむけ)の言葉とともに校長から舞台上で手渡される。僕のように舞台に上がれない生徒には校長が降りてきて手渡す。当時は舞台に上がれない生徒は少なく、脚力の弱い生徒も階段に手を突いてでも、軽度の級友の肩や腕を借りてでも壇上に上がった。当時としては見慣れた光景だった。

わが学年の全員が卒業証書を受け取って席に着いた。ふと横を見ると、お山の大将でやんちゃも凄いが、統率力に長け、12年間常に、わが学年の強いリーダーを務めてきたT君の目から大粒の涙が流れ落ちていた。その伝播は速く、何があってもヘラヘラしていた級友まで頬を濡らしていた。男子が先に落涙し、それを見た女子が声をあげて泣き出し、卒業するわが学年全員が泣いた。とても時代がかった卒業式を演じた。それまでに11回見てきた僕の卒業式の記憶ではそういう情景はない。

「世田谷の方に、歩けない子どもの学校があってね。今年も去年も入学試験に大勢の希望者が殺到したそうだよ。きみの息子さん、利発そうだから、受けさせるだけでもどうかね?」。工場勤務の父が本社会議に呼ばれた時に、直接の上司を飛び越して本社の専務に聞かされた話だそうだ。

昭和30年11月。それでも父は、工場の人たちに聞いて確認を取ったらしい。確かに新聞に出ていた、となり、祖父母と母に伝えた。ここからわが家の「お受験」東奔西走が始まる。実際に走り回ったのは母であるが、家族が一丸とならなければ成し遂げられない一大事業であった。

今では考えられないが、区役所の福祉担当部署でも「手足の不自由な子どもを受け入れてくださる学校があるそうですが、どこにあるでしょうか」という問いにも答えられずに、福祉事務所に行って聞けとか保健所で聞けとか、そういう状態だった。担当者が面倒くさくてタライ回しにしたというよりは、本当に知らなかったというのが真相のようである。

父の上司からもたらされた情報が、母が光明学校探しに乗り出す直接のきっかけになったことは疑いのないところである。うすうす、手足の悪い子の学校が都内にあることは、日赤や東大病院に通っている間に耳にしていたが、それは井戸端会議的なうわさ話の域をでていなかった。

光明学校に入るという競争は、すでに病院通いの段階で開始されていたと言っていい。昭和20年代後半では、障害者の家族たちが集まって、関係の情報を交換したり共有したりする場は、大きい病院の整形外科の待合室を兼ねた廊下が唯一だった。

もう、この段階でたくさんの肢体不自由者が篩(ふるい)に掛けられているのだ。どこの病院に障害に詳しい、治療経験のある医者がいるかを知ることも、特別な人でなければできなかった。知ったとしても、そういう病院に実際に通わせられる家庭がどのくらいあっただろうか。食うや食わずの当時においては、極めて少なかった。悪戦苦闘の末、実際に走り回ったのは母だったが、わが家は光明学校にたどり着いた。

昭和31年度の入学願書提出の締め切りが迫る晴れ渡った日に、母は光明学校を見学させてもらった。地図上の番地と、福祉事務所でやっと得た(結局は違っていたのだが)他の障害児の学校で教えてもらったとおり、乗り換え乗り換えで路面電車の玉電「松原」駅に降り立ち、歩いて光明学校を探り当てた。この時母は「あの子を背負って通えるか」と真っ先に懸念したようだ。校内を案内してくれたベテラン女性教師の「締め切りが迫っています。受けるだけ受けさせたらどうでしょう」という誘いに乗った。

そんな大変な事とは知らずに、痛いことをされる病院ではない場所に行けることを楽しみに僕は受験に臨んだ。入試と言っても一斉のペーパーテストではない。3、4の教室に順番に1人ずつ入る。普通校では絶対に無いのは、まず入念な整形外科的観察というのがあった。入学してからもより専門的な診察が整形外科の権威という医師が行う。学習面では、名前を聞かれ、日々の生活を中心に話を聞かれる。次の部屋では筆記は大丈夫かどうかを調べ、普通校で言えば国語力、ということか。次は数学で言うと、代数みたいなこと。これはわが家は小さいながらも商店だから、お金になぞらえて計算できたのですんなり答えられた。次は図形だ。三角はどれか、に始まってピースの大きいジグソーパズルのようなもの。いろんな形の硬い紙片を組み合わせて、先生が指定する形に完成させる。空間把握能力を見る。実に簡単だった。結果は、十数倍の難関を突破して合格した。この学年が校史に残るのは、僕の後から受けた複数の級友がこの幾何パズルを難なくクリアしたからである。

1学年1学級。定員12人。学校裁量でか15人が入学を許可された。入試当日の受験生は200人を超えた。特例として、障害軽減のために手術を受け長期入院したり、入学してから持病が悪化して長期入院を強いられた“先輩”が編入になって総勢18人という大所帯のクラスになった。普通校が1クラス5、60人、1学年10クラス以上が当たり前の時代に、「大人数」と言うには気が引ける。僕たち27期生が入学した昭和31年は、戦争が終わって10年と半年あまり、戦争で被災し、まだ校舎のあちこちに穴が空いていた。修繕ということでも普通校が優先されたからだ。

十数倍の難関を突破してきているだけあって、「誰にも負けたくない」と思っているクラスメイトが大半だった。大半が入学前に自分の名前を漢字で書けた。現在と違って、特に歩行に支障のある子どもは、通院と通学を除けば、終日、家にいた。手押しタイプの車イスも僅(わず)かしか無かったからでもあるし、障害を理由にしたあからさまで激しい嫌がらせにも遭うからである。自然に、誰に教わるでもなく、読み書きが達者になる。僕たち27期生は「光明の歴史に残る学年」とか「27期生は優秀だった」とか言われているようだが、こんなことが起因していたのかもしれない。

飛び回れるタイプの在校生は、そういう嫌がらせにもまれてきて、対抗できるほどの身のこなし方や、自分の地元のちょいとやんちゃな連中を手なづける術を会得しているから、光明学校での生活においても活発だった。

取っ組み合いのケンカも派手にやらかす。期末試験の前になると、勉強していないと思わせるために、普及し始めたテレビの番組のことばかり話すヤツがいた。ソイツは実際には見ておらず、徹夜に近い状態で勉強に専念し、家族に見させておいて翌日の朝に内容を聞いているのだ。期末試験前のだまし合いもそのように巧妙で、その対応は試験よりも難しかった。学習面でのライバル同士の競争は熾烈だった。障害児が純粋無垢なんてウソだ。少なくとも僕らの世代は。

どういう訳か、我ら27期生は、学習を離れると、仲が良い。手が不自由な級友の給食を手の利く級友が食べさせたり、重度の僕などは、軽度の級友に何かにつけて助けてもらった。介助職員の配置などの考えさえもなかった。

小学3年くらいになると、最重度の僕でも椅子からずり落ちて、腰を固定してある紐で首を吊るようなことはめったになくなった。ちょうど社会が福祉に目を向け始め、付き添いの母親たちは連日のように国会や都庁、教育委員会などに陳情、陳情で学校にはいない。担任も一人で、手一杯。そこは優秀な級友たちだ。互いの障害を補い合って、学校生活を送るようになり、卒業後も、結婚した級友たちの家事や子育ての手助け、旅行などの付き添いを、軽度で歩けるタイプの女子たちが続けていた。楽しくも厳しくもあった、幸福な学校生活を送り、その多くが一生の「親友」になった。卒業式で流した涙は、自分自身への満足感と級友たちの友情に対する感謝、それにほんのわずかな寂寥感の融合物だったのではあるまいか。

(ほりさわしげはる 車イス者の生活を考える会主宰、「車生考」編集人)


1932年(昭和7年)日本初の肢体不自由児の学校として東京麻布に開校。