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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年1月号

座談会
これからの障害福祉を展望する

青山裕香子(あおやまゆかこ)
全日本ろうあ連盟青年部中央委員
大胡田誠(おおごだまこと)
日本盲人会連合青年協議会会長
黒川真友(くろかわまさとも)
全国障害者問題研究会全国事務局
田丸敬一朗(たまるけいいちろう)
DPI日本会議事務局長補佐
福田暁子(ふくだあきこ)
全国盲ろう者協会評議員、世界盲ろう者連盟事務局長
司会 後藤悠里(ごとうゆり)
名古屋大学学生相談総合センター障害学生支援室

自己紹介&団体に関わったきっかけ

後藤 今日は、障害者団体や関係団体の若手の方にお集まりいただきました。皆さんには現在、取り組んでいることや今後の展望などについて、若手の観点からお話しいただきたいと思います。今日はよろしくお願いいたします。

初めに、最初に団体に関わることになった経緯も含めて、自己紹介をお願いします。

私は、大学で障害学生支援の仕事について1年半になります。以前は、香港や韓国の障害差別禁止法制定過程についての研究をしていました。

田丸 私は生まれつきの全盲です。2006年までカナダに留学して、移民や難民のソーシャルワークを勉強していました。帰国する時に日本の障害者のことを知りたいと思い、福田さんの紹介でDPI日本会議(以下、DPI)のインターンをすることになりました。DPIは、障害種別を問わず障害者問題を全般的に扱い、国際協力も含めた活動をしている団体だったので、日本の障害者の置かれている状況の全体像を知ることができました。

インターンが半年で終わった後もボランティアで関わっていましたが、2009年8月から職員として働いています。現在は、国際協力の分野と障害者権利擁護センターの相談員をしています。

大胡田 私は弁護士になって、弁護士会内部の日本で障害者差別を禁止する法律を作ろうという委員会に所属しました。弁護士の立場で法律についての研究を深めていたのですが、当事者団体がどういう考えを持っているのか、どういう働きをするべきかを知るために、当事者団体に入った方がいいかもしれないなと考えていたところに、知り合いの方から誘っていただいて日盲連に関わるようになりました。

私は39歳ですが、20代30代の人は少なく、団体は高齢化していることが分かりました。10年20年後にどうするのか。若手世代がエンジンになれるかが課題だと思います。

仕事の上では、いわゆる「まちべん」、町医者のような弁護士で、身近なトラブルを扱っています。多いのは離婚、相続、借金、交通事故などのご相談と、あとは、私自身が障害当事者ですので、さまざまな障害をもった方々からのご相談も、ほかの弁護士よりも多いと思います。

青山 学生の時から全日本ろう学生懇談会で活動をしていましたので、全日本ろうあ連盟や青年部があることは知っていました。その延長線上といいますか、大学を卒業して就職し、社会人として手話を使う当事者として活動していきたいという気持ちもあり、団体に入りました。

青年部員の対象年齢は18~35歳です。「仲間づくり・学習づくり・要求づくり」を活動の3本柱にしています。身近な権利の獲得や保障に向けて活動しています。

黒川 私は、「みんなのねがい」という月刊誌を作る編集部にいます。大学の時は障害関係は専門ではありませんでした。ひょんなことからベトナムの障害児教育の講義を受ける機会があって、そこで知り合った先生に「作業所がある」と言われて、作業所の存在も知らなかったのですが、重度の知的障害者の作業所に職員として働くことになりました。

缶つぶしの作業や絵を描いたり、散歩したりなどの療育活動をしていたのですが、勉強したいと思った時に、先輩から全障研の「みんなのねがい」を教えていただき、講座などに参加するようになりました。改めて勉強し直してから、もう一度就職先を考えた時、全障研の職員の話がありました。

福田 障害は盲ろうで、今39歳。正真正銘の「三重苦(さんじゅうく)」です。ヘレンケラーは三重苦で有名ですが、私は盲ろうの他に呼吸器もと四重苦くらい障害があります。盲ろう者といっても、見え方も聞こえ方もバラバラです。私は弱視で生まれて、弱視難聴になり、弱視ろうになって、全盲ろうになりました。まったく見えない・まったく聞こえないです。コミュニケーション方法は触手話を使っています。

今日の通訳介助者は石井育子さんと新村貴子さんです。盲ろう者の慣習として、通訳介助者も紹介します。私の目であり私の耳であるからです。2人は非盲ろう者ですが、私は当事者だと思っています。手話通訳者とは全く違う専門職で、聴覚的な情報と視覚的な情報を、その盲ろう者に合わせたコミュニケーション方法で伝えてくれます。私は手から得る情報がほぼ100%です。信頼関係をベースに頑張ってくれています。

日本でも海外でも、盲ろう者の存在はあまり知られていません。アジア地域はもっとも遅れていて、盲ろう者の団体がきちんと存在して通訳介助者の制度があるのは、日本だけです。

私が団体に関わったきっかけは、釣られたみたいなところがあります。日本の盲ろう者のおおよそ80%以上が65歳以上ですので、39歳は希少価値があります。また、武蔵野市で一人暮らしをしています。武蔵野市地域自立支援協議会の委員として、障害当事者部会で、地域で生きる障害者の声を届けるための仕組みづくりに取り組んでいます。

現在の活動、力を入れて取り組んでいること

○柱は「権利条約」「差別解消法」「オリ・パラ」

後藤 現在、団体として取り組んでいることをお話しいただけますか。

田丸 DPIのメインの活動はたくさんありますが、その中でも大きなこととして、3つくらい挙げてみます。1つは、障害者権利条約の実施に関わることです。2016年に政府報告が出たので、今後、NGOレポートを作っていくという動きをJDF(日本障害フォーラム)と共に調整していきたいと思います。

2つ目は、障害者差別解消法が施行されたので、合理的配慮がどう行われていくのか、差別がどう解決されていくのか、紛争解決が機能するのか等、現状がまだ見えてこないので、3年後の見直しに向けて、継続的に分析していきたいと考えています。

3つ目は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けての取り組みです。DPIでは2015年ぐらいから、各競技場や施設、ホテルなどのバリアフリーチェックをしたうえで、接遇なども含めて意見書をまとめてきていますが、この動きは2020年以降にもつなげていきたいと考えており、オリ・パラを機につくられたバリアフリーに関するいろいろな検討委員会に意見を出していきたいと思っています。

また、私自身が国際協力を担当していることもありますが、国連で貧困や飢餓、エネルギー、気候変動、平和的社会などの諸目標を達成するために力を尽くす「持続可能な開発目標」(SDGs)が採択されました。SDGsにはいろいろな目標が入っていて、国内課題も対象になっていくので、障害者基本計画の見直しや障害者基本法を改正していく動きなどにどう絡めていけるのか、障害をどう位置付けていけるのか、私たちが取り組まなければいけないと思っています。

○まずは公共交通機関の安全対策

大胡田 日盲連全体としては、駅のホームから視覚障害者が転落して死亡する事例が続けて起こりましたので、駅などの公共交通機関の安全対策が喫緊の課題だと思います。

以前の日盲連の調査では、視覚障害者の4割程度がホームから転落した経験を持っているというデータがあります。

駅のホームは、視覚障害者にとって本当に危険な場所です。障害者差別解消法や障害者権利条約などの制度は進んできてはいますが、2016年は、まさに足元に命の危険を抱えていることが浮き彫りになりました。団体としても、鉄道会社や行政機関などに働きかけをしていますが、できるだけ早くホームの安全対策をというのが一番の課題です。

日盲連の会員は公称5万人と言われ、毎年の全国青年大会には200人ぐらいが参加しています。青年協議会は若手中心ですので、就労と教育に関心を持っています。就労に関しては、東京の仲間が中心となり、民間企業で、主に事務系の仕事で働いている視覚障害者の生の声を12人集めて、「わたしたちの挑戦」という本を発行して、広める活動をしています。さまざまな当事者の声を集めて、当事者や社会に発信していく役割があると思います。

この10年、20年で視覚障害者を取り巻く教育の状況は変わってきました。昔は盲学校に進学してマッサージの免許を取って働くのがスタンダードでしたが、今は多様化して、地域の学校で学ぶ視覚障害者も増えてきました。ですが、地域の学校で学んでいると、点字の習得や歩行訓練が不十分になりがちだと聞いていますので、地域で学ぶ視覚障害者がどんな状況にあるのか、今年は全国アンケートを実施したいと思います。その結果に対して、当事者団体としてどんな働きかけができるのか、どんな貢献ができるのかを模索していく1年にしたいと思います。

○全国レベルのイベントを開催

青山 私は4年ぐらい前から青年部中央委員をしていますが、全日本ろうあ連盟青年部において1年間で大きな行事は3つあります。

1つ目は、親団体主催の全国ろうあ者大会「青年のつどい」です。2つ目は、全国ろうあ青年部活動者会議で、全国から役員が集まり、運動の発展と拡大や各都道府県との連携を深めています。3つ目は、全国ろうあ青年研究討論会です。2016年11月に、第50回全国ろうあ青年研究討論会を開催しました。50回目と節目の大会でしたので、アジアの各国青年部の方も招待しました。参加者は326人、聞こえる青年も一緒に、入門、手話、暮らし、労働、組織活動、スポーツの5つの分科会と1つの講座で討論をしました。

青年部は1969年に発足しましたので、創立50年に向けて、さらに発展していけるように努力したいです。また青年部として、自分の地域だけではなく、都道府県、全国レベルで交渉できる力を身に付けようと学習やさまざまな取り組みを行なっていますが、こちらも継続していきたいと思います。

親団体の会員数は全国で2万人弱、青年部は2千人ぐらいです。30歳代が多く、20歳代は少ないです。18~20歳代の人たちはスポーツをしている人が多く、青年部やろうあ運動に関心が薄いため、若い人の組織離れが1つの課題です。

○みんなの場づくり、若手は学習会も

黒川 全障研は、昔から「みんなのねがい」の読者会を行い、各地域で保護者や教員、福祉の関係者の集まりを大事にしてきました。でも最近は横のつながりが薄くなって、親御さんが孤立して悩んでいたりするので、もう一度集まる場を作ろうと取り組んでいます。

若手は、年4回ほど学習会を行なっています。私は31歳ですが、同年代の人たちが事務局になって、講師を呼んでお話をしてもらったうえで、ゼミ形式で話し合いをする機会を作っています。自分たちの世代だから話せることもあるので、1人で悩まずに自分たちがやっていきたい支援や教育、障害のある人たちの思いをどう汲み取っていくかも含めて話し合う場所を作ろうと取り組んでいるところです。

○コミュニケーション、情報、移動の確保、そして、声を届けること

福田 活動の目的は、盲ろう者を孤立させないこと。あなたは1人ではないと伝えることに尽きます。障害者手帳、等級表に盲ろうという言葉はないと思います。障害種別に盲ろうがないことで、盲ろう者特有のニーズに対応できていない現状がありますが、盲ろう者は自分から声をあげたり、誰かにつながったりすることが難しいのです。

盲ろう者の抱える3つの困難はコミュニケーション、情報を得ること、それから移動と言われています。視覚障害者のニーズと聴覚障害者のニーズを満たしても、盲ろう者は暮らせません。それが理解されない状況の中で孤立している盲ろう者が非常に多くいます。

私は、全国盲ろう者協会の国際情報委員をしていますが、海外に出向いて情報収集したり盲ろう者と話をしたり、また、海外からの窓口の役割もしています。国際的な活動では、JICAなどと協力して、盲ろう者支援プロジェクトなども行なっています。

アメリカの障害者運動は1960年頃から始まり70年ぐらいに盛り上がって、1980年に入って日本に持ち込まれました。全国盲ろう者協会が設立されたのは1991年。盲ろう者の動きには、かなり遅れがあることを理解していただけると、ありがたいです。

次に、世界盲ろう者連盟の活動です。盲ろう者がいても、盲ろうというアイデンティティーが存在していない国がほとんどですから、啓発活動を行うことや盲ろう当事者の声を世界に届けること。他の国際的な障害者団体とつながって、国連などに自分たちの意見を届ける仕事をしています。

原則4年に一度、ヘレンケラー世界会議と同時に世界盲ろう者連盟総会を開いています。役員が10人いますが、役員会を開く場合も1人に通訳介助や言語通訳が複数人必要ですから、50人規模のホテルの部屋、会議室が必要です。コミュニケーションはリレー方式で伝わっていくので、一般の人たちであれば1日で済む会議が4日ぐらいかかりますが、誰も取り残さないことを基本にしています。

課題の実現のために

後藤 ここからは皆さんの個人としてのお考えを伺いたいと思います。今抱えている悩みや、その悩みにどのように対応しようと考えているのかなどについてお話しいただけますか。

私個人としては、今組織に関わっていない若い人たちをどうリクルートするか、これまで運動を引っ張ってこられた方々から、どのようにバトンを受け取っていくのかが課題だと思っています。さらに、障害者団体の外側にいますと、情報が入ってこないことや調べても情報に辿り着けないことが多く、もどかしさを感じます。情報発信も障害者団体に期待することの1つです。

○「外」にどう情報発信するか

田丸 最近、自分の中で難しいと思っていることは、障害者差別解消法も障害者権利条約もそうですし、相模原の事件もそうですし、この間、病院などでの精神障害の身体拘束のセミナーに参加したのですが、これらの課題、現在日本の障害者の直面している問題や取り巻く状況が、障害者団体以外の人たちにきちんと知られていないところだと思います。

今までは障害種別や障害者団体の要望がメインで、国の政策決定の場に私たちがどれだけ参加していくのかが課題だったと思います。もちろんそれもまだ不十分ですが、一般の人たち、障害者団体の外の人たちに障害者団体の考えていることや、障害者の置かれている状況をどう伝えていくかが課題だと思っています。

障害者差別解消法に関しては、自治体や企業の動きは少しずつ出てきています。セミナーや講師依頼が来るので地道にこなしていくことが必要ですが、もう少し広げていける仕組みというか作戦のようなものを、障害者団体全体として取り組んだ方がいいのかと思っています。

○楽しく情報発信できないか

大胡田 私も田丸さんがおっしゃったように、障害というものに関心がない、障害というものを知らない人に、障害者差別解消法や障害者権利条約の考えを伝えていくのは重要な課題だと思います。

もう1つは、視覚障害をもった仲間に、我々の団体の存在をどう伝えて、仲間になってもらうかが課題だと思っています。人間は知ろうと思っていることしか興味を持てないところがありますので、団体の活動に関心のない人に、団体活動の面白さや必要性を伝えていくのが難しいと思っています。

何とかしたいと、東京都の視覚障害者団体を中心に、画面読み上げ機能を使ったiPhoneの使い方の講習や陶芸教室、サルサダンス、料理教室などさまざまなイベントを企画して、どこかに引っかからないかと試行錯誤しています。

人が一番集まるのは、就労問題と交通問題だと思います。みんなが身近な問題だと感じているからだと思うのですが、障害種別を越えて障害者団体の共催で就労問題や交通問題をやってみると、面白いのではないかと思っています。

○社会の障壁をどう解決するか

青山 ろう者としての悩みは、コミュニケーションの問題が一番大きいです。目は見えるけれども聞こえない。必要な情報を収集して選択することが難しい面がありますが、それを社会に伝えていく、分かってもらうのも難しい。突き当たった壁をどう乗り越えるのか、解決するのかは、視覚障害者団体の方と同じかと思います。

手話言語条例が全国各地で制定しているところが増えてきました。手話言語条例が最初にできた鳥取県は、知事主導で成立しました。でも、全国的にみると、条例がまだ採択されていないところの方が多いので、社会的障壁は依然として残ったままです。国としての法律として手話言語法が制定されれば、効果が上がると思うので、私たちも取り組んでいきたいと思います。

昔は電話やファックスがなかったので、直接会って話をするとか手紙を出しました。今はICTが普及してメール、チャットができるようになり、便利になっていますが、逆にろう者同士が集まる場が少なくなっています。また、手話を身に付けなくてもいいのではという考え方が出てきています。時代の流れによって、プラスの面もマイナスの面もあるので、難しいと思います。

ろう学校の数も減ってきています。聴覚障害には高齢になって聞こえなくなった人たちなども含まれます。その人たちは手話をすぐに身に付けることが大変なので、そういう方たちへの配慮や支援をどうしていくのかなど、幅広い悩みや課題があります。私たちの願いは、手話言語法を1日でも早く制定させることです。

○意図的に話す機会をつくろう

黒川 つながることが難しくなっていると感じています。作業所や入所施設に勤めていたことがありますが、職員同士がなかなかコミュニケーションが取れないことがあったりとか、職員がなかなか続かない。待遇が悪いとか、理由はいろいろあると思いますが、悩みを話せなかったことも大きいのではないかと思っています。

どこの施設も慢性的な人手不足で、現場に余裕がなくなっています。昔はもっとみんなで集まってその日1日の様子を話していた、記録もとっていたと言われます。ペーパーの業務をこなすことが強く出てしまって、話し合いは早めに終わらせようという雰囲気になりがちです。頑張って何とかしようと思っていても、どうしてもそちらに流れてしまう。「Aさんの支援で悩んでいるのだけれど……」と、先輩も含めて相談しにくい。意図的に話す場所、話す時間を確保することをやらないと難しくなっているのかと感じています。

後藤 その点では若手だけでできることは限られているので、組織の上層部の人たちに考えてもらうよう働きかけていくことも必要かと感じました。

○支援につながっている人は10分の1以下

福田 盲ろう者になってショックを受けたことは、自分が盲ろうになったことに加えて、自分のような状態の盲ろう者が大勢いることでした。国際関係の活動を始めて、世界にはもっと盲ろう者がいる現状を知り、危機感を感じています。

その1つは、情報が届かない、情報が得られないことです。ろう者のコミュニティの中で視覚障害が加わる人に、盲ろう者の組織の存在が知られていない。視覚障害者の組織の中で、聞こえなくなった時の不安をどこに相談していいか分からない。年のせいだと言われて終わってしまう。10年も20年も家族とのコミュニケーションがないままに、ただ時間を過ごしている人がどれだけいるかと思うと、やまゆり園の事件で19人が亡くなったのと同じくらいの危機感を感じます。

情報が入ってこないということは、朝ごはんを食べるか食べないか伝えることも、いま朝なのか夜なのかも知ることもできない。自己決定ができないまま、ご飯が出てきたから昼かなと想像するわけで、犬と一緒みたいな感じですね。意思表現できずに生きている盲ろう者がたくさんいるのです。全国で推計2万人、支援につながっている人たちは10分の1にも満たない。東京はざっと2千人で、支援につながっているのが100人ちょっとです。

生きるとは何か、それが人間として生きている状態かというと、障害者権利条約の第10条の「生命に対する権利」が守られているとは到底言えないと思います。物理的には死んでいない、けれども見えない刃物で殺されている状態にあるという危機感を感じてもらえないもどかしさを共有できない思いがあります。

一方で、盲ろう者の世界には、心の器の大きさや面白さもあります。その2つを大事にしたいと思います。

長期ビジョンを、10年、20年後の社会

後藤 ここからは中長期的な話をしたいと思います。未来を見据えた「展望」や「野望」をお話しいただければと思います。

○盲ろう者自立生活センターを作りたい

福田 夢はでっかく、腹はちっちゃくです。視力はないけれど、ビジョンはある。聞こえないけれど、声はある。やってみないと分からないことはたくさんあるので、やってみるしかない。私はたまたま盲ろうの立場で発言していますが、呼吸器を使い、電動車いすを使っています。その立場からもそのままの自分で生活できる多様性を楽しんでいます。

盲ろうになってから再生するまでは葛藤や悩みが大きく、それはずっと続くかもしれませんが、盲ろうというアイデンティティーに付加価値を見出せることができるのも、ピア同士のつながりがあるからです。アメリカで自立生活が始まった1970年代あたりから、障害があっても当たり前に生きていいのだと分かってきました。だから当事者団体に参加する意義はありますね。自分のアイデンティティーを活動に見出す人もいますが、自分らしく地域で生きていることが障害者運動に知らないうちにつながるのもいいと思います。

当たり前にありのままに生きることの難しさをどう乗り越えるか、どう工夫していけるかを一緒に考えられればと思います。盲ろう者ほど多様性に富んだグループはありません。難病の項目が増えたので、盲ろう者の半分以上は難病に入ると思います。年齢も生まれる前から高齢者までいます。

私はアメリカの大学院で勉強していた時、日本の自立生活センター1号のヒューマンケア協会の参考となったパラコッドという自立生活センターで3年間働いていました。自立生活の理念や考え方は、盲ろう者にも当然通じると思います。盲ろう者は施設ではなく地域で生きる、患者扱いされない、援助を管理することができる、盲ろう者の障害は機能障害ではなくて、本当の障害は社会からの排除にある。そこを乗り越えるためには、障害種別を問わない自立生活センターをと思ったのですが、盲ろう者は一人ひとりコミュニケーション方法も違い、それぞれに通訳介助が必要で、会話のペースも違います。盲ろう者には独自の文化があります。

そこで、各県に1つは盲ろう者主体の自立生活センターがほしいと思っています。現在、青森県を除いた各県には、盲ろう者が集まる団体が最低1つはできています。盲ろう者が直接触れあって、感じる、安心できる居場所を作りたいというのが、10年、20年後の抱負です。

個人としては、盲ろう者の命は結構短いのです。病気が重い人もいるし、年齢が高い人も多いのですが、10年、20年後のビジョンはきちんと考えていきたいと思います。

○糸賀一雄らの歴史から学ぶ

黒川 10年後の社会を考える時、糸賀一雄らの歴史から学びたいと思います。糸賀らは、戦災孤児、障害児のための近江学園をつくりました。障害者を「社会の役に立たない」「お荷物だ」とする考えが当時も現在もあるなかで、近江学園の職員は、子どもたちが見せる人間らしい姿や思いに触れて、この子たちが発している要求を実現することが、すべての人にとっても豊かな生活をつくっていくと考えました。その願いを基礎に、近江学園から必要とされる新たな施設づくりに取り組み、それが障害者が安心して生活できる地域づくりにつながりました。

現在は、障害者やマイノリティを社会的に排除する動きが広がる一方、歴史を見ると障害者権利条約など進んできたものもあります。全国では、障害者の願いを実現したいとさまざまな実践が積まれているので、その一つ一つを大切にして実現していくことで、障害者が安心して暮らせる地域をつくっていければいいと思っています。

○地域で普通に生活できるように

田丸 DPIが皆さんの所属されている団体と違うのは、団体加盟であることと、障害種別を越えて当事者団体が所属していることだと思います。また海外の窓口もありますので、その辺をもっと生かせるような活動をしたいと常々思っています。10年後、20年後を考えると暗いことが多くなるので、大きいビジョンをあげると、障害者権利条約や障害者差別解消法も含めての理念を考えた時に、障害者が地域で普通に生活できる環境をどう整えていけるかだと思います。

まずは、障害者が社会に普通にいるのが当たり前になることが大事だと思います。「心のバリアフリー」という言葉がよく使われていることの背景には、障害者が社会参加できていないことがあると思います。そもそも障害者のことを知らないし、障害者と接点もないし、障害者の友達もいない。教育や雇用の場、地域に障害者が普通にいたり、遊んだり、語ったりできる社会を作っていかなければ、障害者でない人たちが本当の意味での理解とか、障害者のことを分かるのは不可能なのではないかと思います。

施設にずっと入所している方たちも、長期入院している方たちもいますし、支援につながっていない盲ろうの方たちがいる。現状を変えていくには何をしたらいいか。具体的な考えはまだ私にもないのですが、うちの事務局長もよく言うのですが、楽しくないとダメだと思います。オリ・パラの競技場のアクセスチェックを楽しんでやりながら、海外との比較をするのもいいかもしれないし、LCCでいろいろなところに行ってみるのもいいかもしれない。楽しいことがないと活動に入ってこられないと思います。楽しい企画をしていけるようにと思っています。

最終的には、教育・雇用・地域生活につながる、障害者の社会参加の運動を形成していきたいです。海外で報告する時に「日本は、私たちはこういうことをしていますよ」と胸を張ってアピールできるように頑張っていきたいと思います。

○技術の進歩で情報保障の充実を

後藤 今後、情報通信技術が発展していくことにより、情報へのアクセシビリティが飛躍的に高まることが予想されます。一方で、今まで人が担ってきた部分を技術で代替させるようになることから、人と関わる機会が少なくなっていくのではないかという不安もあります。技術の進化とも関連させながら、お話しいただけますか。

青山 技術は随分進んできたと思います。私が小学生の頃と比べたら情報保障の手段は変わりました。パソコン通訳や文字情報、要約筆記もあります。大学の情報保障の面でも、遠隔情報保障システムがあります。しかし、手話通訳者は依然として全国的に不足状態のままです。個人的には、技術の進化とともに、もっと手話通訳者を使おうということと二本立てで進めていかなければと思っています。

10年後20年後は、技術がもっと進歩していると思います。たとえば3Dホログラム、立体的な映像が飛び出てくるような時代が来るかもしれません。手話通訳者並みのロボットも出てくるかもしれない。でも、機械ではできない、人間だからできるというものもあると思います。人間の方が表情などを豊かに表現できると思っています。

人工内耳をしている人が増えてきていますが、全員、聞こえる者と100%同じになることはないと個人的には思います。聞こえは人さまざまですが、いつでもどこでもだれとでも会話できる環境は少しずつ進んでいくのではないかと思っています。

○障害は魅力という社会に

後藤 昨年は、命の問題がクローズアップされました。生命に対する権利をどのように保障していけばいいのか、障害のある人が生きるということを多くの方に考えてもらうにはどうしたらいいかを含めながら、展望を話していただきたいと思います。

大胡田 難しいテーマをいただきましたね。人権教育が大切だといいますが、私はマイナスをゼロにするだけではだめで、ゼロをプラスにしていかなければと思っています。

リオパラリンピックの閉会式で、日本は「2つのポジティブスイッチ」をテーマにプレゼンテーションを行いました。1964年の東京パラリンピックで、みんなが障害者の可能性を知った。2020年は、障害は魅力的だと知るポジティブスイッチにしていくのだと。私はこれしかないと思っています。障害者は「同じ」ではだめで、障害は魅力なのだというところまでいかないと、障害者が社会で尊重されて、かけがえのない生命として大切にしてもらえないのではないかと思います。

10年20年後ですので、風呂敷は大きいのですが、ギリシャのミロのヴィーナスは両手が欠損しているから、多くの人を感動させる。障害はそういう可能性を秘めているのではないかと信じて、それをみんなで見つけて、障害者は格好いい、障害者はもてる(笑)という社会になったらいいなあと、野望も含めて、そんなふうに思っています。

今日の座談会では、福田さん、青山さん、田丸さんの話に多くの気づきと感動をいただいたのですが、皆さんが障害者でなかったらこんなに魅力的だと思わなかったのではないか。実に、障害が皆さんを輝かせていると感じます。

社会の変革は一朝一夕にはいかないけれど、社会を変えたいと思うなら、まずは障害者自身が自分自身に対する意識を変えること、自分は、かけがえのない魅力的な存在なのだと再認識することが第一歩かもしれません。先ほどのリオパラリンピック閉会式での言葉を借りるなら、まずは、自分で自分の中の「ポジティブスイッチ」を押すことが始まりなのかなと思っています。

2017年、今年の抱負、目標

後藤 最後に2017年、今年の抱負、目標をお話しいただけますか。

福田 今年の抱負は、まず生き延びること。アジア盲ろう者会議と、できればアジア盲ろう者作文コンクール、この2つの準備をやりたいと思います。盲ろう者1人に言語通訳者と通訳介助者が必要です。、日本の盲ろう者の全国大会には千人規模で集まります。まずは、5か国でいいのでアジアから盲ろう者を呼んで、アジア盲ろう者会議を開きたい。盲ろうという多様性のなかで、生きていてよかったという経験を共有して、それを作文コンクールにしたいというのが目標です。我々は、つながってこそなのです。資金を出してくれそうな方がいたら、アジア盲ろう者会議を開きたいのでご協力を!と宣伝してください。

黒川 「みんなのねがい」を作っていますが、研究者だけではなく、お母さん、障害がある本人、現場の人たちが、自分たちの思いが出せることを大事にしてきたので、それを土台にもう一度、しっかりとつながっていきたいと思っています。

個人的には、上の世代も徐々に引退してきていますので、同世代と一緒に企画したり、悩みを含めて話せる場所を作りたいと思います。

また、障害者権利条約の批准や障害者差別解消法ができたのは、それぞれの団体のいろいろなやり方、考え方を尊重して一緒に取り組んだからだと思います。今後も、もっと一緒に取り組めるところを話して発信していくことが大事だと思います。

青山 ろう者はかつて、自動車の免許を取ることができませんでした。昔は手話通訳の制度もなく、社会的障壁がありました。今はどちらかというと制度が整って、手話の理解も広まってきました。良いことですが、逆に若い人たちはそれが当たり前と考えています。

スポーツに一生懸命取り組むのは良いことですが、スポーツの全国大会を開く時、手話通訳はどうするのか。スポーツだけに集中するのではなく、もう少し生活に密着したことに関心を持ってほしいと思います。

日本だけでなく、アジア、世界にもろう青年部があり、共に活動しています。先日、アジア青年部役員に当選し、部長を務めることになりました。中央委員として役員活動を頑張るだけでなく、アジア青年部役員としても精一杯頑張っていきたいと思っています。

大胡田 これまで、地域の学校で教育を受けている視覚障害者の実態を全国規模で調査したことはなかったと思いますので、この調査を頑張りたいと思っています。当事者団体の全国ネットの強みを生かして、これからの日本を担う視覚障害者がきちんと教育を受ける環境を整えていくことのスタートラインとして調査をしたいと思います。

今年はまた、情報伝達やPRを見直さなければと思っています。フェイスブックやツイッターなどを使って、いろいろな取り組みに挑戦する1年にしようと思います。

個人的には、弁護士として依頼者のためにいい仕事をして、きちんと稼げる1年にしたいと思っています。弁護士8年目ももうすぐ終わるので「大胡田は、桃栗じゃなくて柿だったね」と言われるような1年にしたいですね(笑)。

田丸 SDGsができて、日本でも実施の方向で動いてきていますので、障害ときちんと結びつけていけるようにしたいです。誰も取り残されないことがSDGsのテーマになっていますが、「SDGsって何?」という障害者団体が多いので、実効性のあるものにするためにきちんと伝えていくこと、政府の指針の枠組みの中に、障害の問題を組み入れていける活動をしていくためにセミナーも含めて仕掛けを考えたいと思います。そもそも今は、まだSDGsを知っている人がいない状況なので、一緒に動いてくれる人を増やしたいと思っています。

後藤 最後はワクワクするような、新春号にふさわしいお話をしていただいたと思います。今日はお集まりいただきまして、ありがとうございました。2017年、良い1年としていきましょう。