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ある自閉症児の心理療法
関係の障害を克服する基盤としての「居心地の良さ」

長島明純
(室蘭市情緒障害教育武揚治療教室)

項目 内容
発表年月 1997年9月

ABSTRACT

Psychotherapy of one Autistic Child

The importance of "Being Comfortable" in overcoming social disabilities

NAGASHIMA, Akisumi
Muroran Buyo Primary School

This is the psychotherapeutic process of on autistic child who did sandplay. Through this case, I have found that "Being Comfortable" is the emotional foundation for autistic children who are attempting to overcome their inability to form relationships and who need to develop a coherent sense of self.

In applying sandplay therapy, I tried to give the child enough time to play based on autistic children's behavioural characteristics. I think that sandplay therapy may include both play on the floor and with sand, without a fixed pattern.

With these approaches I could withess the development of a sense of self of the autistic child who was previously unable to develop a coherent self-image. There was also an improved body conciousness that had been unconscious due to his or her disability, and improved ability to organize the perceived world. This reflects the everyday life of the autistic child including his or her relationships with other people.

キー・ワード:自閉症児(autistic child)、居心地の良さ(being comfortable)、自己感(sense of self)

I.はじめに

自閉症が脳の機能障害、つまり言語・認知の障害に基づくという見方が支配的となってからは、プレイ・セラピィはその適応をめぐってその原疾患そのものにはさほどの効果がないと言われてきたが、自閉症児へのプレイ・セラピィの適用の意義が改めて見直されてきている。自閉症児への指示的なプレイ・セラピィの活用とともに精神療法的アプローチそのものの意義が見直されつつあるように思う。近年、発達障害児(自閉症児を含む)を対象とする学校教育においても、遊びの機能が重要視され、「遊びの指導」として、教育課程に位置づけられ、養護学校の小学部を中心に実施されるようになってきているのも、このような考え方が、学校現場からも指示されてきているからだとも考えられる。

本教室は当初、自閉症児を対象とする通級制の治療教室として開設されたが、今は固定制となり学習指導要領に準拠しつつ特殊学級としての教育課程を編成している。本児は筆者が担任している児童であるが、その障害の実態から個別的な対応が必要であると考えられたので、その指導の形態として、「遊びの指導」としてではなく、個人あるいは小集団を対象に進められる「心身の適応」などの内容を含む「養護・訓練の指導」として教育課程に位置づけ、週時程に時間を設けた。なお、場に馴染むのに時間を要するという本児の特徴に配慮して、箱庭を中心とした治療者との関係の場に慣れるまで、一般的な治療時問の枠を越えて、1回の「養護・訓練の指導」としての時間をゆったりととった。Walasの床ゲームから発する箱庭療法をプレイ・セラピィ床あそび・砂あそびの体験としてとらえ、その行動と作品を合わせて振り返ることで、白閉症児への箱庭療法の適用の意義を検討してみたい。

II.事例の概要

本児
小学2年生(7歳)男子。
特徴
アイコンタクトがうまくとれない。情緒的な反応、言語に乏しい。
家族構成
父38歳、母38歳、弟5歳の4人家族。
生育歴
生下時体重は3.6789。おとなしく、手のかからない子であった。母乳で育てられる。3歳になっても言葉に対して反応や興味を示さず行動模倣もなかった。言える言葉は10以下で指さしもなかった。アイコンタクトが弱く表情も乏しかった。その後幼稚園を経て小学校に入学。

III.治療経過

#は回数、以下本児をC1、筆者をThと記す。

治療形態
箱庭の置いてある部屋で、Thと1対1で、週1回行われた(図1)。部屋に入る際にC1に児童用の白衣を着てもらった。医者が白衣を着るのとは逆にC1に白衣を着てもらうことで、日常場面での教師と生徒という関係とは異なる、治療関係を示そうとした。
経過と検討
C1の制作過程の行動とその作品の流れなどから治療過程は大きく7期に分かれた。

第1期 #X~#X+4

本教室の他の男の子が箱庭で遊ぶようになるとC1も箱庭の前に自分のイスを運んで座り、おわんやカップ、スプーンなどを使って砂で遊ぶようになる。その男の子は、毎回箱庭を水浸しにして遊んでいたが、はじめC1は他の子が使わなかった乾いた箱庭の砂で遊ぶ。1カ月ほどすると他の男の子が水を使ったあとの箱庭でも遊ぶようになる。手で砂に記号をかく、乾いた砂に水を入れて手で混ぜる、乾いた砂と濡れた砂を手で混ぜる、おわんやカップやスプーンで砂をどけるといった行動が続くようになる。#X:初めて他の男の子の使ったあとのまだ水を含む箱庭で遊ぶ。その箱庭にさらに水を加え服がびちゃびちゃになるまで遊ぶ。#X+1(写真1、口絵3参照;写真2):C1は水を箱庭に入れて腰を下ろし、水をたたえる箱庭を見る。#X+2:C1は他の子どもの制作したまだ水を含んで重たい箱庭を床に置こうとするが、危なかったのでThが代わって床に下ろす。

〔検討〕

まだ箱庭の部屋に馴染んでおらず、不安や緊張が残っていた。他の人が使った箱庭を探索したり、箱庭で遊んでいるC1にThがどんな態度で臨むのか、探りをいれていた。ThもC1の行動を確かめていた時期でもあった。C1は不確かな混沌性のなかにあったと思われる。コミュニケートすることに大きな障害をもっC1が成長するためには、確かな母性の守りが必要であり、それゆえに象徴としての子宮である箱庭を、豊かな母性を象徴する大地に置こうとしたのだとも考えられる。箱庭での水は新たな芽生えを象徴していた。箱庭を象徴的な子宮とすれば、そこでの水は羊水ということになろう。羊水を満たした羊膜腔が発生し、そこが胎芽胎児の生活空問となるのであるが、箱庭での水はこれからの展開を予兆していた。

他の子どもが遊んだ箱庭
写真1 #X+1(No.1) 他の子どもが遊んだ後の箱庭。

他の子どもが遊ばなかった箱庭
写真2 #X+1(No.2) 他の子どもがしなかった箱庭。

第2期 #X+5~#X+9

他の男の子が使わなかった乾いた砂の箱庭を使っておもに遊ぶようになる。#X+5:両手を箱庭一杯に広げ、砂を口につけるようにして遊び、手の甲に砂をのせる。#X+6:親指から小指まで砂を指先にかける。#X+7(写真3):それまでイスを箱庭のまえに置いて遊んでいたがイスから立ち上がり箱庭全体を大きく使って遊ぶが、勢い余り過って箱を床に落としてしまう。砂を握って砂の感触を味わったり、手を口のなかに入れたりする。#X+9(写真4):おわんを逆さまにして砂のケーキを作り、「おいしいケーキもぐもぐ」と言いながら食べる動作をする。かごに入っていたおもちゃの果物を出す。

〔検討〕

イスから立ち上がり大きく箱庭全体を使うなど、不安や緊張がほぐれ、感情や行動などに自由さが出てきた。これは生きているという身体の実感が漲ってきたことを示すものであった。他の人が使わなかった箱庭で、砂を自分の体につけるなどしていた行動は、自分という身体が空間と時間に居場所を得始めたのだとも考えられる。勢い余って過って箱をまえに落としてしまうが、この事件はC1の世界に向かうエネルギーの高まりを象徴するものであった。世界が自分を受け入れてくれたという意識が、「食べる」世界を食べる一という行為を成立させてくれたように思う。「砂を食べる」という行為には、自分の身体を引き受けてくれた空間や時間への安心感が示されていた。箱庭体験がC1にとって「おいしい食べ物」と化していったとも考えられる。砂に直接触れる行為は砂に触れられているという触感も伴うことを考えれば、砂を味わうような動作は、自分の身体の世界との相互性を確かめる行為でもあったと考えられる。

箱庭を落とす
写真3 #X+7 箱庭をまえに落としてしまう。

ケーキ
写真4 #X+9 おいしいケーキもぐもぐ

第3期#X+10~#X+15

部屋の隅の一段低くなった床(C1の体一つ入るぐらい)に入って、砂で遊ぶようになる(写真5)。#X+10:顔が砂だらけになるぐらい額を箱庭につけ遊ぶ。#X+11:砂を握って箱庭の外に出し、出した砂を集めて箱にまた入れる。床や一段低くなった床で寝る。#X+12:砂だらけになった全身を鏡で確かめるように見る。#X+13:砂団子を作り水に入れる。#X+14:色ガラスの玉を床に並べて遊ぶ。#X+15:色ガラスの玉を砂に埋めて、水をかけて遊ぶ。

〔検討〕

感情や行動などに白由さがさらに増すと同時に、身体の居場所を探ろうとする動きも強まっていった。一段低い床に入るという行為は、象徴的には、自分自身の基盤となるより身体の基底部を確かめる作業であったとも考えられる。コミュニケーションに大きな障害をもつC1が交流を活用して楽しむようになるためには、 14)D.W. Winnicottの言う、非自己の世界といかなるかたちの交流もしない自己の中核ができるため、いく重もの子宮・枠の守りが必要であったのだろう。C1にとっては箱庭を中心に、床・一段低い床という部屋全体が、隠楡としての子宮の層をなしていた。鏡で砂のついた身体を確かめるようになるが、これは鏡像を通して自分の身体を引き受けるという意味があったと考えられる。しかもC1の砂のついた身体を見たという行為には、実感を伴ったまとまりとしての身体を引き受けようとする意味が込められていたとも考えられる。箱庭の砂自体がC1の身体の象徴であったと考えるならば、色ガラスの玉を砂に埋めて水をかけた行為は、C1の身体が輝きを得て育っていくための象徴的な儀式であった。

低い床の遊び場
写真5 #X+10 一段低い床の遊び場。

第4期#X+16~#X+22

Thが箱庭を床に置くとC1はおもにその箱庭のなかで遊んだり寝たりするようになる。箱庭の砂全体にはフィンガーペインティングをしたような跡が残る。#X+16:C1はポットで水をくみにいくようになる。言葉が少し出てきていたが、はっきり「うれしかったね。叫んだりして」「渡る世間は鬼ばかり」などと言えた。#X+17:ヤダモン人形を箱庭に落とす。#X+19(写真6):砂に隠れていた色ガラスの玉を見つけて出す。棚にあったパトロールカー・乗用車・飛行機・ヘリコプターなどをもつ。#X+20:砂を天上にあげる。#X+21:ヤダモン人形とその犬、猫などの人形を全部の箱庭に出したり、ヘリコプターを手にもちその羽根を回す。

〔検討〕

箱庭を床に置いてもらったことで安心感が増し、退行が一層進んで、箱庭が子宮としての機能を成熟させていった。C1が箱庭のなかで寝るようになっていったのは、箱庭が「居心地の良い子宮」となったからであり、空間と時間への安心感が示されていた。子どもの人形や動物の人形を箱庭に寝かせた行為もこのような「居心地の良い子宮」としての箱庭への生の実感に呼応していたものであった。箱庭のなかで遊んでいる姿は、母親の子宮のなかで遊ぶ胎児のようであった。身体に漲る生の実感・躍動感は「うれしかったね。叫んだりして」とか「渡る世間は鬼ばかり」という言葉としても表現されていた。砂全体に残されたフィンガーペインティングのような激しい跡にも、C1の躍動感が表現されていた。生の実感・躍動感が身を包む時空間にも反映され、生命の縦への広がりがヘリコプターや飛行機の動きとして、生命の横への広がりが箱庭に置かれた車として象徴されていったように思う。12)D.N.Sternの発達論においては統合されているという感覚の「中核自己感」の領域のまえに白己のオーガナイゼイションの新生を体験する「新生自己感」の領域が置かれている。 砂に隠れていた色ガラス玉を見つけたという外的な行為は、C1が身体が色めいてきたことを自分の出来事として感じ始めたという、内的な事実・新生の実感とどこかで呼応していたとも考えられる。見つけた色ガラス玉は覚醒された魂を象徴していた。

フィンガーペインティング模様
写真6 #X+19 フィンガーペインティングのような跡。

第5期#X+23~#X+28

C1は箱庭のなかで丸くなって寝たり、体に砂をつけるようになり、また箱から立ち上がり砂を落とすようにもなる。テレビのニュース番組、赤ちゃんのオムツ名、漂白剤、お菓子やビールの商品名などの言葉を音声として、また砂への文字としてたくさん表出するようになる。#X+23:床が一段低くなった所で寝そべる。頬に砂をつける。棚に置かれていた座る人・鞄をもつ人・配達する人の人形を触り「始まり、始まり」と言ったり、並べたり倒したりする。「パワーアップ」「新しい」「ホットドッグ」と言ったり、おもちゃの飛行機をもち「飛行機」と言ったりする。帆を張った船・パトカー・バスももつ。#X+24:箱庭のなかで寝そべり、腹などに砂を落とす。砂をくり返し天上にあげるので、部屋中が砂だらけになる。#X+25(写真7):箱庭のなかで立ち上がり体をくねらせながら砂を落とす。箱庭に寝そべり砂をなめたり、尻を砂につけ腹や膝、頭などに砂を落としたりする。頬に砂をつけ指で線を引いたりもする。唾と箱庭の砂を混ぜる。#X+26:水が砂にしみ込む様子を見つめる。#X+27:スプーンを砂に立てたり、ヤダモン人形6体を箱庭に並べて寝かせてまた取ったりする 。#X+28:箱庭のなかに入り、尻で砂を押したり、砂団子を作り潰したりする。

〔検討〕

多くの人を乗せる乗り物や部屋中に広がった砂は、C1の躍動するエネルギーが増大していることに呼応していた。赤ちゃんのオムツの商品名やお菓子やビールなどの商品名がプレーのなかで表出されるようになるが、これらの品名は人間の発達の最初期から世界と接する肛門や舌などの身体部位に関連するもので、身体意識が活性化され身体が世界に開かれ出したことを示していたとも考えられる。砂に寝たり、なめたり、お尻で押したり、団子にして潰したりした行為は、胎児が子宮内で母体との相互確認をするような身体と世界との確認作業の意味があったと考えられる。ホットで新鮮な感覚が身体に覚醒されてきたことを、ニュース番組名や漂白剤名、「始まり、始まり」「パワーアップ」「新しい」「ホットドッグ」などの言葉としてC1なりに表現していた。言葉を介して象徴的に世界を把握し自分のものとしようとするC1の動きを示すものでもあったと考えられる。天井から降らした砂は雨のようであった。仏教では「法雨」と言って「雨」が万物の草木を育む慈悲を象徴する場合があるが、C1の砂の雨にはそのような感覚に結びつく「新生」の喜びが表現されていた。 砂をもち立ち上がる行為もふえるが、大地を象徴する床や砂の入った箱から砂をもって立ち上がる様子は、草木が大地から出てくる様子を連想させた。オムツの商品名を頻繁に言うようになったが、これは大便や小便など内面の秘密を象徴する大事なものを場に出しても、ちゃんと世話してくれるとの安心感が育ってきたからだと考えられる。胎児が子宮のなかで丸くなっているようにC1は箱庭のなかで寝るようになったが、その箱庭はまさに母子一体としての子宮であった。

箱庭
写真7 #X+25 箱庭で寝たり体に砂をつける。

第6期#X+29~#X+34

箱庭の砂に穴をあけるといった行動がよくみられた。#X+29:小さく細い木の棒で砂に穴をあけそこに水を入れる。#X+30(写真8):砂にしみ込む水に息をくり返して吹き込む。箱庭の砂をスプーンでえぐったり、大きな木の棒で砂に穴をあけたりする。鏡にC1の姿を映して「もれずにニコニコ」「今日も元気」と言う。C1はよく使っていたプラスチックのコップをお尻で割ってしまう。#X+31:木の棒でうどん粉を伸ばすように砂を押す。#X+32:水であいた穴にスプーンで砂を入れる。床の箱庭のなかで座る位置を箱庭の一縁に沿い回りながら変えていく。#X+33:初め:て「水下さい」とThに言ってから水をくみに行く。ポットの水で箱庭の上下横中央の順で穴をあけるが、スプーンや小さい木の棒でも穴をあける。#X+34:小さい木の棒を箱庭の砂に押しつけて〔X〕とかき、字の上に砂をかける。箱庭のなかで体を丸くする。砂に耳をつける。マイクをもつ真似をしながら、「形にならない」「町はすべてを包み込む」と口ずさむ。唾を砂に落として混ぜたり、「鬼は外、福は内」と言い、砂を投げたりする。

木の棒で砂に穴
写真8 #X+30 木の棒で砂に穴を空ける。

〔検討〕

中国の古典『壮子』には、一日にひとつ穴をあけたら混沌が7日目に死んでしまったという話がある。生命を育む水で砂に穴をあけるという行為が、内と外という混沌を終焉させる儀式であったと考えるならば「鬼は外、福は内」という言葉は、自分と他人との障壁ができてきたという決定的な次元転換 3)(井筒)を示す言葉でもあったと考えられる。「形にならない」「町はすべてを包み込む」という言葉に表現されていた豊かな母性との一体感が、C1の魂の内実を確かなものにしていき、それが内と外という混沌を終焉に向かわせたのだと考えられる。C1の水で砂に穴をあけるという行為は、新たな芽生えを象徴する羊水が、誕生を前に破水しだす儀式であったのかもしれない。12)D.N.Sternの発達論では「新生自己感」「中核白己感」間主観性が共有できる「主観的自己感」、言語化できる「言語自己感」の各領域が、順次形成されて共存しながら生涯続いていくとされる。C1は「水下さい」とThに言葉で意思を伝えられるようになるが、この行為はC1の自己感がより成熟してきたことを示すものであったと考えられる。C1の水で砂に穴をあけるという行為は、抽象的言語の世界へと決定的な次元転換をしたことをも象徴していたと考えられる。

砂だらけ
写真9 #X+36 箱庭の部屋中が砂だらけ。

第7期#X+35~#X+39

たくさんの砂を天井にあげて雨のように降らし部屋中砂だらけになり、箱庭から出て時計で遊ぶ行動が現れる。箱庭の青い底が見えなくなっていき、水も使わないようになる。#X+35:足や背中、頭に砂をかける。人参、玉葱、芋の玩具をもつ。#X+36(写真9):箱庭の枠に座りながら時計のように回る。#X+37:色ガラス玉を箱庭のそぱに置く。「福は内、鬼は外」「お風呂ニャーニャー」と言う。#X+38:砂に混じっていた小石やカーペットのかけらを箱庭の外に出す。#X+39(写真10):外は雨で部屋のなかにも雨音が聞こえる。色ガラス玉が初めて箱庭のなかに留まる。

〔検討〕

「水」や「箱の底の青」に象徴されていた「羊水」がなくなり新たな誕生、出発が始まろうとしていたのだろう。頭に砂をかけたりする行為や、「お風呂ニャーニャー」という言葉は、新たな誕生に結びつく産湯のイメージを喚起させてくれる。時計で遊ぶようになったことは身体が時間に住みつく力がついてきたことを象徴していた。そしてそのような行為を子宮としての箱庭から出てするという行動の変化は、一応の身体性の覚醒が行われたとのC1の時熟意識を示すものであった。#X+39回にはそれまでほとんど箱庭の外に置かれていた魂としての色ガラス玉が、子宮でありClの身体でもあった箱庭に収まり、光を得だしている。治療室に置かれた箱庭自体が周りの美しい砂の模様と相まって、一種の曼陀羅のように見えた。この曼陀羅は魂が身体に収まり、一応の白己感が統合されたことを象徴するものであった。社会的な連関のなかでClの身体が輝き出したことが、星雲のなかで輝く星をイメージさせてくれるような宇宙的曼陀羅として砂に表現されたのは、身体というものが宇宙的連関のなかに生きているものでもあるからだろう。

きれいな模様
写真10 #X+39 箱庭の周りにきれいな模様。

IV.C1の目常行動にみられた変容

パニック行動は、次第に減少していき、他の人への注視の時間や頻度、着席行動の持続時問などが増加していった。ラジオ体操の模倣が上手になり、縄で前回し跳びができるようにもなる。人との関わりを嫌がり、白分の要求に基づいた反応しか示さなかったC1であったが、徐々に集団の場に耐えられるようになり、周囲の要求に応じようとしたり、他の子の行動に自分の行動を合わせようとしたりするようになっていった。弟と押入れでつかまえごっこをして遊ぶようにもなる。食べ物を中心に言葉が出だし、言葉を使って自分の要求を相手に伝えようとするようになっていった。

V.魂の吟味をせまる自閉症児

5)李は「自閉症とは、人生の最早期に外界への恐怖のために自らの安全を守るべく反応が生じ、その反応が過度にこり固まったために、情緒的・認知的・社会的発達が大幅に阻害された状態である」と述べているが、自らの殻に閉じこもっているようにも見える白閉症児の鋭敏な心のアンテナに驚かされることがある。筆者は白閉症児との関わりのなかから、白閉症児は14)D.W.Wimicottの言う非白己といかなる交流もしない自己の中心部分を破壊されずにすむために、自閉の殼を形成するとともに、相手の魂を見抜く直観を備えているのではないかと考えるようになっている。

4)河合はC.G.Jungが人間の心理機能について、個人が主として依存している主機能とそれと対立する劣等機能があるとしたのを踏まえ、劣等機能について「未分化であるが強い」と指摘している。9)E. M.0rnitzは自閉症を基本的に感覚一運動統合機能の発達遅滞の特殊型であり、対人・対物関係や言語の障害は二次的なものであるとしているが、自閉症児は認知に関わる感覚一運動統合機能が未分化であるがゆえに、対人・対物関係や言語に関して、その魂のレベルでは鋭敏な反応を示すこともあるのではないかと考えている。

11)酒井・小山内が自閉症児との「共通空間が成立する条件は、・・・・・相互の人格を賭けた病者との直接対決」であると述べているが、自閉症児はあいまいさを許さない厳しい魂と魂との対決を常に迫っているのではなかろうか。仏典の大毘婆沙論などでは、人間の活動を身業(している事)・口業(言ってい事)・意業(思っている事)の三種に分けている。普通の人ならこの三つが一致しない相手であってもある程度のところで妥協し、社会生活をうまくやっていくのだが、白閉症の人はそれができない。決して魂の欺瞞性を許そうとはしない。魂の本質に迫り、どこまでも本物を求める。自閉症の人びとはある意味では、魂を厳しく吟味する病を担っている人びとであると言えよう。

C1は治療過程全体を通じて、箱庭の砂を執拗に混ぜたり退けたりしていたが、その姿はまるで砂を吟味しているようであった。まさにC1が魂を吟味する作業を象徴していたように思う。その吟味する厳しさは、第2期(X+7回)で勢い余って箱自体を落としてしまった行為にも象徴されていたように思う。箱の砂が魂であり箱がその身体であったとすれば、C1の魂を吟味する厳しさは、その器としての身体までも破壊してしまう危険性を秘めたものであったと考えられる。そのように考えるならば、第4期、箱庭の砂に残されたフィンガーペインティングのような跡は、魂と魂との対決でできた、C1の傷でありThの傷であったのかもしれない。

VI.魂の自由を求める自閉症児

白閉症が脳の機能障害に由来しているとの考え方が定着してからは、自閉症児への治療の方向性は指示的なものとなっていき、行動療法的な訓練がその中心となっていったが、指示的な方向性だけに偏することには問題がある。白閉症児に何かと負荷をかけてしまい、それがパニックを誘因する場合がある。13)若林・杉山も自閉症の青年期のパニックの原因について周囲からの要求課題の増強などをあげている。養護学校などである程度の身辺自立の技能を身につけた自閉症もしくは自閉的傾向を有する人が、施設に入所した途端、指示をまったく拒否し、すべてを介助してあげなければならない事例が出てきている。自閉症児を追い詰めて魂を窒息させない工夫が必要である。12)D.N.Stemは、広汎性発達障害(自閉症的特徴をもつ精神遅滞)の場合、大きな能力の欠損のため白己感の統合を推し進めることが難しく、その結果、知覚される世界はオーガナイズできないとして、「感覚の単一性の確立は、起こるとしてもゆっくり、体験を通してなされてゆくはず」であると述べている。

自分の感情や状況を「言葉」でうまくとらえ伝えることが難しい自閉症児は、受動的な存在と受けとめられやすいが、うまく自分の意思をコミュニケートできない分、その内面の動きとしては魂の自由を強く求めているのではなかろうか。治療教育の場で直に接していると、自閉症児は何とも言えないもどかしさを胸に溜めながら生きているように見える。本事例においては、魂の表現の窓口として箱庭を活用し、治療室をその箱庭の床あそび・砂あそびの延長の場として柔軟にとらえる一とともに、プレーの時間をたっぷり取り体験がしっくりその身体に収まるように工夫した。治療過程の初めには箱庭のなかに収まっていた砂が、過程が進むと、箱庭から枠の外に広がり、部屋全体が砂だらけとなっていった。C1が自由を求める魂の広がりを砂の広がりとして表現できたことで、C1の日常的な人との関わりは穏やかなものとなっていったように思う。最後の回(X+39)では色ガラス玉が箱庭のなかに置かれたが、箱庭の周りの砂はまるで身体から出ている美しいオーロラのように見えた。

VII.魂のホームベースとしての箱庭

教室に箱庭を購入すると、C1は興味を示し、自らのイスをまえに運び、砂あそびが始まった。視線回避にみられるように単純な交流を避けようとするC1にとって箱庭は、直接的な交流を避ける防波堤となり魂に安らぎを与え息づかせてくれる容器となり、それがC1の魂の遊びの居場所を与えてくれることになっていった。そして1)M.Balintの「分析者と患者とが一種の相互的体験として退行を寛容できる一種の環境あるいは雰囲気」というようなものを、ThとC1との関係のなかで醸成することができ、箱庭の置かれた治療室全体の場が、基本的安定感が確認できる、居心地の良いホームベースと化していった。箱庭を床に置いた第4期からは箱庭や一段低くなった床のなかに入っては外で行動するという行動をくり返すようになっている。

常同行動と言われる自閉症児の手をヒラヒラさせたりする行動は、環境因性の反応ではなく、中枢神経系内部に由来する神経病理学的な過程であろうと考えられる 7)(中根)が、この手を揺らして眺めるという行為は、自らの魂の揺れに合わせて手を揺らす世界を揺らす一という意味があるのではないかとも考えられる。自らの魂が揺れているということを、主体の側から見れば、世界が揺れて見えるということだが、魂の揺れに合わせ手を揺らすことで、何とか世界をコントロールできる安定したものにしようとしているのではないかとも考えられる。魂が揺れていては正しい情報を得られないばかりか世界は脅威として迫ってくるものとなってしまう。大地震のなかに生きているようなものである。

本事例ではC1の手をヒラヒラさせるという行動が治療室だけでなく生活全般から消えていき、それと前後して身体性が覚醒され言語活動も活発になっていったが、手をヒラヒラさせて眺めるという行為がαの魂の揺れを象徴していたとすれば、魂が身体に留まれるようになったことを示していたとも考えられる。箱庭を中心とした場がC1にとってホームベースと化していったこととC1の魂がその身体に留まれるようになったことはパラレルな関係にあったように思う。基本的安定感が確認できるくつろいだ時間と空間の場がなければ、その魂にとって自分の身体は居心地の良いものとならず留まることはできないだろう。

VIII.おわりに

8)成瀬は意識・無意識を含むあらゆる当人の自発的・能動的な活動をまとめて「主体」として、この「主体」が自分の体(自体)を動かす活動を動作としている。体の動きの問題はこの主体と自体とのコミュニケーションを軸に検討できようが、その根本にはその主体が世界に立ち向かっていこうとしているのかどうかの問題がある。6)佐々木が世界の見えは世界に向かって動く体の動きと不可分であり、認知はそれに向かって動く体の存在を内包し成立するとしているが、自閉症児の認知の障害にも世界に向かって動く体の問題があると考えられる。10)M.M.Pontyが「われわれの身体が世一界のなかにあるとか、時間のなかにあるとかと、表現してはならない。われわれの身体は、空間や時間に住み込むのである」と述べているように、C1の身体が世界に住みこめるようになるということは、世界に立ち向かう生きた身体として覚醒されていくということでもある。本事例では安心の大地としての箱庭を基盤に、その身体がC1の魂にとって居心地の良いものとして徐々に化していき、それに伴って世界に立ち向かう力が漲っていったと考えられる。

ボルネオ島に住むイバン族では、乳児の魂はその子と母親のあいだを授乳の際に往き来し、乳を飲まなくなったり歩けるようになると、魂がしっかりと子どもの頭に定着すると言われている2)(岩田)。イバン族の思想は、魂が母性性を供給(授乳)してくれる器としての「母」をくり返し確認できることで、世界に立ち向かう居場所としてその身体が化していくことを教えてくれている。子どもがその母をホームベースにし活動範囲を広げていくように魂がその居場所を得ることで世界に立ち向かう力が身体に漲っていったと考えられる。この世界に立ち向かう身体の覚醒は、自己感の充実として、治療過程での箱庭作品や行動の変化・日常生活での行動の変容などに反映されていったと考えられる。世界に立ち向かう身体意識を含んだ自己感の統合に関して、箱庭は発達促進的な働きかけの媒介としての役割が認められた。本事例は、“居心地の良さ’’が自閉症児がその関係の障害を克服し、世界に立ち向かう自己感の統合を推し進める基盤であり、箱庭を中心とした治療者との関係の場がこの“居心地の良さ”を保証するための“くつろぎの時空問”を醸しだしてくれることを教えてくれた。

謝辞:

本事例は日本箱庭療法学会第8回大会で発表したものを加筆訂正したものです。フロアから有意義な助言を下さった先生方にお礼を申し上げるとともに、貴重なコメントとご指導をいただいた京都大学岡田康伸助教授に心から感謝申し上げます。

文献

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  • 10)Ponty,M.M.:Phenomenlogie de la Perception. Paris : Gallimard,1945.(竹内芳郎・小木貞孝訳:知覚の現象学.みすず書房、1987.)
  • 11)酒井保・小山内實:心的固有空問”ここ”の成立と拡充。心理臨床学研究、7(3):21-31.1990.
  • 12)Stem,D.N. :The Interpersonal World of Infant.Basic Books,1985.(小此木啓吾丸田俊彦監訳:乳児の対人世界。岩崎学術出版社、1991/1994.)
  • 13)若林慎一郎・杉山登志郎:成人になった自閉症。精神科治療学、1(2):195-204.1986.
  • 14)Winnicott,D.W. :The Maturational Processes and Facilitating environment. London : The Hogarth Press,1965.(牛島定信訳:情緒発達の精神分析理論。岩崎学術出版社、1986.)
主題:
ある自閉症児の心理療法 -関係の障害を克服する基盤としての「居心地の良さ」-
著者名:
長島 明純
発行者:
誠信書房
発行年月:
1997年9月
問い合わせ先:
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電話 FAX 0143-24-2092