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発達臨床-人間関係の領野から-

NO.8

第3部 発達臨床の実際

第6章 子どもの臨床心理劇

 子どもの遊びを見ていると、それぞれの子どもが、精一杯のイメージをふくらませながら心の世界を表現し、今ある世界を確かめ、そして、新しい世界を創っていることを感じさせられる。ボールをお茶わんに何回も何回も出し入れする動作や、お母さんのつもりでクマの人形を叱っている口調にも、その子どもがどこかで経験してきた物や人とのやりとりを、しっかりと自分のなかに貯えながら、表現しているように思われる。このような、その子どもに独自なイメージの世界は、発達の過程で、どのようなプロセスを通して人と共有され、現実の世界と重ね合わされながら、ひとりの人間の発達として、変化・発展していくのであろうか。
この章では、心理劇的な方法を用いて、子どもの自発的なイメージの世界を共有しながら、人との具体的なやりとり体験を通してすすめられる発達臨床の諸技法について、事例をもとに紹介していく。

1.発達臨床における心理劇

(1)心理劇の誕生と発展

 心理劇(サイコドラマ、Psychodrama)とは、“自発性に基づく演劇的な表現”であり、“行為の技法”である(ロイツ Leutz、1989)。心理劇は、1889年にブカレストに生まれたモレノ(Moreno、1964)によって創始された。モレノは、幼年時代に近所の子どもたちと椅子を高く積み上げ、神と天使の役割をとり合って遊んだ神様ごっこの体験や、青年時代、ウィーン大学の学生の頃、公園で子どもたちとグルーブをつくって即興的なプレイを試みた体験、そして、新聞のニュースを題材にして、即興的に演ずる即興劇場・自発性劇場での治療的な劇の体験などを生かして、心理劇の発想を組み立てている。
また、モレノは、精神医学における言語的方法を用いた、患者の過去の経験を重視して行われる精神分析の「閉じられた」個人療法を超え、言語を含む、患者の‘いま・ここで’の行為を主体とする「開かれた」集団療法を展開し、アメリカに移り住んで、心理劇・ソシオメトリー・集団精神療法の基本構想を創り、展開した。
日本には、1950年代に、松村康平、外林大作、石井哲夫らによって紹介され、臨床・教育・矯正・看護・医療関係・産業などの分野で、独自な日本での心理劇がそれぞれの地域や立場の独自性のもとに各地で発展しており、教育・訓練・評価・治療に、また、人間関係・人格の研究に活用され、今日に至っている(関係学研究、1973~1992、ほか)。
子どもの活動に心理劇の原理を取り入れて独自に展開しているものとしては、児童集団研究会の活動がある(黒田淑子、1988、1989)。
発達臨床の分野では、関係学を基礎理論とする心理劇的なアプローチが体系化され、主として、幼児の療育活動などのなかで、早くから展開・発展してきた(武藤安子ほか、1979)。武藤(1984)は“心理劇では、現実の制約(役割の概念および空間構成)を超えた自由な関係状況が設定され、自己の内的世界を、役割行為という行動圏によって描き出し、心理的空間を自発的、創造的に構成していくことで、関係の担い手としての主体的な人格形成がめざされることにその特色があると考えられる”としている。今、この場で出会っている子どもの自発的なかかわり方を大切にし、生かしながら、臨床者とともに行為を通して、新しく関係を創りながら展開していく。そこでは、触れ合うことやからだの動き、また、人との近さなど、具体的な人との体験を通して心の内面を表出し、新しい体験を自発的に創造することが可能となる。臨床心理劇は、子どもと臨床者の対人関係的、相互媒介的かかわりを重視した、対人関係の心理療法として位置づけられる。
筆者は、学生時代、人間理解の方法としての心理劇に出会い(日本心理劇協会)、発達臨床の実践研修(お茶の水女子大学児童学科、臨床基礎実習)を受けながら、さりげない展開の中に臨床技法としての心理劇の原理がこまやかに位置づいていることを目の当たりにして、その奥深さにふれ、今日まで実践研究を続けている。さりげなく見えた技法の展開が容易ではないことに樗然とした時期もあったが、アメリカでの研修体験(三浦、1987)や、福岡市の障害福祉センターでの青年グルーブ、そして、愛知県精神衛生センターでのデイ・ケアの活動におけるグループセッションの機会など、不思議に行くさきざきで心理劇と出会いながら、自分のルーツともいえる研修体験を思い起し、そのグローバルな連体感に勇気づけられてきた。発達臨床という領域で‘仕事’をするようになってようやく十年余りであるが、主として筆者個人の臨床経験に基づいた子どもの臨床心理劇の魅力を紹介するつもりで、以下述べていく。

(2)心理劇の五つの基礎的な要件

 次にあげるものは、心理劇を展開する際の五つの基礎的な要件であるが、ここでは、子どもの臨床心理劇のオリエンテーション的な意味で簡単に紹介する(詳しくは、松村、1961、Blatner、1987、ほか)。

 主演者(The protagonist)
監督(The director)
補助自我(The auxiliary ego)
観客(The audience)
舞台(The stage)

 はじめて相談の場を訪れた母子がいる。少し目が合うという出会いがあったのち、母は、担当の臨床者[監督]と部屋の一角で話を始めながら子どもを見守っている[観客]。部屋の中は、そのときから[舞台]である。5歳すぎの子ども[主演者]は、トコトコと部屋の中を歩いてみている。子ども担当の臨床者は、子どもが自発的に歩いて描いた軌跡をたどるように、子どもの目に身を置くように、トコトコと歩きながら、子どもの目に移った部屋の世界を思い浮べてみる[補助自我]。いろいろな展開の可能性を秘めた、心理劇のはじまりである。
[主演者]とは、心理劇の行演の主体である人をさす。どのようにふるまっても、その人独自に、その人自身の生活の状況を描きながらふるまったときにこう呼ぶ。臨床場面では、子どもやその母など、相談者(クライエント)自身である場合が多い。
[監督]は、主演者を導く人、つまり。心理劇の諸技法を活用して、主演者自身が自分のもつ課題を探求することを援助するために、導く人のことである。たとえば、具体的な場面を設定したり、参加者に役割を付与したり、その役割の交代をさそったりする。臨床場面では、主として臨床者が監督的にふるまって発達課題の方向性を明らかにしたり、段階的な体験を構成するなどの役割をとっている。
[補助自我]とは、分身的な役割をとる人のことである。主演者のそばにいて、その人の自発的な活動や内面の感情の表出の明確化をさそう役割をとる。あるいは監督の補助者として、方向性を受けながら、内容を明らかにしたり、豊かにする役割などをとっている。場面がより明確になるような物の役割をとることもある。臨床場面では、たとえば、子どもの気持ちを代弁したり、子どもの動きを目立たせて自己に気づきやすくするなど、いくつかの特別な技法がある(詳しくは、後に述べる)。
[観客]は、その心理劇の場面に参加している、そのほかの人たちをさす。一般的な意味での演劇の観客とは異なり、今、ここで、そのグループを主演者とともにつくっているメンバーである。その場に共に参加しながら、積極的な役割をとって、主演者の感情を探求したりする。同時に、自己の課題を、そこで展開する場面と重ねながら、自己にまつわる気づきや感じ方がさそわれることもある。場面の展開をやや外側からかかわりながら見ること(参加観察)が可能なため、主演者の感情を新しい側面からひろげてとらえることができ、場面の展開ののちに、観客の感想をグループ全体で共有することで、主演者や他のメンバーに新たな発見がなされたり、話し合いで理解を深めあう場面が監督によって設定されることもある。臨床場面では、子どもにとっては、まず、人が振る舞うことを見るという観客的役割をとることで、自己の表出が無理なくさそわれやすい。直接的な人とのかかわりに緊張感をもつ子どもの場合、人の行為をよく見るということ自体がなされにくいことがあるが、このような場合にも、「観客的役割」という概念を臨床者の側がもっていると、チラチラ見るという行為をも人との接点として受けとめながら、無理のない関係のつなぎ方が可能となりやすい。また、臨床者にとっては、導入期など、子ども自身の主体的な活動を見守りながら展開の可能性を探す段階などに有効であり、また、臨床者としての養成のプロセスでは、欠かせない体験であると考えられる。
[舞台]とは、そこで心理劇が行われる領域のことである。心理劇の舞台の元型は、3つの高さの台、照明装置、そして、バルコニーがあり、勾配関係や空間が生かされて、行為が促進されるように設定されていたが、人と人とが出会う場であれぱ、どこにでも心理劇の舞台を成立させることができる。臨床場面では、そこはプレイルームの一角かもしれないし、相談室の机を挟んだ領域であることもある。また、相談を約束した一区切りの時間も舞台であり、時間と空間とを規定して共有し、子どもの内的世界を表出し、創造する場面の設定そのものが舞台としてとらえられる。
実際の臨床場面では、母子がそれぞれの担当の臨床者との相談を、同室で展開する場合と、別室で展開する場合とがあり、また、1組の母子に1人の臨床者が担当する場合もある。実際の人数というよりは役割の機能としてとらえ、先にあげた要件のうち、監督、補助自我、そして観客については、刻々と変化する子どもとの関係の中で、臨床者自身が柔軟に、その機能を取り分けながらすすめていることが多い。

(3)心理劇の基本的な技法

 ここでは、子どもとの臨床場面で活用されやすい、いくつかの基本的な技法をとりあげ、述べていく。
1)補助自我の技法
先にあげたように、分身的役割をとる人を補助自我とよび、臨床法には欠かせない技法である。特に、次にあげるような三つの視点を成立させて、役割のとり方を整理しておくと手がかりが得られやすい。
[ダブル(「自己」的分身)]これは、ひとりの人の中にある、もうひとりの自分の役割をとることである。自己の内的感情をより明確に表現するように援助するが、特に重要な役割のとり方なので、次項でさらに詳しく説明する。
[重要な他人(「人」的分身)]これは、ひとりの人の心の世界(心理的体験)と関係しているすべての人々のうちの、だれかの役割をとることである。それは現実の人であるかもしれないが、現実にはもう会うことができない人や、空想上の人である場合もある。たとえば、亡くなったお母さん・幼い頃の友人・まだ生まれていない妹など、過去・現在、そして、未来の大切な人すべてがなりうる。
[生命のない物でその人とかかわりのある物(「物」的分身)]たとえば、その子どもにとって大切な短くなった鉛筆やなくしたハンカチ、教室の中の自分の椅子など。また、心の中の規範や人との約束もこれに属する。心理劇の中での物は、言葉が話せ、物としての気持ちをつぶやいたり、話しかけてくることもできる。たとえば、忘れられた鉛筆が、「ひとりぼっちでここにいるのは寂しいなー」とつぶやくなど。
また、心の世界を描きだす、状況の補助自我もある。たとえば、場面が明確になるように、入り口の門になる、嵐の風になるなどがこれにあたる。
この技法の効果としては、補助自我の役割がいることで、子どもが多様な役割をとってふるまうことができることがあげられる。分身的にふるまう他者を通して、また、他者がいることで、自己が相対的に明確になって、自己についての気づきや感じる心が育つような行為が促進されうる。

2)ミラーとダブルの技法
ミラーとダブルの技法は、ともに、ある人の言葉や動き、表情やため息なども含めて、もうひとりの人が、できる限りなぞるという点に共通性がある。たとえば、手を振ったら振り、足をあげたらあげるなどである。ただし、正確にそのとおりである必要はない。
その効果としては、ふるまう側にとっては、自己の行為が明確にされ、なにげなく振る舞っている自己に気づきやすくなること、なぞられて、支えられ、受け入れられる体験が育つこと、他者との共有領域が成立することなどがあげられる。ミラーやダブルの役割をとる側にとっては、他者の言葉や動きをなぞりながら、自己とは違う新しい体験がされること、人の存在を意識してとらえること、また行為をなぞることで、その人の気持ちに近づく手がかりが得られることなどがあげられる。
[ミラー]は、文字どおり鏡のように子どもと臨床者が向かい合って、一方が一方の動きをなぞる。このときは、動作を目立たせ、言葉を使わずに行うことが多い。対面している緊張感が感じられるときもあるかもしれないが、他者を視覚的にとらえながら、ゆっくりとなぞることで、自発的な行為が不得手な子どもにとっても動きがさそわれやすい。たとえぱ、「家では無気力で」と母が訴える小学生の少年は、臨床者のミラーの役割をとった後、役割を交代すると、臨床者が自分の細かな手つきをもしっかりとまねているかを確かめるかのように、チラチラと見ながら、日常生活を超えた動きをしてみている。「この場では、別人のよう」と母は感じているようだったが、少年にとっては、臨床者の行為を媒介としながら、自己の動きの軌跡を、さらには、自己そのものを確かめているかのように、臨床者には感じられた。
[ダブル]は、先にあげた補助自我の技法のひとつで、子どもの「自己」の分身の役割を演じるものである。子どもの斜め後ろに位置し(子どもが立っていたら立ち、座っていたら座って)、言葉を含めて、できる限りなぞる。これは、人との対面に緊張が感じられる子どもとの場合にも展開しやすい。また、ダブルの役割をとりながら、気持ちを近づけて、その子どもの少し先の気持ちを添えてつぶやいてみる方法もある。(日本心理劇協会では、[トリプル]と命名している)。たとえば、子どもがじっと見ていたら、気持ちを近づけながら、「何かなー」「さわってみたいけど少しふしぎだな」と、つぶやいてみるなどである。子どもの気持ちの意識化がさそわれて、感情表出や自発的な行為をさそう手がかりとなる。
これらの技法は、臨床者にとっても、子どもの心に近づきながら、関係を展開する可能性をさまざまにひろげている。研修として、2人組になって、役割を交代しながら演習を積み重ねられるとよい。

3)役割交代の技法
心理劇の中では、さまざまな役割が展開しているが、役割交代の技法は、子どもをさそって、子ども自身が、他の人あるいは物の場所に自己を置くようにすることである。そのことで、関係の見え方が変わったり、新しい感じ方がさそわれたりする。この体験は、自己と他者の双方の感情や在り方を受け入れようとする心を育てることに効果がある。
たとえば、ある少女が、お父さんに遠慮して、いつも言いたいことが言えないという。臨床者は椅子を用意し、椅子の上にお父さんを成立させて話しかける場面を設定すると、少女は椅子に向かって「昨日は、もっと早く迎えに来てほしかったのに……」「ずっと、待っていて……」と言う。そこで、臨床者は、少女と父の役割の交代をさそい、少女が椅子に座る。さらに、臨床者は、少女のダブルの役割をとりながら少女の心の中にある父の気持ちを語る。「ごめんね。お父さんももっと早く行こうと思ったんだけど、道が混んでいてねー。きっと、待っているだろうと、車から降りて、走り出したいくらいだったよ」。臨床者は、また、役割交代をさそって、少女は、からの椅子を黙って見つめている。「うん、もういい」と言うと、父の優しい面などを、臨床者に話し始める。
少女にとっては、自分の心のなかにある満たされなかったような感惰を表現し、父の思いに身を置いてみることで、自分の気持ちを押込めてしまわずに過去の出来事から自由になりながら父の在り方を受け入れようとしているように、臨床者には感じられた(三浦、1992)。

4)ローリングの技法
この技法は、共通の物を使って、何かに見立てて人に手渡しながら、人とのつながり、グループづくりをねらいとする技法である。2人あるいは3人以上で丸くなって展開する。よく使われる物は鉛筆で、第一段階は「この鉛筆を回してみましょう」と、言葉を使わずに隣の人に手渡していく。第二段階では「少し、早く回しましょう」と、さっきよりは速く回していく。第三段階では「これを、何か別の物に見立てて、隣の人に渡してみましょう」。「つめたいアイスクリームです」「おもーい石です」などと渡していくと、受け取る側も、おいしそうな表情や重そうな動作になるなど、人とのつながりがはっきりし、相手との関係で自分の発想が豊かになっていく。
また、柔らかい想像のイメージがひろがるウォーミングアップとしての効果もみられる。たとえば、ある少年は、見立てる物がなかなか見つからずにいたが、鉛筆を使って「似た形の物にして渡しましょう」という言葉がけで、「スパゲティーを食べるフォークです」という前の人の言葉を受けて、「ラーメンを食べるおはしです」と、人の活動を手がかりにしながらイメージを膨らませ、創造性が発揮されていった。
その他の技法については、事例のなかで紹介する。

(4)子どもの臨床心理劇の適用

 次に、筆者自身の経験のなかから、子どもとの臨床心理劇の展開にあたっての、いくつかの留意点をあげていく。

1)どのような子どもの発達課題に向いているのか ~人との関係が育つように~
ブラットナー(1987)は、その著書の中で、“注意しておきたいこと”として、次のように言っている。少し長くなるが、大切な示唆を含んでいると思われるので、引用しておきたい。“サイコドラマは、決して万能ではない:ただひとつのどのようなロマン化もそれは危険である、これは、そのアプローチの限界と他の方法の価値について盲目にするからだ。サイコドラマの諸技法は、非常に強力である、そしてそれは、実践者がその技能を、謙虚さと、委された責任をもって、発展させるのにふさわしい。治療者あるいはグループリーダーが、援助されて築かなければならないのは、諸技法の広範囲にわたる備えと、それらを活用できる能力の深さである、単なる技法だけでは十分ではない。創造性と感受性をもって、実践者は、クライエントの生活の心理学的諸次元を知り、共に働くことを学ばねばならない”
筆者自身も、研修のプロセスで、子どもが先にいるのであって、療法や技法が先にあるのではないこと、そして、常に新しく有効な方法論については敏感にそして謙虚にその動向を把握しながら、自己の臨床活動の質の向上につながるような知見として沈殿させておくことの大切さを、スーパーバイザーから学んできた。
そのような前提を心に留めながら、筆者としては、基本的には、心理劇は、どの子どもとも展開が可能であると考えるが、主として、人間関係に課題をもつ子どもたちを対象に展開してきている。ストレートな言葉によるコミュニケーションがとりにくい子どもたちにとって、いかに無理なく人との共通基盤が成立しやすくなるか、その子どもの内にもつ力が発揮されやすくなるか、そのような場面を用意しようとするとき、心理劇の発想や技法がさまざまな手がかりを示してくれるように思う。
もう少し具体的にいうならば、次のような「医学的診断」にいわれる行動様式が‘問題’(発達課題)とされる場合である。つまり、空想と現実の世界が交錯しているような「分裂傾向」、「境界例」などのパーソナリティーに関する発達課題
人間関係に緊張が強いことが主要因となるような「不登園・不登校」、「選択性の場面絨黙」、「吃音」などの情緒面の発達課題
人との関係のとりにくさや人間関係のルールの理解が課題とされるような「自閉性障害」、「学習障害」などのいわゆる発達障害にいわれる発達課題などである。
主訴は、母などの子どもをとりまく大人によることが多く、必ずしも医学的な診断名が確定された子どもを対象としているわけではない。
また、年齢的には、幼児期から学童期、そして青年期まで、それぞれに展開することが可能であると考えているが、単なる年齢的な区分とは異なる認知的理解の仕方、表象的活動の活発さ、そして対人的やりとりに関する選好性などについて、それぞれの子どもの状態を見極めながら形態を選択していくことで、展開の可能性がひろがるであろう。
たとえば、子どもと臨床者という一対一(個別)の設定は、人が複数いることが緊張につながるような幼児や自室に居続けることを選んでいる不登校の少年と展開しやすかった。また、1人の子どもに対して役割の分化した2人の臨床者(監督的、補助自我的)という設定では、自己を分身的に支える人を媒介に、人と相対しながら、自他の役割が分化していくことが課題となる小学生の男児と展開した。ここに、母が参加した時は、家庭とは異なる子どものふるまい方が母によって発見された様子で、日常場面での新しい関係づくりのきっかけとなった。さらに、グループによる設定では、年長の「自閉性障害」の子どもたちの余暇活動として展開し、ウォーミングアッブの技法を新しく替えながら感じる心や人とのつながりが促進され、参加スタッフの貴重な研修の場ともなった。見知った同士のグループでは、特に、思春期の少年たちなどにとっては照れくささが先立って、ふるまいにくい場合もあり、個別の設定が向いているかもしれない。
まとめると、対象としては、なんらかの人間関係の課題をもち、そこに具体的な人との空間体験やイメージの共有体験などが介在することで、発達や関係の変化が促されることが期待される場合に向いていると考えられる。その際、その子どもの発達の課題、日常の人との関係のもち方、そして生活年齢などの全体的な関係を見通して、その形態を選択することが大切であるといえよう。

2)いつ、どのように心理劇を導入するのか ~子どもに応じて柔軟に~
子どもとの心理劇は、その導入にあたって、大人との心理劇のように、必ずしも意識的に構造化して用いられる必要はない。たとえば、一回の面接のはじめの部分で展開してもよいし、途中で取り入れてもよい。また、面接中全体が、心理劇的に展開することもある。大切なことは、心理劇の技法が先に用意されているのではなく、その日・その時に出会った子どもの自発的な活動に応じて(拾いながら、意味づけながら)、関係が発展するような技法を用いて、場面を設定することである。
たとえば、6歳になるある男児は、面接室に入ると、まず、会わない間に起きた‘気になる出来事’を‘取り返す’かのようなひとこまを経て、‘今日の遊び’に入ることが多い。この日は面接室に入るとすぐ小さな机に向かい、「ボクねー、あのねー、ジュースでガラガラピーってうがいしちゃったんですよ。そしたら、ママがコラーって、ゴツンって、おそと行ってなさい!って。もう、ジュースあげませんって言われちゃったんですよ。」少し困ったような、情けないような表情で臨床者を見ている。臨床者は、「お話は達者なのに、なかなか人のなかのルールがわからなくて……つい、親の方がカーっとなってしまって……」とよく話している母の顔を思い浮べながら、「おやつですよー」と、ジュースのコップを持った手つきをする。すると、この子どもは、「はーい」とうれしそうにコップを持つ手つきをしている。「今日のジュースは、甘くておいしいよ」と臨床者が言うと、「わー、おいしそー」と言いながら、「ガラガラピー」とやっている。臨床者は、「ガラガラピー」とうがいの動作をした後、おおげさに「あれー」と頭をかいてみる。子どもは真似るように、「あれー」と言いながら、いっそう大げさな動作で頭をかいている。「歯磨きじゃなかったねー」と臨床者が笑ってみせると、子どもも照れくさそうに笑っている。「はい、もういっぱい」とジュースを手渡すと、「ジュースは、ゴックン!」と元気に飲み、「ジュースは、ゴックン! 甘くておいしいねー」と、ふたりで笑うと、立ち上がって、戸棚の中のおもちゃをさがしはじめた。

3)どのような方向性をもって展開していくのか ~発違の道筋を心に留め、日常生活とつながりながら~
大きな見通しとしては、第3部でも述べられているような、人間の発達(自己・人・物の接在共存状況の志向過程)の方向性を心に留めておくと、課題が発見しやすいと思われる。ただし、筆者の体験からは、子どもの、今・ここでの気持ちを受けとめながら、そこに臨床者自身が‘のって’、無理なく人との関係をつないでいるうちに、振り返ると、発達の道筋に対応していたという経験が多い。
経過のなかでは、子ども自身が観客的役割を十分にとりながら、少しずつ自己の表出が活発になるように、そのプロセスに臨床者がじっくりつきあっていけると、不思議なほどに子どもの側から、ふっと主体的な行為がもたげてくる。その際に、子どもの想像力や遊びなどの発達に関する理論と対応させながらとらえておくと、理解が深められやすい。たとえば、ごっこ遊びの素材が、運動・物・言葉・社会的材料、そしてルールヘと発達的に変化することなどがそれにあたる(ガーブェイ、1980)。
また、心理劇の場面が子どもの日常生活と近いと、子どもの主体的な活動をさそいやすい。その理由は、ひとつには、子ども自身にとって身近な行為であるからかもしれない。さらには、心理劇での体験が、生活縮図的な行為や対人的・社会的なルールに触れることで、そのことが自信となって、その先の日常生活場面で、より自発的なかかわりをさそうことにつながるからであろう。臨床者が子どもの日常に詳しい、家族や教師等、関係する人たちとの連携を心がけたり、情報に触れる機会をもったりすることで、心理劇がさらに豊かになり、子どもの発達の援助につながることが期待される。

4)どのような関係の通路を用意するのか ~コミュニケーションの通路を幅広く~
心理劇におけるコミュニケーションの通路はバラエティに富んでいる。言葉をかわさなくとも、視線が合う・触れる・声を出す、そしてあるときは同じ場にいる(空気を共有する)ということでも、子どもと臨床者とのコミュニケーションととらえることができる。大人との心理劇のように、ふるまった後でその感想や発見を言葉で伝え合うということがむずかしい場合でも、今の気持ちをポーズで表現したり、どんなふうに友達と立っていたか、絵に描いてみたりすることで体験を共有しあえることもある(武藤ほか、1989)。臨床者の側の創造的な発想が子どもとのコミュニケーションを豊かにすることを心に止めておきたい。

5)どのようにしめくくるか ~劇と日常の区切りを明確に~
心理劇は、子どもの心の世界を臨床者が共有しながら展開する。それは、あるときは空想や想像の世界であることもあるが、子どもにとってはひとつの現実の世界である。面接を積み重ねるうちに、臨床者との自由な想像の世界を期待している子どももいる。しかし、ここで大切なことは、その子どもと臨床者の共有した世界は、面接の一回ごとに終結しながら、次に出会ったときに、また新しく展開するものとして、子どもにとらえられていることである。心の世界が自己との関係で混沌とひろがるのではなく、人との関係のなかで、開かれて展開することに意義があるからである。
「今日の不思議な国の劇は、これでおしまいね」「もとのあなたと私にもどって、話のつづきね」などと、区切りを明確にすることが大切である。

主題(副題):発達臨床-人間関係の領野から-



第3部 第6章 1 107頁~122頁