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厚生労働科学研究費補助金(障害者対策総合研究事業)分担研究報告書

東日本大震災における発達障害(児)者のニーズと有効な支援のあり方に関する研究
―岩手・宮城の子どもたちと家族―

研究分担者 前川あさ美 東京女子大学

研究要旨

 本稿では、これらの視察、支援活動を通して、震災後の時間的経過(2011年5月?2013年3月)の中で気づいたことや浮かび上がってきた被災地の課題と震災後の心のケアについて、特に発達障害をかかえる子どもとその保護者に焦点をあてて報告する。時間経過を4期にわけ、それぞれ7、8、6、1項目を抽出した。すなわち、第一期(2011年5月初め)の課題は、①震災直後の発達障害の子どもたち、②避難場所での安心のできなさ、③必要な物資提供のむずかしさ、④非日常の長期化の影響、⑤発達障害の知識・理解不足と専門家不足、⑥保護者が抱える多様な負担、⑦被災地外からの支援に対する期待と不安であった。第二期(2011年8?10月;発災後6か月)の課題は、①新たな防災への意識、②長期化する震災後の心の反応、③遅延して出てくる心の反応、④保護者が活用できる震災後の心のケア、⑤震災と直接関係ないようにみえる問題の顕在化、⑥発達障害の子どもの居場所の新たな問題、⑦保護者のレスパイトの工夫とネットワーク作り、⑧地元支援者たちの疲弊であった。第三期(2012年1月末及び3月)の課題は、①心の反応の多様性、②仮設住宅での新たな不安、③個人・家庭・学校・コミュニティにおける防災、④アニバーサリー反応、⑤無力感・孤立感の回復とエンパワメント、⑥被災者たちのPost Traumatic Growthであった。第四期の課題は、障害のある子どもを養育する社会の醸成への希求であり、経験の共有は今後の課題であると考えられる。

A.はじめに

 2011年3月11日のあの数分の揺れ、そして周囲の人々の表情、悲鳴、自分の中の味わったことのない緊迫感。1年以上経った今でも、あの日に体験した感覚がありありと蘇る。瞬間冷凍。トラウマに関連する記憶についてそのようにいわれる(西澤1997)。瞬間冷凍された出来事は、どんなに時間が経とうと、「たった今の出来事」のように鮮やかに体験される。このことは、トラウマが他のストレスと大きく異なるところである。
 著者は日本発達障害ネットワーク(以下JDD)専門家チームの一員として2011年5月、10月、2012年1月と岩手県と宮城県に行き、視察、研修や講演、シンポジウム、茶話会などを兼ねた支援活動に参加する機会を得た。また、臨床発達心理士の災害支援チームの一員として心理士の仲間や東京女子大学の学生とともに2011年8月、10月、2012年3月、宮城県気仙沼市を訪れた。本稿では、これらの視察、支援活動を通して、震災後の時間的経過の中で気づいたことや浮かび上がってきた被災地の課題と震災後の心のケアについて、特に発達障害をかかえる子どもとその保護者に焦点をあてて報告する。

B.結果と考察

1.震災後2か月のころの発達障害の子どもと保護者 ―2011年5月初め―

 まだ多数の被災者が避難所での不便な生活を強いられ心身ともに疲れはてていた。岩手県の沿岸部では新学期開始が遅れていた学校がそろそろ始まるというこの時期に気づいたこと、ならびに浮かび上がってきた課題を、①震災直後の発達障害の子どもたち、②避難場所での安心のできなさ、③必要な物資提供のむずかしさ、④非日常の長期化の影響、⑤発達障害の知識・理解不足と専門家不足、⑥保護者が抱える多様な負担、⑦被災地外からの支援に対する期待と不安の7点から述べる。

①震災直後の発達障害の子どもたち

 震災直後は、多くの子どもたちが落ち着いていたという。じっとしていなかった子どもが保護者のそばに大人しくいたり、こだわりの強い子が思うようにいかなくてもぐずらないでいてくれたりということは、混乱していた時期の保護者にとっては大きな助けとなった。子どもたちが持っているサバイバルのための力なのかもしれない。ただ、ライフラインが復旧するとともに、子どもたちの姿が元に戻ってきたと保護者たちは苦笑しながら語った。ところが一方で、震災後から緊張が続き、震災前には見られなかった反応、例えば、おねしょが始まったり、地震や津波を自分のせいだと感じてしまったのか、「ごめんなさい、もうしません。」と言い出したり、いらいらして自傷行為をし始めたり、以前にはなかった感覚過敏が目立つようになったりした子どももいたという。
 避難して数日後、自分の家に帰りたいと言い出してきかない子どもを仕方なく連れて行こうとしたら、がれきに埋まった街並みを見てパニックに陥ってしまったという子どももいれば、保護者から津波の話を聴き、また映像をテレビで見てから自宅跡に近づくのを嫌がるようになった子どももいた。また、子どもが受けるだろう衝撃を少しでも減らそうと、こんな工夫をした保護者もいた。「帰りたいってきかないので、写真を撮ってきて何もなくなった家の跡地を見せてから連れていきました。どんな反応するか心配したけど、写真を見ていたせいか特に驚いた様子もなかったです。」 この子は、少ししてから、「おうち建てます」と独り言を繰り返すようになったが、この声は、弱気になっていた保護者を元気づけてくれたということだった。震災直後は多くの子どもが大人の力になったと聞いたが、発達障害の子どもも例外ではなかった。
 いつも見ていたテレビ番組が見られなくなったこと、登校日が急になくなったことや停電期間が急に延期したことなど、震災直後にはやむを得なかった「急な変更」が多数あったが、保護者はわかる範囲で事前に説明をしたり、「電気は19日ではなく21日につきます。」などと変更の内容を紙に書いて、子どもが見える所に貼ったりという対応をした。こうしたことが子どもたちに安心と安定を提供していたようだ。当たり前のことだが、震災前からの保護者と子どもの関係が震災時においても彼らを強く支えている様子がうかがわれた。

②避難場所での安心のできなさ

 天井が高い公民館や体育館での音の反響や人の数の多さが作り出すノイズは、聴覚過敏の発達障害の子どもたちにとって不快極まりないものだった。いつも運動をする体育館でたくさんの人が横になっているのが理解できず、走り回ろうとする子どもに「今は走りません」と言い聞かせている保護者もいた。震災直後は、発達障害の子どもたちが比較的落ち着いていたという話が被災地のあちこちで聞かれたが、それでも尋常ではない状況の中で保護者は「他の被災者に迷惑をかけないように」と気が休まる暇がなかった。
 JDD専門家チームは、手分けをして地元の支援員が消息をつかめた発達障害の子どもの家族を訪問したが、支援員の話だとその時点で避難所にいる発達障害の子どもと家族はほんのわずかで全体の消息をつかみきれていないという。避難所に行って、「ここにはいられない」と決断した家族もいれば、行く前に、「うちの子は無理だろう」と判断して向かわなかった家族も多かったようだ。彼らは車中泊をしたり、半壊状態の家に戻って二階で生活していたり、内陸部の知人や実家を頼って転々としていたりしていた。実家を頼った家族の中には、身を寄せる期間が長期化するなかで、発達障害の子どもの偏った発達状態を巡って祖父母との関係がぎくしゃくしてしまい、結局、別居を決意したという家族もいた。
 安心していられる避難場所がなかったことはいくつかの二次的問題を引き起こした。ひとつは、安否の確認がむずかしくなったこと、また、必要な物資、ならびに情報の提供が困難になったこと、さらに、発達障害の子どもの家族を孤立させ、保護者ならびに子どもたちの心身のストレスを増加させたことである。支援物資が行き届かなかった震災直後は、命の危険さえも感じていたと語る保護者が複数いらした。
 この時期までは、行政が混乱していたこともあり、内陸に居を構える自閉症協会や民間の親の会のメンバーたちが文字通り足を運んで安否の確認や具体的な物資の必要性を確認し提供して回ったという。

③必要な物資提供のむずかしさ

 白いご飯だけでは食べられないというように発達障害の子どもたちの中には、味や舌触り、匂いへの過敏性から非常事態における食をめぐって困難を体験するものが多かった。また、心の癒しとなる物資に関しても、手触りや色へのこだわりから、せっかく配給された服やタオル、ぬいぐるみや玩具などを拒絶する子どももいた。発達障害の特性を熟知する民間の団体や親の会がこうした状況をいち早く理解して動いた地域があったが、すべての被災地に行き届くものではない。もともと変化に不安を感じやすい発達障害の子どもたちが生き延びるために、食や心をほっとさせる物は重要であるが、一斉に配給される食べ物や物資は、こうした子どもの心身の安全と安心にはつながりにくかったのである。個別のニーズをどのように迅速にキャッチし、どのように的確に届けるか、今後の課題である。
 命の危険性がひとまず落ち着いた頃、発達障害の子どもたちの中には、「何もすることがない時間」に落ち着きをなくし、自傷行為を始めるものさえでてきたという報告がある。保護者が忙しくて相手できなかったり、これまで愛用だったゲームやお気に入りの道具などが流されてしまったりした彼らは、他の子どものようにボランティアの人たちと遊んだり、支援活動に協力したり、必要とされていることを察して動いたりして時間を過ごすことは苦手であった。そのため、前述した親の会やJDD、自閉症協会などが夢中になるものや心落ち着けられるものについての情報を個別に集め、例えば、キラキラファンが光る扇風機、図鑑、お気に入りの写真付きカードといったものや、iPADなどのタブレットを配布し、それらは子どもたちの気分転換に活用されていた。

④非日常の長期化の影響

 震災直後からの非日常性が、思いのほか長期化した。これは東日本大震災の被災規模も深刻さも想像以上に大きかったためである。日常生活のリズムは、どんな人間にも大切だが、特に発達障害の子どもの心身の安定回復においては重要であった。多数の人の避難所となることで学校の再開は大幅に遅れていたが、そのことが様々な影響を子どもや保護者にもたらしていた。がれきや捜索活動のため、自由に外で遊んだり運動したりすることができなかった子どもたちは運動不足となり、多くの保護者が「被災太り」という言葉を用いて心配していた。生活の中での構造化が崩れ、就寝や起床のリズムが崩れている子どもも多かった。学校再開後、彼らは、制限されていた活動空間がわずかに広がり、先生や級友という顔なじみとの関わりと学校における構造化された時間の中で、情緒が安定し、夜の睡眠も改善されている様子が見受けられた。保護者のほうも、学校に行っている間の時間を多少は思うように使えるという気持ちから、ほっとしている様子がみられた。改めて、学校という存在が、学びや人間関係の場として意味があるだけでなく、大人と子どもの日常性のリズムを作る上で重要な意味をもっていることに気づかされた。

⑤発達障害の知識・理解不足と専門家不足

 どの地域であれ、外から見えにくいハンディというのを理解してもらうことはむずかしい。また、「スペクトラム」といわれるように程度の違いで、誰にでも見られるような行動の特徴をもっていたり、発達障害と診断がついていても一人ひとりの状態像がかなり多様であったりということも、こうした子どもたちの生きにくさを分かりにくくしている。また、地元支援員から、被災地沿岸部には発達障害の専門家が少なく、診断ができる専門医は片道2時間半の内陸部にある病院にまでいかないと出会えないという話をうかがっていた。こうしたことは、発達障害の子どもを抱える家族をより孤立させていたかもしれない。「息子は手を握られるのがだめなので、一緒に逃げようって急に握られて、びっくりしたんでしょう。噛みついてしまったんです。」「みんながいらいらしていたし、仕方ないですが、挨拶ぐらいしろって怒られて。うちの子は言われてることは理解できるから、ちょっと見ただけでは障害ってわからないんです。」ささいな行き違いによって、被災時に助けが必要な発達障害の子どもも彼らに手を貸そうとする人たちも、また、その様子をみていた保護者も心傷ついてしまうことが少なからずあった。
 また、コミュニティにおける発達障害への理解不足は、保護者にSOSの声を出しにくくさせていた。地元支援員が言うには、避難所を「障害児支援」や「発達障害相談」という言葉で回ってもニーズが出ず、「子育て支援」と言葉を選び直したところ、保護者が声を出し始めたということがあった。こうしたことは、東京でもありうることだが、震災直後のような時期には必要なSOSが出しやすい環境を整備することは極めて重要なことである。

⑥保護者が抱える多様な負担

 東日本大震災は、多くの人にとってトラウマティックな体験となった。心は弱いから傷つくのでもなければ、子どもだから傷つくのでもない。津波による想像を絶する大規模な被害は、むしろ大人の心を深く傷つけていた。それは、大人のほうが子どもよりも長く生きている分、大人は津波によって多くのものを喪失していたからかもしれない。「アルバムや普段なら手にとらないような旅のお土産といった思い出のものがすべて流された。でも、学生時代の友だちが写真をたくさん送ってくれて、その時はじめて、思い出って私を支えてくれていたんだなって気が付いた。」と、ある保護者は語っていた。また、大人は、他者との物理的精神的ネットワークの中で生活している分、亡くなった人がたくさんいるのに、自分が生き残っていることに「サバイバーズ・ギルト」を抱きやすくなっていた。今回の震災の想像を絶する被害の大きさは、見通す力をもつ大人に子ども以上に絶望感を与えただろう。また、情報の量や情報の提供のされ方は、理解する力をもつ大人を振り回し不信感で混乱をさせた。疑うということは人を思いのほか疲弊させることを今回多くの大人が体験したのではないだろうか。さらに、子どもを守る責任を感じている保護者たちは、弱音を吐けずに、心の痛みを抑圧せねばならないことも多かった。
 発達障害の子どもを抱える保護者の中には、日ごろから「迷惑をかけたくない」という思いが強いものが少なくない。そのため、一人で子どもを抱え込もうとして、心理的にも身体的にもストレスをためてしまうことがある。震災時も、彼らは子どもを人に預けることを強く躊躇っていた。茶話会で、ある保護者は、「こういう子どもと関わったことがあるとか、知識をもっているという人だったら頼みやすいかもしれません。」と話していた。こうした子どもと関わった経験やある程度の知識を持っていることを、周囲を気にさせずに保護者にはわかるように提示すること(例えば、決まった色のバンダナを体のどこかにつけるとか)といった工夫が保護者の心身の負担を少しでも軽減できるのではと感じた。
 保護者の経済的負担も重くなっていた。というのも、発達障害の子どもたちの個別のこだわりや症状のために、一斉に配給されるものでは子どもの安全や安心を確保することができないので、自分でそろえていかねばならなかったからだ。
 こうした大人たちのいつもと違う表情や疲れなどは、「察する」ことが苦手、表情を読むことが苦手といわれていた発達障害の子どもたちにも伝わっている様子がみられ、親子関係の緊張が時間とともに高まってきている様子がみられた。

⑦被災地外からの支援に対する期待と不安

 地元支援員たちは、被災地外から集まってくる支援者たちに感謝の気持ちを抱きつつも、彼らに対して不安や不満を抱いている様子がうかがわれた。「支援活動をイベント化する(記者やカメラマンを引き連れてくる」「地元のペースを無視して一方的に活動する」「何でもやってあげるという態度で来る」「傷ついた心を放っておくと大変なことになると予言者のように言いふれまわる」「2,3日いて何も引き継がずに自己満足して帰る」・・・。支援活動の中には、がれき処理など「信頼関係」がなくてもできる活動がある。しかし、心の支援は「信頼関係」という土台が不可欠である。「○○法」「○○テクニック」などいろいろな専門性をもった心の専門家が集まってきたが、優れた専門性も丁寧に育てていく信頼関係なしには、支援を受ける人やその周辺の人たちの心を傷つけてしまうことがありうる。「できるだけ一人の人に長くいてほしい」という被災地の思いは当然のことで、特に学校場面では強い願いであったのだが、被災地外の支援者にとっては、その実現に協力したくてもできないジレンマを経験していた。また、地元支援員は子どもへの支援において、発達や発達障害への視点を持たない心理士の存在にも当惑を感じていた。この時期は、まだ被災地外の支援者とどのように連携できるか具体的な状況が見えてなかったこともあり、多くの地元支援員が不安を抱えざるをえなかったのだ。また、ある保護者は、「いろいろしてあげたい」という被災地外の支援者の姿勢に違和感を感じると語った。「やってもらうとどんどん自分たちが弱くなる気がする」という。そもそもトラウマティックな体験は人間を途方もなく無力化する。それ故、心のケアにおいては相手の中に残る力を信頼し、その力と組み、その力をさらに高めていくエンパワメントという姿勢を忘れてはならない。

2.震災後6か月頃の発達障害の子どもと家族 ―2011年8~10月―

 仮設住宅に入居し始め、地域の祭りが再開し、復興への歩みがゆっくりと進んでいたが全国から集まってきた自衛隊や警察などが少しずつ退去していくことで、孤独感を強めている被災者もみかけた。コミュニティのつながりは、仮設に入ったり、転居したりすることで緩く崩されていたし、コミュニティの均衡は、復興の地域差が明白になることで乱されている様子もみられた。この時期に気づいたことや浮かび上がってきた課題を、①新たな防災への意識、②長期化する震災後の心の反応、③遅延して出てくる心の反応、④保護者が活用できる震災後の心のケア、⑤震災と直接関係ないようにみえる問題の顕在化、⑥発達障害の子どもの居場所の新たな問題、、⑦保護者のレスパイトの工夫とネットワーク作り、⑧地元支援者たちの疲弊、の8つの視点から振り返ってみたい。

①新たな防災への意識

 この時期に被災地で催された保護者との茶話会や懇談会では、今回の震災での体験を、これからの防災にどう生かしていくかということが盛んに話題となった。ある保護者は「うちの子は普通だからと特別な支援を拒否したがる保護者は多いですよね。普段はそれでもいいけれど、震災時は自分の子どもが特別な支援の必要な子どもであると率直に認めていないと保護者が先にダウンしてしまうと思いました。」と話した。また、別の保護者は、「一週間に一回は、テントと寝袋を使って夜を過ごす練習を始めました。沿岸部の家族の体験を聞いて、うちの子も(避難所は)無理だと思ったから」と語った。親の会など、何らかのネットワークに所属していないと安否確認がとりにくかったことをはじめ、感覚過敏に比べて鈍感な子どものほうが心身のSOSに気づいてもらいにくかったこと、発達障害の子どもと多少でも関わったことがある人がいてくれるととても気持ちが楽だったこと、福祉避難所であっても多数の人がいる所では結局安心していられなかったことなど、生々しい経験から具体的な課題が出された。保護者達は、普段は親子で頑張れることも、そういうわけにはいかなくなるのが震災時だと口を揃えて言う。それは、グレーゾーンといわれる「ちょっと気になる子ども」とその家族においても同じである。何らかの配慮を要する子どもたちとその保護者を守るためにも、要配慮カードや子どもの特性や気質、苦手なことなどを明記したサポートブックのような存在が必要かもしれないと感じた。

②長期化する震災後の心の反応

 がれきが片付くとすっかり街並みが変わってしまい、園や学校は統廃合によって担任や級友の顔ぶれが変化し、転入や転出が頻繁に起こるという日々は、発達障害の子どもにとっては半年が過ぎたとはいえ、落ち着かない環境に変わりなかった。震災前の状態に戻ったという子どももいたが、一方で、震災後しばらくしてから生じた感覚過敏がずっと続いていたり、夏の台風の風や豪雨を津波と重ねてひどく怖がったりする子どもたちがいた。
 ある講演の最後に、「こっご遊び」をしている子どもがいるけれど、まだ放置していていいのか?という質問があった。質問を下さったのは教員だったが、その場にいた支援者や保護者からも「そのままでいいの?」と声が一斉に出てきた。「ごっこ遊び(Post traumatic play)」は、トラウマティックな出来事の体験後に子どもが見せる行動のひとつである。これは、子どもが能動的にトラウマティックな体験を塗り替え、無力感を軽減する作業の一つだと考えられている。実際、子どものこうした遊びをみていると、最初のうちはトラウマティック体験とほぼ同じ場面、あるいは一部が強調されたような場面を強迫的に再現しているようにみえるのだが、そのうち、ストーリーが塗り替えられる様子がみられる。私たち大人も心傷つく体験をした後、夜寝る前などにその体験を再生し、「こういえばよかった」「やっぱりあっちがおかしい」「本当はこうだったのに」などと反芻してストーリーを再構成したり、あるいはストーリーを自分にいいように編集し直したりすることがないだろうか。子どもの場合はこれが「ごっこ遊び」の形で現れるわけである。この遊びの内容は、多くの場合、子ども自身が持つ心の力によって変化が生じ、やがて見られなくなるのだが、時に一定期間が過ぎてもストーリーに変化が起こらず、いつまでも同じことを繰り返していることがある。これをそのまま放置しておくと、子どもの心に負担がかかりますます無力感に呑み込まれてしまう。3・11から半年過ぎたこの時期になって、震災直後と全く変わりない「ごっこ遊び」をしている例は少なかったが、中には強迫的に続けられている例があった。そこで、「ごっこ遊び」が子どもの心の回復や成長につながりうることを保護者や教員、保育士と共有したうえで、子どもがイニシアティブをとるストーリーの展開を最大限尊重しつつ、子どもの心の力を信頼した最小限の介入とはどのようなものであるかについて話しあう機会をもった。ある懇談会では、「子どもの遊びの世界の登場人物になって、言葉をかけたらどうかしら。」という保護者からの意見に「それやってみる」などという声があがったりもした。専門的助言に受動的に従うのではなく、被災地の大人たちが自分で納得して能動的に対応を選択していこうとする姿勢に、半年が過ぎようとして、大人たちの中に広がっていた無力感に代わる力を感じた。

③遅延して出てくる心の反応

 「下の子は大丈夫になったんですが、最近になってお姉ちゃんのほうが心配・・・」といった相談が保護者からあった。また、中学校の教員からは、「二学期になって不登校の生徒が増えている気がします」という報告があった。震災後の反応の発現の仕方や経過は、発達段階、それまでの喪失体験、今回経験した喪失体験の内容、支え合う親子関係や人間関係の存在、性格といった様々な要因によって個人差がみられる(前川 2004,2007、2011)ことが分かっている。直後にすぐ反応がでないケースは決してめずらしいものではない。そうした中には、それまで「いい子」できて、弱音を吐くことができないという子どもの性格や、心のSOSを出している家族メンバーがほかにいるといったことがある。発達障害を抱える子どもがいる家族の場合、定型発達を示すきょうだいはこの半年の間、保護者の右腕となって多くの我慢をしながら頑張ってきたであろう。おそらく、障害を抱える子どもや、先にSOS反応を見せていた年少の子どもが落ち着いたところで、きょうだいや年長の子どもが、不眠や食欲不振、一人でいられないといった退行、あるいは反抗的行動や抑うつ感といった形で心のSOSを出し始めていたのかもしれない。しばしば、遅延した反応は直後の反応に比べて周囲から受容されにくく、本人は孤立感を味わいやすい。保護者たちも、「これは震災の反応? それともわがまま?」と困惑し、それまでのような対応をとることができなくなっている様子がみられた。

④保護者が活用できる震災後の心のケア

 「抱きしめてってあるけど、うちの子みたいに体触れられるのがだめなんです。」「気持ちを共有して安心させてと書いてあるけど、気持ちを言えないこういう子どもの場合にはどうしたらいいでしょう。」被災地で発達障害の保護者たちと話しているとそんな声がとんできた。彼らは、定型発達の子どもを想定して作られたマニュアルを目にしていたり、それに基づいて語られるマスコミの情報を耳にしていたが、目の前の子どもには適用できない内容に当惑していた。発達障害の子どももひとりひとり異なるため、心のケアのためのマニュアルの中の内容が「何のために必要か」が理解できていないと、ケアするほうもされるほうも混乱させられるだけだ。前川(2011)は、Psychological First Aidをはじめ、内外の心のケアのためのマニュアル内容を、特に子どもを対象に、安全感(危険の少ない居場所、救援活動の情報、防災への能動的参加、衝撃的映像や大人の会話から遠ざけることなど)、安心感(感情をありのままに受容されること、誤った思い込みを修正してもらうこと、信頼できる人と一緒にいることや関わることなど)、安定感(見通しをもつこと、習慣や日課を取り戻すこと、活動のバランスをとること、主体的な選択をしていくことなど)の三つのキーワードのもとに整理をした。
 前述した保護者の最初の訴えや二つ目の訴えにあるスキンシップや感情の表現と受容は、安心感の提供において重要だとされるものであるが、子どもによっては接触過敏からスキンシップに嫌悪感を感じたり、抵抗を感じたりするものがいるし、自分の経験していることや感情を言葉にすることが苦手な子どもも少なくない。必要なのは、子どもひとりひとりにあった安心感の提供のしかたである。発達障害の子どもの場合には、環境内で起こることが予測できること、刺激が制限され構造化されていることが安心感につながる。例えば、一日のスケジュールをある程度決めておくことや、そうした一日の流れを絵や文字で紙に書いて示しておくこと、イヤーマフなどで音を遮断すること、一人になれる時間を作ることなどである。今回、被災地で保護者や支援員からの話をうかがっていると、発達障害の子どもの場合、安定感を保障するようなケアが彼らの安心感をも保障し、安全感をも高めている様子がうかがわれた。
 子どもへのケアのほとんどは保護者が行うことになる。その意味では、保護者が活用できるような情報の提供の仕方の工夫も必要である。

⑤震災と直接関係ないようにみえる問題の顕在化

 この時期には、保護者や支援員たちから相談される子どもの問題の中に、震災によるトラウマが直接関係しているのではないようなものが増えていた。夫婦関係の問題、虐待、家庭内暴力、子どもの学校における問題行動・・・、これらの中には震災前から見られていた問題もあるが、震災後に新しく浮かび上がってきた問題もある。震災以前には、コミュニティや家族のさりげない支えの中で、問題として噴出することなく来たものが、震災によりコミュニティや家族や大人の力が弱体化した結果、問題が顕在化してきたのかもしれない。あるいは、被災地内外の心の専門家たちが、どうしても震災に関連した問題のほうに目を向けてしまうために火種が小さいうちに迅速に対応できないできたということもあるだろう。そういう意味では、震災と無関係というわけではない。震災による心の問題とそうではない問題と二分割することはもはや意味がない。心はさまざまなものによって傷つけられ、さまざまなもので支えられていく。支援者も保護者も、「これは震災のせいか・・」とあまりこだわりすぎないことが必要になってきた時期であった。

⑥発達障害の子どもの居場所の新たな問題

2か月後とは別の意味で、発達障害の子どもたちの「居場所」の問題が見えてきた。一つは住居の問題。多くの家族が仮設住居に引っ越したが、隣近所の顔ぶれが変化したこと、壁が薄くて音を出すことに気を使うこと、仮設住宅の敷地内に遊べる場所がないことなどから、発達障害の子どもは落ち着かず、また、子どもを静かにさせようと保護者はストレスを高めていた。 二つ目には、幼稚園や保育園、学校の問題。「生活環境や家族環境が変化したのは仕方がないけれど、せめて学校だけは変えないでいてやりたい」と仮設住宅に入ったことで遠くなってしまった学校まで車で送迎する保護者がいらした。しかし、園や学校の統廃合で子どもの人数が増え、ある幼稚園では1.5~2倍の園児を預かることになったことで、発達障害の子どもの中に登園しぶりをする子も出てきた。 三つめとして就労の場という問題。これまで中学校を卒業してから漁業加工の仕事についたり、父親と一緒に漁師になるものが少なからずいた地域だっただけに、津波による漁業関連の被害によって、大人たちの仕事も不足する中、多くのこうした子どもたちから就労の場が奪われることになった。安心していられる居場所が得られないことは、子どもの社会生活や社会的自立の機会を大幅に狭めることとなっていた。

⑦保護者のレスパイトの工夫とネットワーク作り

 保護者の心身の負担、経済的負担は増え続けていた。スクールバスが流され、公共の交通機関が遮断された環境で、多くの保護者は園や学校への送迎の負担を抱えていた。中には、高学年と低学年で統合された学校が異なり、きょうだいを別々の学校に送り届けている保護者もいた。保育園や幼稚園が延長して子どもを預かったり、放課後デイサービスを広く開放したり、土日に保護者の茶話会をもうけたりして、仕事を探しをし続ける保護者や、子育てと被災後の雑務で飽和状態となっている保護者たちへの様々なサポートが行われていた。岩手県の沿岸部では、発達障害支援のネットワーク作り、親の会の立ち上げにJDDの専門家や被災地外の心理士たちが橋渡しという形で支援し、研修会や茶話会の場は学ぶ場や愚痴をこぼす場としてだけでなく、保護者同士、地元支援員同士の顔あわせの場となった。また、経験のあるボランティアに気兼ねなく子どもを預かってもらって、発達障害の専門家を囲んで懇談会をもち、孤立することのリスクとつながりあう大切さを語り合い、心から大笑いしたり、涙したりする時間をもった。保護者たちは、文字通り一休み―レスパイトーを必要としていたが、新しいつながりも求めて積極的に動き始めていた。

⑧地元支援者たちの疲弊

 疲弊しているのは保護者だけではなかった。地元の支援員たちも疲れをためていた。5月の段階では、「休んでほしい」という声掛けはとてもできないほど、動き続けることで不安と闘っている様子であった支援員たちだった。まさに気力と使命感で半年間活動を続けていたのだろう。この時期にも活発に活動している支援員が多くいたが、中には自分の家族へのケアなど様々な理由から仕事内容を変えたり、仕事をやめたりしている支援員も見られた。また、先の見えなさからバーンアウト様の状態やPTSDに見られるような症状を訴えだすものもいた。
 地元支援員への支援はますます重要な課題であるが、とはいえ、この時期も、疲れた表情の中にも大切な役割を担い、多くの被災者から頼りにされている彼らに「休んだ方がいい」というような声はかけづらいものがあった。被災者でもあり支援者でもある彼らのトラウマてぃっくな出来事で体験した無力感をこれ以上強めないためにも、被災地外の支援者が配慮すべきこととして、ⅰ)地元の支援員のペースに合わせて伴走すること、ⅱ)守秘を約束し、愚痴や弱音を吐きやすい場をつくり、それらに耳を傾けること、ⅲ)彼らにやってほしいことを選んでもらい、それを分担すること、ⅳ)気分転換を共にすること、といったものがあるだろう。いずれも、彼らが主人公であり、被災地外の支援者はあくまでも黒子に徹することが必要である。、

3.震災後11~12か月のころの発達障害の子どもと家族 ―2012年1月末、3月―

 この時期は、解体するコミュニティもあるが、つながりを回復していくコミュニティ、新しくつながるコミュニティも誕生し始めていた。しかし、未来への希望はまだまだ現実的なものとして描かれ難く、1年を迎えて、不安や動揺を新たにしている人たちも多かった。この時期に気づいたことと新たな課題を、①心の反応の多様性、②仮設住宅での新たな不安、③個人・家庭・学校・コミュニティにおける防災、④アニバーサリー反応、⑤無力感・孤立感の回復とエンパワメント、⑥被災者たちのPost Traumatic Growth、の7つの視点から振り返ってみたい。

①心の反応の多様性

 時間とともに、トラウマ経験後の状態の個別性がより明確になってきた。いつもの姿に戻った子どもがいたり、いまだに一人でいることを怖がるような子どもがいたり、他方で、震災を境にコミュニケーションがとれるようになった子どももいたりした。半年後の時にも見られたが、時間が経つほど、保護者たち大人は、「これは震災の影響?それともわがまま?」という問いや、「いまだに続いているが・・」といった戸惑いを抱くようになり、それによって、子どもの反応を受け入れられなくなっている様子もみられた。発達障害を抱えていようがいまいが、トラウマティックな出来事から時間が経つほど心の反応は多様になる。
 ある小学校で、支援をしてくれた人たちに手紙を書いてお礼をしようとしたところ、一人の児童が腹痛を訴え、「思い出すのがつらい。もうみんなは平気なのか。自分はおかしいのか。」と泣き出したという。学校などではグループケアも行われるが、時間が経つほど個別の状態に目を向けておかないと、「自分だけ異常」という思いに苦しみ、自分のありのままの感情を否定し、正直に表現できなくさせる危険性がある。このような集団での活動やケアの際には、個別のカウンセリングの時間をその前後にもうけるなどの配慮をし、決して「一緒に」を強要しないことが必要である。

②仮設住宅での新たな不安

 多くの保護者が子どものために変化を最小限にとどめたいという思いを抱いていたが、保護者自身も地元を去りたくない思いを強めていた。保護者は、家族への愛情とともにコミュニテイへの愛着もとても強かったのである。
 そうはいっても、被災地に建てられた仮設住宅での生活で彼らは新たな試練を体験していた。仮設住宅での生活では、騒音、寒さ(この時期は夏の暑さに代わり)、結露によるカビの問題などのストレスが継続していた。特に、音の問題は、子どもが出す音が近隣に迷惑になるのではと心配するだけでなく、聴覚過敏な子どもがいると近隣から聞こえる音に対しても心配をしていた。
 このように「今」の生活にも心配を膨らませる仮設住宅での生活だったが、仮設を出なければならない近い「未来」も保護者の気持ちを重くしていた。やがて仮設をでなければならない期限付きの「今」の生活では安心できる「未来」も、くつろげる「今」も味わうことはむずかしい。一年近くたって「未来」を見る余裕がでてきただけに、「未来」への見通しがもてないことが保護者から安心感を奪っていたのである。

③個人・家庭・学校・コミュニティにおける防災

 震災後の心の反応への直接的な介入を求める声は減ってきていた。すでに必要なケアは専門家によって行われていたからであろう。もちろん、心の痛みがなくなっているわけではなく、遅延した心の反応や、複雑になっていく心の傷は存在し、深刻化する問題もないわけではない。しかし、「震災後のケア」という意識から、少しずつ「日常の防災」という意識へと確実に変化してきている様子がみられ、保護者からは、「今回の失敗は繰り返さない」だけでなく、「もっと確実な安全を」「理想よりも現実的な防災を」「家庭と教育現場と福祉とコミュニティが協働した防災を」という声が出された。電気や電池のいらない遊びを子どもに教えだしたという保護者の声に、懇談会では、どんな遊びがあるかを出し合って、思いのほかたくさんあることで盛り上がったことがある。
 また、自閉症協会が出している「防災ハンドブック」や「自分を守るカード(前川 2011)」などを活用して、発達障害の子どもにも主体的に防災に参加させていこうと教員や保護者たちも動き出した。「自分を守るカード」には、防災リュックにいれるものを5つのカテゴリー(自分の命を守るために、気持が安心できるために、ひとりで時間を過ごすために、自分のことをわかってもらうために、その他あるといいもの)にまとめて描かれている(付録参照)。子どもたちは、教員や保護者と一緒に定期的、主体的に内容を書き換え、リュックの中身を自分で点検することができる。また、あらかじめ避難所となる場所に子どもに関する情報(診断名や特徴、配慮してほしいことなど)を提供しておくという方法を取り入れた地域もでてきた。被災地でたびたび耳にした「津波てんでんこ」の言葉にあるように、防災はまず、自分で自分を守るという個人レベルの意識が必要だ。そして、その個人を生活の場で守り支える家族レベル、園・学校レベルの防災、さらにその家族を受け入れ、家族と家族をつなげるコミュニティレベルの防災が揃って初めて、「私だけ」が生き残るではなく、「私たち」が安心して生きられる防災へと展開するのである。

④アニバーサリー反応

 一時落ち着いていた大人たちも、2012年の3月11日が近付くと、ふたたび不安を高め、サバイバーズギルトが蘇り、不眠や食欲不振に陥ったり、フラッシュバックを体験したりしている様子がみられた。これはアニバーサリー反応といわれるものである。異常な状態というよりも、トラウマを体験した人には極めて自然な反応で、トラウマティックな体験をした日時になると直後と同様の心の反応が再発してしまうのである。
 このような状態はしばらくの間、毎年のように「その日」が近づくと起こるかもしれない。心の反応には意味がある。アニバーサリー反応もトラウマティっくな出来事を抑圧するのではなく、ゆっくりと向き合うのを助けるものだといえる。この反応へのケアでまず大事なのは、これが異常なことではなく、立ち直ってきた今までのプロセスが無意味になるものではないということを理解しておくことである。また、「その日」は、イベントに参加したり、感情を共有できる仲間と過ごしたりするのもいいし、一人静かに思い出に浸りながら過ごすのもいい。決して、感情を受容するのを急がしたり強制したりする必要はない。

⑤無力感・孤立感を回復するためのエンパワメント

 被災地外からの支援はこの先も継続していかねばならないが、支援活動における主人公が、被災地の人たちであることを忘れてはならない。支援を必要とする人の主体性を無視して、支援をする側が「良かれと思って」「なんでもやってあげる」という姿勢で活動を一方的にすすめることが、支援を受ける側をかえって無力化(ディスエンパワメント)してしまう場合がある。被災者ができることさえも、代わりにやってあげるという状況が長引くことは、被災者の中の生きる力の回復を遅延させてしまう。支援をする側は被災者の中に存在する自然な回復力―レジリエンス―に敏感になり、支援の内容を工夫、変化させていくことが求められている時期である。
 また、孤立は生きる力を弱める。震災によって断ち切られた絆を取り戻したり、新たなつながりを作るための橋渡しというのも、これからの支援として重要である。これは、被災地外の支援者と被災者をつなぐというよりも、被災者同士をつなぐもので、研修や茶話会の場が支援者同士、保護者同士の出会いの場として活用された。

⑥被災者たちのレジリエンスとPost Traumatic Growth

 半年過ぎたころから、茶話会などでの保護者たちの様子を見ていてなんとなく感じていたことが、2012年の1月末の岩手県沿岸部で催されたシンポジウムでの被災者たちの発言を耳にして確信に変わった。シンポジストとなった彼らの語りには、「振り返る力」(3・11以降をDVDにまとめたり、整理したりして主体的に振り返ることができるなど)、「自ら行動を選択する力」(強制されて仕方なくというのではなく、自由に行動し、積極的能動的に復興のために必要なことを実行していくなど)、「感謝する力」(震災当時、またその後の出来事を通して、助けられたことに感謝しているなど)、「肯定的に意味づける力」(自分をほめたり、自己の成長を実感できたりする力)、「人とつながる力」(傷つけられることを過剰に恐れず、外に出て新しい人とコミュニケーションをとろうとする力など)、「ユーモアをもって体験を表現する力」(笑いを共有できること)、そして「未来を見る力」(見通しをもち、希望をもつこと)といった心の力を強く感じた。彼らはひとりひとり想像を絶する経験をしていたが、新たなWell-beingを手にいれている様子がうかがわれた。
 トラウマティックな出来事を体験することによって、新しい現実に立ち向かう生き方を手に入れ、以前よりも成長した姿になることについては1990年代から注目され、TedeschiはこれをPost Traumatic Growth(以下PTG)と呼んだ(Tedeshi,R.G & Calhoun 2004)。PTGは、決して心身に症状がないということではない。PTGを遂げた人の中にはPTSDを発症していたり、様々な心身の症状を訴えたりしているものがいる。しかし、「実存的・精神的側面での変化」(命や生かされていることに感謝するようになる、価値観・世界観が変化する、新しい領域に関心をもつようになる、人生に新しい意味づけをするようになる等)、「人間関係の側面での変化」(親密性が深まる、自己開示ができるようになる、絆の強さを実感するようになる、他者に深い思いやりを抱くようになる等)、「自己の側面での変化」(内省を通して自分の弱さを受容する、自己の強さやレジリエンスに気づく、「犠牲者」ではない自己を認識する等)といった3つの側面での変化・成長がみられる。こうしたPTGが実現するためには、体験をありのままに聴き、変化できる力を信頼し、時間をかけて気持ちを受容し、共感してくれる仲間(Companion)の存在が重要であるとTedeschiらは唱えた。PTGの3つの側面は、前川(2004)の3つの信頼の喪失(世界への信頼、他者への信頼、自己への信頼)の回復にも通じるものである。こうしたPTGは子どもにおいても起こりうるということが報告されている(Cyder et al 2006, Yaskowich,2002)。被災地外の支援者ができることは、被災者たちのPTGのプロセスを妨げず、それを支えるケアであるべきだと感じた。

4.震災後1年後の発達障害の子どもと保護者 ―2012年5月~2013年1月―

 ある保護者の「3・11の時、『この子を置いては死ねない』と思って必死だった。」という言葉がずっと胸につかえていた。子どもを思う保護者の愛情と強さを感じる以上に、わずかでも障害を持った子どもの保護者にそんな心配をさせてはならない、そんな風に保護者に思わせてしまう社会を作ってはならないと責任を強く感じた。そのために何ができるか。3・11の体験を広く共有し、ここからの学びを広げて、3・11を未来とつなげていくこと、被災地外と被災者をつなげていくことであると今は思っている。

C.引用文献

前川あさ美 2004 心の傷つきと心理的援助 ほんの森出版

前川あさ美 2011 Lecture3 +++++ ポスト3・11の子育てマニュアル 講談社

西澤哲 1997 子どものトラウマ 講談社現代新書

サイコロジカル・ファースト・エイド実施の手引き第二版 2009 Psychological First Aid : Field Operations Guide, 2nd Edition. 2006 National Child Traumatic Stress Network and National Center for PTSD兵庫県こころのケアセンター訳

Tedeschi,R.G. & Calhoun 2004 Post traumatic Growth:Conceptual Foundation Empirical Evidence, Philadelphia,P.A. Lawrence Erlbaum Associates

D.研究発表

巻末刊行物参照