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発達臨床-人間関係の領野から-

NO.5

第2部 人間関係と発達臨床

第3章 「母子関係」の臨床

~母子関係の発達における触経験の意義~

1.「ふれあう」ということ

 早期療育がさけばれて、私たちが、子どもたちの乳児期から臨床的に関与する機会が増えてくるにつれて、人間の発達の早期についての関心が高まり、それとともに、どの専門分野においても、発達論的にも治療論的にも、発達の基盤的環境としての人間関係のありように対する深い理解と洞察が必要とされるようになってきた。
本章は、発達に遅れや障害をもつ子どもの療育の根拠を、神経科学(ニューロサイエンス)の知識に求める分野の臨床研究者グループ(日本感覚統合障害研究会)が組んだ、「体性感覚系の障害と治療」という特集に依頼され、心理発達論の立場から寄稿した論文(武藤、1988)に基づいて書かれたものであるので、他分野の体系を意識して強調されているところも多い。発達臨床は、異なる専門分野の人々と常に接しながら研究や実践をすすめていくことが多い。人間関係はどのような感覚的経験として始められるのか、それも触覚的経験にしぼってなどという発想自体ユニークのようにも思われるが、発達のごく早期に、外界の刺激に対して過敏あるいは無反応にみえる状態を見せて、治療のみならず育児を難しくしている子どもたちは実に多く、そのような状態に対し、どのように人、とりわけ親が接していったらよいのか、母子研究の安易で表面的な適用論ではなく、発達全体を見通しながら人間発達の臨床の理論的・実践的構築を行っていきたいということが、専門分野を超えた大きな課題となってきているのである。
子どもをとりまく人間関係の発達には多くの要因がからんでおり、それを解明していこうとするためには多様な研究方略が必要となる。現在の研究者や臨床者には、人間関係の発達の複雑さは十分認識されており、したがって、さまざまなアプローチが試みられてきたわけであるが、発達全体を説明しようとする包括的な理論と同様に、ある特定な側面よりそれらの理論を発展させるアプローチもその理解を深めるのに役立つのではないかと考えられてきた。そこで、ここでは、ある特定な側面、すなわち人間関係の発達のはじまりとしての「母子関係」に焦点をあてて、しかも「触経験」という、発達研究の中ではややひかえめで範囲の限定された側面からのアプローチを用いて、その発達臨床的な意義と今後の課題を探っていきたい。
はじめに、ここで用いる「触経験」という語の概念を明確にしておかなければならない。乳幼児期に、母子関係において経験される身体的接触(bodilycontact)は、日常言語では、触れる(touchi㎎)、愛撫する(handli㎎)、抱きしめる(holding)などのように表現されている皮膚の触覚機能と密接に関係のある経験の総称である。実際は、触覚の他に、視覚、聴覚など多様な感覚チャンネルを媒介としながらではあるが、そこでの触覚的経験を通して感じられる「接触の感覚」は、単に身体に備わっている感覚として経験されるだけではなく、「ふれあう」など情感的に経験される人間関係的意味あいが賦与されている感覚として、他とはきわだって区別されて用いられることが多い。
母子間の身体的接触については、通常、スキンシップ(skinship)という言葉で表現されることが多い。これは、1953年のWHO(世界保健機構)のセミナーで初めて登場し、わが国に紹介されたものであるが(関計夫、1987)、それ以前から、心理学他の諸分野において、その科学的根拠が定着してきているかのようにみなされがちである。しかし、触経験に焦点をあてて人間行動の発達に及ぼず影響をトータルに解明しようとした研究の種類は多くはない。したがって、本項では、人間の発達初期における母子間の触経験が、一般に理解されているものよりはるかに重要であるらしいということを示唆するこれまでの研究上の知見をピックアップして紹介していくことから始めようと思う。
なお、本文中の「母子関係」などにおける「母」という語は、「主たる養育者」あるいは「母性性」という意味で用いられることが多いことを付加しておく。なお、これについては、ラター(1987)などの論文を参照されたい。
また、「母子関係」の臨床の実際については、第5章において考察を深めていく。

2.乳幼児期の発達における触経験の役割

 まず、人間が発達の初期に出会うさまざまな経験の中で、触経験というある特定の経験が不可欠あるいは基本的なものなのか、もしそうだとしたら、それはどのような種類の経験を必要とするのか、さらにその経験が、その後の発達においてどのような意味をなすものなのか、という点について明らかにしていきたいと考える。

(1)「初期経験」としての触経験

 個体の発達にとって、特定の種類の経験が不可欠あるいは基本的なものであるか否かを確かめるために、比較行動学の分野では、主に動物を用いて、その経験にはたらく環境刺激を実験的に統制し、その影響を観察する方法がよく用いられてきた。そのひとつは、「刺激剥奪法」(stimulus deprivation)と呼ばれるものであり、動物の成育初期の環境から特定の刺激を取り除き、その影響を調べる方法であり、もうひとつは、反対に特定の刺激を加えて発達への影響をみる「刺激づけ法」(early stimulation)である。このような、発達の初期における「初期経験」(early experience)を問題にした実験のなかで、触経験の意義に関心をいだいた報告からいくつかの結果を見出すことができる。たとえば、動物の子どもを飼育するとき、手を触れたり馴らしたりすることが、生理学的にも情動性の面でも、そうでない場合と比較して大きな違いをつくることは飼育者たちの問に知られていることだが、実験室でもハツカネズミなどに「刺激づけ」としてハンドリング(handling)を行い、成長後の動物の情動性がいかに変化するかを観察するやり方などが多く用いられた。研究者たちは、“結果はなかなか一致したものは少ないが、大体いえるのは、ハンドリングは初期に与えられる方が情動性を低め、その発育を促進する効果をもつことである”と述べている(浅見千鶴子、1986)。
個体の発達の初期における触経験の役割の重要性を、「刺激剥奪怯」により最も明確にしたのは、有名なハーロウ(Harlow、H.F.、1971、1978)のサルの「隔離飼育」の実験であろう。初期の研究過程で、母親から離された生まれたばかりのアカゲザルの子どもが、床の布カバーやケージを覆っている布製のクッションに強い執着を示すことに気づき、この観察から一連の実験が始まったといわれている。すなわち、離された母親の代わりに2つの母親人形(布製と針金製)をつくって与え、どのような対象あるいは刺激が赤ん坊に愛着を生じさせるかを明らかにしようという実験である。ハーロウの一連の実験は、その成果として、サルの子どもには生後まもない時期にやわらかい肌ざわりに対する強い接触欲求があること、子の母への結びつき-愛着(attachment)の形成の要因は、生理的欲求を満たす授乳などの一次的要因によるというよりも、しがみつきによる接触経験などの二次的要因が重要な役割を果たしていることなどを明らかにした点にあるといわれでいる。
この研究結果は世界的な関心を呼び、人間の子どもの発達、特に母子関係の発達に関し、大きな示唆が与えられるところとなったといわれてきたが、次のような事実も注目されてきた。つまり、隔離される時期にも関係するが、実験のサルは、たとえ身体的健康については一定の水準を保つことはできても、成長後も母ザルといっしょに育った赤ん坊には全くみられない行動上の異常を示したり、あるいは群れに戻っても回復し難い社会的適応上の困難さが現われたということである。これらのことは何を意味するのか。発達における触経験という場合には、どのような他の経験との関係において際だつものなのかということにも波及して考えることができるのではないか。つまり、サルが示したさまざまな行動上の異常その他が引き起こされた原因は、第一に、触れるだけはなく、相手から触れられるという「触経験」の剥奪によるものであり、第二に母子分離による母性的養育の欠如という「養護経験」の剥奪、そして第三に、種の他の仲間と接触する経験をもたず、社会的環境から孤立するという「社会的経験」の剥奪という、諸経験のからみあう環境における初期経験の影響として考えられなければならない。最近は、さまざまな動物実験や動物観察をひきあいにして、身体や行動上の発達障害への対応のみならず、より健康な発達を促すために、子どもがいろいろな形で受ける初期経験としての触経験の重要性を指摘する研究も多くなってきた(モンタギュー Montagu.A、1980)。しかし、強調されなければならないのは、臨床方法に適用しようとする場合にも、それらの結果を短絡的に解釈し、ブラシやタオルなど物や無生物による感覚刺激を用いることによってのみ効果を間うことではなく、養護経験・社会的経験との脈絡における触経験として位置づけていくことの重要性であろう。そこで、次に、人から、特に特定の養育者としての母から受ける触経験の意味は何かということをより深く掘り下げて考えてみる必要がある。

(2)母子関係における身体接触の役割

 特定の人と人と間に形成される時間や空間を越えて持続する心理的結びつき、愛情のきずなを愛着と呼び、健康な発達に必要欠くべからざるものであるとの主張をして、比較行動学的見地からその慨念を明らかにしたのはボウルビィ(Bowlby J、1983)である。以来、さまざまな分野で母子研究が活発に行われてきたが、発達心理学の分野では、主として観察法により、母親に対する乳児の結びつきに関し、そこに働く身体接触の役割を検証する研究も過去には試みられてきた。しかし、小嶋謙四郎(1983)はそれらの研究結果を概観し、たとえばシャーファー(Schaffer.H.R)とエマーソン(Emerson.P.E)たちの実験的観察、あるいはエインズワース(Ainsworth.S.)の観察所見においては、乳児の愛着行動は母親との身体的接触を第一義的なものとしていないと述べ、さらにラインゴールドによる人間の sociabilityの基礎は、身体的な接触ではなくて視覚的な接触であるとの見解を引用しながら、その意義を確証できないとしている。
母子の愛着が生じるいろいろな事態のうち、対面的(face-to-face)事態が最近の研究の中心であり、多くの研究者が微量分析的研究により、視覚・聴覚などの遠受容器によって仲介される相互作用が特に重要であると判断する傾向は確かに優勢である。しかし、エインズワース(1983)は、密接な身体的接触による相互作用が無視される傾向にあるが、進化論的視点から、愛着形成にとって最も重要なものは、やはり身体的接触であるとして、次のように言及している。
“類人猿では、母子の身体的接触が、赤ん坊の生存にとって非常に重要であることは周知の事実である。ヒトの場合、狩猟・採集民族の社会では、西洋の社会に比べて母子の接触ははるかに多い。ブラートン・ジョーンズ(BlurtonJones.N)は、次のような証拠を提出している。それは、ヒトという種は、乳児を安全な場所に長い間ひとりで置いておき、食事を与える回数もそれほど頻繁でないという種として進化してきたのではない。むしろ、常に母親に伴われ、食事も頻繁に与えられる種として進化してきているというものである”
ブラートン・ジョーンズ(1987)自身の言葉を借りれば次のようである。
“頻繁な授乳と、親の後を追従させたり、子どもを抱える子育てシステムとの間の連合は、哺乳類においては栄養的には必要ないが、赤ん坊にとっておなかがすいたり満腹になったりすることが早いということは、赤ん坊が母親のそばにいることを確実にさせるための簡潔なメカニズムになるであろう”
ハーロウ(1978)は、この仮説を明らかにしようとして、赤毛ザルの乳児を使い、“適当な接触は与えられるが、そこにしがみつく可能性をなくすように”クロスを貼りっめ、傾斜した平面をセットした実験状況を構成し、そこで飼育した乳児のサルと、クロス・マザーで飼育されたサルを使った実験を試みているが、そこでは、接触と並んでしがみつきそれ自体も、また重要な要因であり、しかも年長の乳児によりその傾向のあることを明らかにしている。
ボウルビィ(1983)もまた、乳児の愛着的行動が強く活性化されるとき、特に要求されるのは身体的接触であると指摘している。さらに、単なる接触より新生児の把握反射を起源とするしがみつき(clinging)を伴う接触の行動が、泣き(crying)や微笑(smiling)などの信号機構と同様、母子の接近を維特するための信号機構として重要なものとなっているとしている。ただし、人間の乳児の場合は、身体的接触を維持するための抱きつきやしがみつきの能力は、他の霊長類に比して退化しているので、乳児の発するシグナルにより、成人の方も乳児に接近し、保護しようとする行動、特に、holding reactionがいっそう活発化するという相補作用を重要視している。
身体的接触を愛着形成にとって重要なものとしながらも、その本質を単にさすったり、愛撫したり、抱きしめたりの乳児と母親の身体の密接な触覚的接触の経験だとすることに反論する研究者は多い。
エインズワース(1983)は、“われわれの縦断的研究によれば、身体的接触による母子相互作用は、特に生後数か月においては、少なくとも対面的相互作用と同様に重要なものであることを示している。けれども、この研究結果でみる限り、身体的接触が愛着行動の発達過程に影響を与えるのは、いかに頻繁に母親が乳児と身体接触するかではなく、どのように乳児と身体接触するかである”とし、授乳形態を例にあげ、「欲求即応型」授乳にみられるような乳児のシグナルに対し敏感に反応するかどうかが重要であり、他の事態にも通じるこのような母子間における相互作用があるかどうかが、安定して愛着を発達させるか、不安を伴って愛着を形成させるかということに密接に関連していると述べている。
シャーファー(1980)は、“母親の刺激作用と赤ん坊の反応との一対一対応は全く存在しない”という見解をいくっかの研究結果より説明した。たとえば、母親の接触は敏活で非活動的な状態の赤ん坊では動きを生じるが、乳児が泣いているとそれを鎮静させる。乳児の「状態(State)」は刺激が乳児に対してもつ意味を変えてしまうので、重要なのは状態の読み取り’であるとともに、乳児の‘状態を調整する’刺激作用の適時性(timing)であると論じている。
乳児の発達における身体接触の役割に関しては、主として進化論的視点からその重要性が証明され、そして母子相互作用の観点からその質的な特色が検討されてきたにもかかわわらず、いまだ不確かで論争の多いところであるようだ(1973)。しかし、ボウルビィ(1983)が“多くの種類にわたる愛着行動の障害は、過小あるいは過剰な母性的愛護に原因するのではなく、子どもがそれまで受けてきたり、あるいはそのとき受けている母性的愛撫のパターンにみられるさまざまな歪みに原因すると考えられる”と結論づけているように、母子が接触している量の問題ではなく、その質が問われなければならないということは今や常識となってきている。それについては、本章の4.の項で述べる。

(3)乳幼児期の触経験の発達的意義

 乳幼児期における触経験が、その後の子どもの成長や発達に何らかの役割を果たしているとすれば、それはいかなるものであろうか。その発達的意義に関しては、これまでさまざまな角度から研究されてきた成果をふまえての仮説の域を出ないが、総括的に考察してみたい。
まず、生物学的見地から、知覚としての触経験の発達的意義をさぐれば、皮膚知覚があらゆる知覚の起源であるという前提から始まる。乳幼児の神経系の初期の発達は、乳幼児が受ける皮膚刺激の種類に大きく依存するという説もある。坂本龍生(1985)は、’個体発生的にみて、神経系と皮膚とが同じ起源をもっているということは、触刺激が広く神経系全体に少なからず影響を与え、神経系全体の体制化にとって重要であることを説明するものである”と述べている。
スピッツ(Spitz.R.A、1965)は、このような知覚の場に働く母親の役割について、精神分析学の立場から、母親は“すべての認識の媒介者であり、母親との相互作用により、自分の環境からまだ無意味な事物の無秩序な間から、だんだん意味に満たされたひとつの要素を分別することができるようになる”と意味づけている。そして、母親の胸・その両手・その指が乳児にいかに触世界体験をさせるかという例を次のように描写している。
“吸乳にあたって機能する口腔には、触・味・温・臭・痛などの感覚が存在し、また嘸下作用のうちに深い感受性も含まれている。主なる知覚は触知覚であり、それは後に視知覚に転換される。生後数週間における授乳に際して、まばたきもしないで母親の顔をみつめる現象は、乳児の感覚の成熟と発達の段階を示し、体内の一系統に属する刺激は、同じく他の体内の系統に反映する。それで、口腔の感受性は、触と視との融合したもので、全体的な状態知覚は、未分化な融合すなわち布置形態である。したがって、その場合の部分的経験も、全部的経験に関わるのである”
母子関係における触経験の発達的意義に関して総合的に考えていくと、次の三つの発達の道筋に大きく集約されて検討されることが多いようである。
第一は、認知的発達の道筋においてである。認知の発達に関し、発達の初期に「感覚運動期」を設定し、実践を介して対象に関わっていく過程を重視したのはピアジェ(Piaget.J)である。この実践の概念は、刺激-反応という生理学的図式の中で、手で触れたり身体の運動それ自体の役割を強調し、そのような機会やプログラムを与えること自体を重視することと解釈される場合もあるがそうではない。ピアジェのいう実践とは、経験の内化(外の世界を変えて自分自身の中に取り込む過程)・外化(自分自身を外の世界にあわせる過程)、すなわち同化・調節という言葉で説明されている循環反応の媒介行為を表わす概念であり、それによりもたらされる心的構造(シェマ)の変換過程が認知の発達のみちすじであると説明されている。たとえば次のようにである(波多野完治、1969)。
“子どもは生まれつきもっている構造(生得的反射の機構)で乳房に吸いつく。そうすると、甘い汁が出てくる。甘い汁-乳房というシェマが成立する。次には、このシェマが同化調節の主役をつとめることになる。赤ん坊は何にでも口をっける、それを吸う。しかしそのうちに、どんなものもすべて「甘い汁」を出すのではないことがわかってくる。乳房とそうでないものというふたつのシェマが成立する”
ピアジェは、触経験がその基盤にある乳児期の感覚的シェマの実践的性格を重視し、その発展上に高次の抽象的認知機構の獲得が導かれることを理論づけ、認知的発達における触経験の発達的意義に関し大きな示唆を与えた。ただし、知覚体験の場における母親の役割には直接触れていないが、シェマが形成・多様化していく過程においては、循環反応を発動させる興味や、その展開過程を調整する機能が相補的にあるということを強調している。ピアジェは‘あたりまえの環境において’ということを前提としており、いいかえれば、乳児の働きかけに対して適切に応答する環境としての母親の役割がピアジェ理論の大前提にあるということができるであろう。
触経験の発達的意義の第二は、情緒発達の道筋において検討されることが多い。この道筋においては、以前こは、触れることそれ自体で、その感覚的な要素が神経や分泌腺や筋肉や精神の変化を引き起こし、それらが組み合わされて快-不快の情緒体験を生じさせるのだという解釈が一般的であった。しかし、このような皮膚感受性の発達あるいは生理学的変化に随伴した感覚経験が、ストレートに情緒発達をうながすという考え方にはもちろん疑間がある。
ワロン(Wallon、H.1984)は、大脳生理学的事実との対応づけのうえに、情動について次のように理論づけている。人間の行動には相桔抗するふたつのサイクルがあり、ひとつは、外界の刺激を適確に定位してその刺激に直接反応していく適応行動であり、それに対し他のひとつは、外界の刺激や状況を感受して内部状況を写し、拡延・増幅して表現していく情動行動である。ガラガラを揺らすような適応行動は、外界の刺激状況に直接効果を生みだすが、痛みのような感覚経験は、外界の刺激状態に直接には効果をもたない。しかし、そこでの情動の表現は他者にまで伝播侵入して、この他者を介して外界に働きかけ、そこに適応的効果を生む。たとえば乳児は、痛みに対し泣くという情動表現によって、他者を介して間接的に外界に働きかける。このような情動の表現は、人間社会の中で、人間の感受性が相互に織り合わされてきた共同反応のひとつのシステムとして働いているので、情動は人と人との社会的関係・対人的コミュニケーションにおける共同性の基盤をなしていると説明されている。
情動の働きを内観的経験(感じること)と表出行動(訴えること)の二面性においてとらえるこの見方は、触経験が乳幼児の発達にどのような役割をもつかということに関して考える場合意義深いものがある。たとえば、私の臨床経験においても、母子関係など人間関係の発達に困難やトラブルをもつ子どもたちのなかには、血を流すような痛い目にあっても泣きもしないという、痛みに‘鈍感’な状態をみせる場合に遭遇することがよくある。ところが、臨床的、発達的に変化していく過程で、短期間の間に、人に甘えたり要求が増えてくるにつれて、痛みを感じるとき泣き声をあげてむしろ大げさに人に訴えるようになるケースが実に多い。これはむしろ、感覚機構の質的変化という側面だけで説明するよりは、対人的コミュニケーションにおける情動の表現を獲得し、共同反応のシステムに参与する態勢により導かれた結果と解釈するのが妥当であろう。私たちは、感覚的経験について、とかく内的、個的な次元において処理したり、評価していく傾向が多いが、むしろ外的、社会的次元との関係性において、それが発達にどのような相乗的効果をもちながらすすんでいくのかということに、もう少し注意をはらう必要がある。
第三は、コミュニケーション行動の発達の道筋における、触経験の発達的意義の検討である。乳児は、皮膚および自已受容器を通して、さまざまな質のメッセージを母親と交換する。乳児が母親の身体との接触から得た経験は、コミュニケーションについての最初の基本的な意味を形づくることになると言われている。赤ん坊が母と肌を接しているとき、あたかも自他の未分化な融合のみがあるようにみえるが、そこにはすでに皮膚を境界にして身体感覚による二極化、っまり働きかける主体性の極にある体験(能動の相)と、働きかけられる対象性の極にある体験(受動の相)の二重の相があるはずである。このような、‘触れる-触れられる’という同時的二重性は、やがてポンポンと自分が叩き相手が叩くという形で交互に叩くというような運動を介して継時的二重性へと誘われていく。日常の中でのさまざまな機会におけるこのような経験を通して、子どもは自已を認職し、同時に他者をも識別し、その先での対話の原型ともいうべきコミュニケーション行動の基盤を発達させていくと考えられている。
以上、発達の三つの道筋に即して、発達早期における触経験の意義について考えてきた。触感覚が他の感覚と際だって異なる点は、乳児が触れる対象と、対象に触れる乳児の身体がその際そこに同時に実在するということにあるのであろう。見たり聞いたりするのとは違って、触れることはそのものを自分の内側、自分の身体の内部に感じさせ、その‘近接’感が人と人との触れあい(外への関係性)を育てていくことになるのだろう。しかしながら一方、皮膚を境界とし対象から区別するどうしようもない‘隔たり’の感覚も同時に体験的に成立させ、それはかけがえのない自己像(内への関係性)を育てていくことにもなる。乳幼児期における触経験の意義を一言でいえば、まさにこの相桔抗する二面性(内化と外化、能動と受動、近さと隔たりなど)が統合的、構造的に変化していく過程における始源的状況(母子関係)に身を置く経験ということになるであろうか。

3.「近さ」と「隔たり」

 最初にもふれたが、私たちが発達早期における触経験に関心をもつのは、触れること(感覚的レベルから対人的ふれあいにいたるまで)に対して、直接的、間接的にさまざまな特異ともいえる反応を示す幅広い年齢層の子どもたちがいて、それが発達や成長における経験の幅を著しく狭めていることに気づかされることが多いため、その臨床像の理解を深め、治療的方策を探りたいということに他ならない。そこで、寸描的ではあるが、母子関係における触経験を基盤として、「ふれあい」の感覚が、その後の人間関係においてどのように変化、発達していくかについて役立つと思われる概念について簡単に触れておきたいと思う。

(1)発達と個人空間

 触覚を感覚の基盤とみなし、母に抱かれている乳児を‘偏てなく触れあう’と表現するのは、そこに、すでに人と人とが隔てられている状態の知覚が同時に働いているからであろう。私たちが人と関わるときに知覚される‘近さと隔たり’は、他者との関係において生まれる対他的な身体空間の所産、すなわち個人空間(personal space)と呼ばれ、‘対人的刺激に対する一種の防衛ゾーンの性質を担う一方、内部は感情的意味に満ちた領域’という言葉で定義されている(Schilder.P、1987、市川浩、1975)。この個人空間の概念は、自他境界の調節システムとして、人格やコミュニケーションにおける感情の伝達という観点から、さまざまな精神病理における臨床像の理解に役立っているが、このようなシステムにおける空間行動は、いつ、どのようにして発達していくかということについても関心がもたれてきた。
各文化に特有の空間行動の様式が存在するところから、それは生得的であるというよりは、さまざまな人間的・社会的経験を通して獲得されていくものであろうと一般に考えられている。そこで、発達初期の母子間における空間行動のありようを重視する理論も生まれた。精神病理学の立場で、ウィニコット(Winnicotto.D.W)は、個人個人は自然の流れに沿って成長していく空間を必要としており、特に乳児が母親を信頼することができるようになるまでの‘抱っこされる環境という境界によって与えられる空間’がどのように安定しているかの重要性を強調している(Davis.M、Wallbridge.D、1984)。マーラー(Marler.M.S、1984)は、乳児の母子間における共生的状態に分離-個体化の過程を設定し、個体化(心身機能の自律性の発展)と分離(母を見分けること、母から距離をとること、自分と母の間に境界を形づくること、母からの撤退)とは相互にからみあって発達し、‘母からの分離独立に失敗した’子どもの病理モデルを提起した。
発達心理学においても、‘人見知り’や’分離不安’の現象のみられる1歳前後、乳児の自由歩行の獲得と認知機能の著しい発達の時期に、乳児が、母親を物理的にも心理的にも安全基地としながら探索をする行動にみられるような、乳児と母親が相互に距離を調節しあい、‘練習’をくり返しつつ母子分化していく過程について、それ以前、あるいはそれ以後の母親への愛着行動の発達のありようを象徴するものとして重視されている。
比較行動学の立場から、ティンバーゲン(Tinbergen.E.A、1987)は、子どもにもみられる空間行動における人への接近一回避葛藤の原理を、情緒発達の障害の理解に役立てようと試みている。
個人空間の概念は、乳幼時期の母子間における身体的接触に象徴される触経験を、子どもの発達や状態に応じてどのように治療方法的に変化、発展させていくか、また、どのように治療環境や治療構造を整えていったらよいかということを考える際に参考となる視点を多く提供してくれる点で興味深い。

(2)接在共存状況における関係の顕在化

 乳児は、母子間において、触経験を始源的な感覚としながら、最も情緒的密度の濃い空間を共有し、相互に調節しあいなから、人間関係の原型としての自己・他者関係の認識を自己において発達させていく。自己において、関係の認識というものがどのようにして発達していくのかということは、現在、最も関心のもたれている研究テーマであろう。ここで注意しなければならないのは、まず自己認識がめばえ、後に他者認識がめばえるということ(一者関係的把握)ではなく、また自已意識と他者意識の両極が混在し、各々分離独立していくということ(二者関係的把握)でもない。関係の発達について、ワロンの理論では、自已・他者関係において外的行為として行われるやりとりを通して、自分自身の感受性の内部に他者性を認識していくと説明されている。また、スターン(Stern.D、1980)は、乳児の関係の認識の成立について、感覚運動的経験が、他者についての内的な表象を統合するのと同時に、外界では他者から自己を切り離していくという言葉で表現している。松村康平(1982)は、発達の過程において自己が他者(人・者)とかかわりあう状況そのものに視点を当てて、発達とは、諸関係(自已・人・物)と関わりなから在る状況(関係接在共存状況)が自己において統合的に顕在化していく過程であると概念化(三者関係的把握)している。
やや、もとのテーマから発展し過ぎている観もあるが、人間の発達の問題を考えていくとき、とりわけ眼前の子どもの行動を理解しようとするとき、隣接し、あるいは全体と部分をおりなすような理論や概念の相互の照らしあいを行いながら洞察を深めようとする姿勢も必要であると考える。

4.母子関係の臨床と触経験

 母子間における身体的接触それ自体とその欠如が、人間の子どもの身体的または心理的成長や発達に影響を与えるという直接的な証拠は多くはない。しかし、先に述べたように生育過程における触経験の欠如は、すなわち母性的養育経験および社会的経験の欠如に連環するがために、ホスピタリズムやマターナルディプリベーション(母親的存在の欠如)の問題を包摂しつつ、子どもの心身の発達に与える影響が深刻であることはかねてより警告されてきた。
そこで、ここでは、通常の母子相互作用における個性や独自性の問題も視野に入れつつ、母子関係における発達的危機と、そしてそれに対する適切な治療的介入について、触経験の視点から臨床課題を検討する。

(1)母子相互関係における個性的パターン

 子どもは、同一の刺激や経験には同じように反応しないことを示す研究は多い。また、母親の養育行動により、子どもの愛着行動の性質に差異が生じてくるという指摘も多い。しかし、子どもの発達に影響を与える要因を、子どもの側の気質(行動パターン)や母親の側の養育態度のいずれかの極に求めるという考え方はすでに支持されない。乳児期の経験は母子相互関係のパターンに依存し、その関係性は将来の関係性と連動性をもつことが注目されだしている。
いささか古典的なきらいはあるが、シャーファーとエマーソン(1964)は、18か月以上にわたる縦断的研究により、乳児が母親との密接な身体的接触をどのくらい求めるかという‘抱かれたがる程度’にきわだって安定した個人差があることを報告している。つまり、生後数週からその差はみられるのだが、すべての乳児が身体的接触を求めるわけではなく、相当の割合の乳児は、ある種のこのような接触に抵抗し抗議するのがみられた。しかし通常の場合、このような‘抱かれたがらない子’が、‘抱かれたがる子’に比べて母親への定位を欠いて成長するわけではなく、たとえば彼らが母親を安全基地にする場合、母親に抱きついて身体をくっつけるのではなくて、母親と視覚的な接触を保ったり、母親の後ろに顔を隠したりする方を選ぶという。観察によると、それぞれの母親は自分の子どもの独自性に合わせてかなり柔軟に対応し、お互いに適応しあうための‘適合の過程’(matching process)を生むが、母親に柔軟性かなさすぎたり、乳児の行動を拒絶だと解釈する場合に、子どもの発達への影響も起こりうることを示唆している。さらに、乳児の触感覚の個人差について、‘抱かれたがらない子’が本質的に嫌がるのは接触そのものではなくて、むしろ抱き上げられてびったり抱かれることによる‘拘束’も関係していると述べている。
エインズワース(1983)は、1歳児の愛着行動の発達を評価する方法として、ストレンジ・シチュエーション(Strange situation)という今や一般化した方法を用い、母親との分離後の再会事態での母子関係に注目した。その結果を3つのバターン(A・B・C)に分類し、密接な身体接触による相互作用に関して、他の2群に対してきわだった特徴をもつA群のパターンについて次のように報告している。
“A群の乳児たちは、他の2群の乳児たちに比べて、母親の腕に抱かれている状態に対してポジティブに反応することが少ない。しかしそうかといって、下に置かれている状態を好むわけでもなく、その状態でもよりネガティブにふるまった”
さらに、A群の母親たちが、子どもとの身体的接触に、より拒否的である傾向について触れ、母親との接触を回避する乳児と、子どもを拒否する母親との相互作用のダイナミクスについて理論的な考察を行っている。すなわち、そこでは乳児の愛着行動が強く活性化したときに経験する接近一回避葛藤が強調されていて、乳児が母親との密接な身体的接触を求めたとき、母親の拒否にしばしば出会う。その時のA群の乳児たちの反応を解釈すれば、このような葛藤事態を避けながら、しかも母親との距離を自分が耐えられる範囲内に維持しておく方法として起こる防衛的な戦略とみなすことができると指摘している。
これまで述べてきたような種々の母子相互作用と愛着行動の質的な差異にする研究は、著しく変化しつつある現代の乳幼児の発達環境において発生しているさまざまな子どもの、あるいは親子間の問題に柔軟的に対応するために、乳幼児精神衛生上有用な手がかりを与えているものと考えられる。

(2)母子関係の発達的危機とその治療

 母子相互作用における個性的パターンが、臨床上の重大な課題となるような発達的危機と、経過において結びつくということはたぶん稀であるに違いない。しかし、発達早期の母子相互作用に着目する方法で、たとえば、中枢神経系統の発達障害をもつ乳児を早期発見し、その子ども特有の刺激-応答性のパターンに適したかかわりを工夫して見つけ出すことで発達促進の援助に役立てていこうという試みも報告されるようになってきた(渡辺久子、1987)。発見のことはさておいても、さまざまな障害をもつ子どもの母子関係の発達は、多くの困難な条件を抱えつつ進まざるをえないことは事実である。もちろん、身体的接触のみをその方法に限りはしないが、母子関係の治療やその発達援助を目的にした、あるいはそれを基盤においた積極的かつ系統的な働きかけのプログラムが広範囲に普及しつつある。
たとえば、新生児集中治療室における未熟児などへの最早期の介入は、その成果が近年、特に注目されてきた領城である。早期接触(early contact)グループと晩期接触(late contact)グループの比較研究(Macedo.A.N、1985)、与えられる刺激の種類に関する研究(Klaus.M.H ほか、1981)などにより、母親や両親が早期からの接触、とりわけ触刺激を活用した様式での働きかけをもつことが子どもの体重を増加させることの他に、母親のその後の養育の仕方において良好であるなど、臨床的な効果を示す多くの観察が報告されている。
また、乳児に重い障害状況を疑わせるような徴候があったり、母親に精神的な葛藤があり、困難な育児過程が予想される場合、子どもの誕生のかなり早い時期から、母子関係の望ましい発達を十分に視野に入れた治療プログラムが組まれることは、いまや療育や発達臨床の分野では基本であり、その成果は確認されているところである。母親や家族へのサポートは、単に子どもの治療の協力者という位置づけから、母子関係あるいは家族関係そのものの相互性や力動性を対象とするという認識にまできており、専門的にレベルの高い知識と方法が求められるようになってきている。
母子関係を対象とする治療様式に一定のパターンはない。ただし、専門スタッフの意図的な介在が母親に新しい不安を生むことのないよう、「病理モデル」としてではなく、「発達モデル」の視点からの援助の姿勢が必要であることはいうまでもない。

(3)治療技法と触経験

 触経験を治療技法に組み入れて臨床的に活用する理論と実践も多く報告されるようになった。乳幼児期における母子相互作用の臨床応用に関する研究(小林ほか 1983)、発達障害の子どもが示す臨床像と触覚経験の違いに焦点をあてた治療過程の報告(ショブラーSchop1er.E、1962)、触覚系への働きかけを重視する感覚統合療法における研究(エアーズAyres.A.J ほか、1978、1980)、情緒発達のための有効手段として身体接触を用いる抱っこ法における研究(アラン Allan.J ほか、1984、1986)など、各々の理論仮説に基づいて臨床適用の範囲も異なるように思えるが、今後の母子関係を含む人間関係的基盤に立つ実践科学としての臨床と研究における統合的発展が期待される。


主題(副題):発達臨床-人間関係の領野から-
第1部 第3章 47頁~66頁