音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

ことば・コミュニケーション~子どものことばの発達~

愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所
西村辨作

項目 内容
講演年月 1996年11月(社会福祉法人 あさみどりの会(名古屋市)にて)

みなさんのお子さんは言葉の発達に遅れをもっていると思います。

  • どうしたらよいか知りたい、
  • 働きかけをしているのに伸びないのはどうしてだろうか、
  • そこを何とかするのに何かいい方法はないか、

という思いを持っておられると思います。だから今日は何が大切かということをお話しします。

たくさんの時間をいただきましたので、記念講演で質疑し合うというのは少し変則な形ですが、前半を講演とし話題提供します。後半を質問の時間に割り振ります。

言葉は毎日の生活をしていくうえで、また将来社会に適応していくうえで大切なものです。ことばには4つの大きな働きがあります。伝える機能、自分の行動を調整する機能、人との関係を保つ機能、鑑賞する機能です。

言葉を話したり理解したりすることはかなり高等な技能で、すぐさま効果が出るというものでもありません。長い時間かけてしっかりと土壌をつくっていく必要があります。子どもが言葉の技能を身につけていく原動力は、親と子、先生と子どもの毎日の関わりの中にあります。特に親という鏡をとおして子どもは言葉、コミュニケーションとはこんなものだという感じを掴んでいきます。そして子ども自身が身体で、自分がだれかにとって「かけがえのない存在であり、価値があり、尊重されており、愛されている」ことを知ることができれば、つまり大切にされているということを感じることができれば、子どもは成長していきます。

私の今日の話は次の三つの重要なことがらで組み立てました。

  • コミュニケーションとはどういうものかということ、
  • お母さんの気持ちの問題、
  • 働きかけをやめない、やり取りの経験を積み重ねることの大切さ

です。

専門家はヒントを与えてくれたり、迷ったときに相談にのってくれますが、実際に子どもの言葉を育てているのは親だと思ってください。

というのは、子どもはどんなときにことばを使っているかを考えてみますと、楽しいとき、何か欲しいとき、安心しているときです。だから小さい子どもさんにとっては、ことばは勉強ではありません。勉強は学校には行ってから始まります。お母さんのことばかけ、働きかけを手本にして身につけていきます。黙って相手をしていると口数の少ない子どもになります。口で答えを返してくれなくても、聞いていて心の中に蓄えていると思ってください。

さて、コミュニケーションとはどういうものかということを最初に話したいと思います。つまりことばはどんなときに使われているか、どんな仕組みになっているかということです。

言葉の最も大きな役割はコミュニケーション、人と人がかかわっていくための手段です。しかし私たちは言葉だけで伝え合っているわけではありません。

2つの例を話します。

しばらく前に講演会でこんな質問を受けました。もうすぐ五歳になるダウン症のお子さんがおやつを用意してあげても食べない。食べなさいといっても、プイと横向く。食べたくないはずはないのに「イヤ」という。食べたいのか、食べたくないのか、どっちが本当の気持ちだろうか迷うというのです。私がどっちだと思うかと尋ね返したら、「食べたいはずだ」と言います。そのとおりです。

この例では二つのことが重要です。コミュニケーションは階層になっている、ということ。正直に気持ちを出せない、意地になっているということです。

ふつう、二人の人が顔を合わせて話しているとき、そこには三つのことが起きています。一つは言葉のやり取り、二つ目が話してる人と聴いている人の表情や視線、しぐさ、三つめが何気ない振る舞いです。それが階層をなしています。三層になっています。言葉が最も高い位置にありますが、ときどきことばと表情や振る舞いなどの表していることが食い違うことがあります。そんなとき私たちは言葉ではなく、表情や振る舞いが本当の気持ちを表していると解釈します。それは、下の階層ほど心に近いからです。

歩き始めた一歳過ぎたころの子ともが「マンマ」「ブーブー」といった時はもちろん、まだ赤ちゃんの時、ことばでない形の声を出したり、泣いたりしたとき、お母さんはそれがどういう意味かすぐ分かります。それは、「ことば以外のことにも目を向けて、どんな気持ちでことばや声を出しているか理解しようとしている」からです。気持ちを向けて、場面を考慮し、子どもの表情や振る舞いを一つ残らず捉えて、短い言葉や声の意味を豊かにくみ取ろうと努力しているからです。人間にはそういう力があります。これを「絆」といいます。

もう一つ大切なことは、家族の人やごく親しい人であれば、何もいわなくても気持ちの在りようは大体分かりませんか。機嫌がよい、悪い、愉しい、悲しい、怖い、やりたい、イヤ、びっくりした、怒ってるぞとか。何で分かるかというと言葉でない気持ちの行き交いがあるからです。だからことばを喋らないから分からないというのは、気持ちを理解しようとしていない、それだけの気力がないということの現れです。

その気力の正体は三つあります。

  • 共感:相手の気持ちが痛いほど分かるという体験がありますか。別の言葉では感情移入といいます。相手の気持ちの中に入り込むということです。
  • 信頼:初めてあった人なのに心の波長が合うと感じたことはありませんか。自分の子どもだったら合うはずです。何もしなくても通じ合うという感じです。
  • 受容:その人の成長や安らぎのために、自分を捨てすべてを包み込みたいと思ったことはありませんか。尽くす、支えるということです。

だから、そんな関係であれば、相手のいう言葉の意味が深く分かるし、ことばを喋らなくとも、表情や何気ない振る舞いで気持ちが分かるのです。言葉をいわないから何も分からないというのは、言葉に頼りすぎている、拘りすぎていることにもなります。だけどやっぱりことばを喋ってくれるのは大きな成長の証ですからそうなって欲しいものです。

コミュニケーションは階層になっている。人はことばだけで伝えあっているわけではないということです。

母親の働きかけが子どもの言葉の手本になります。しかし呼んでも振り向かない、分かってくれない、なかなか言葉が出ないとなると、ほんとに伸びてくれるのか不安になります。自分の努力に応えてくれないということは、働きかけを続けるというがんばりを弱めていきます。人間はいつもいつも元気ということはなく、気力の落ち込むときもあります。特に、お母さん方は気持ちのうえで重みを背負っているから、気力が続かないということがあります。二番目にそのことを話します。

パール・バックというアメリカの女性の小説家はある有名な本の中でこう書いています。

私がこの子の成長の重い異常を知ったときの心の奥底からのはじめての叫びは、避けることのできない悲しみを前にしたときに昔からわれわれが発する声だった。「なぜにこのことが私におこらねばならなかったのか」この問いかけへの答えはあり得なかった。どんな答えもなかった。

どの家族も最初から障害児の家族として出発するわけではありません。その意味で母親は「二重の対象喪失」を体験します。対象とは、自分の心の中の大切なものです。何を無くすかというと、ほとんどの家族は障害を持った子どもの予期せぬ出現によって、思い描いていた「健常」な子どもという対象を失います。さらに「健常」な子どもを産むことができるはずの自分という対象を失い、暗黙のうちに自明のこととして自分自身に期待していた「母親像」を失います。通常、このショックは大きな混乱を心の中にもたらし、心の傷をつくります。その回復に一定の時間が必要ですが、母親はこの「対象の喪失」を「嘆きの作業」をして浄め、そして諦めでも居直りでもない「新たな価値」を創造して回復します。

長期にわたって不安感が続く、欝の状態から抜け出せない、突然の些細なことで怒りぽくなる、慢性的な不眠がある、悪い夢を見る、慢性的に苛立っている、罪悪感を感じやすい、物忘れが多い、夫との間に距離がある、いくつ当てはまりますか。私は本来もっと元気なはずだと思う人がいたら、今でも精神的な後遺症が残っているということになります。精神を傷つけた昔を何らかの形で思い出させたり、精神的なストレスがかかると症状が再発したり悪化すると説明されています。

ドローターという人は、先天的障害を持つ子どもの両親20組を面接調査し、障害受容にいたる過程を「ショック→拒否→悲しみ・怒り・不安→適応→再起」の五段階に区分しています。親たちは、障害児の養育という家族の潜在的な機能を引出し家族機能を再構築します。しかし精神性後遺症の程度と回復は個々人によって差があります。また何か精神的なストレスがかかると逆戻りします。母親は家族の中心的な存在であり、その気持ちの在りようが周りの者にさまざまな影響を周りの者に与えます。

子どもが障害をもっているということもその一つで、まとまりのつかない非常に複雑な思いです。子どもという自分の分身の健康の喪失であるからです。そんな心の状態にあるとき、どう育ててよいか迷うことは当然です。育てることは引っ張っていくことですからエネルギーが要ります。プレッシャーを受けて何も感じないというのはむしろおかしい。時間がかかるが回復してゆく。自分がだれかに支えられている。自分がだれかを支えなければならないことが分かっていきます。自分がだれかにとって「かけがえのない存在であり、価値があり、必要とされている」ことを知ることができれば元気が出てくる。

人はだれかと一緒にいることが心を安定させ、勇気を産み出すものです。それは自分の気持ちをそそぎ込み、受け止め、それに応えてくれる対象がいることが、生きているということを実感させてくれるからです。だから人間にとって何が一番つらいかというと、そのような対象を失いこと、見捨てられることです。

子どもの成長を一緒に考えてくれる人がいる。困ったときに相談にのってくれる人のいることが回復を早めます。正直に自分の気持ちを話すことが大切です。子どもの変化を見つけること、働きかけをやめないこと、その姿勢が手本となっています。

呼んでも振り向かない、応えてくれないということを見ていると、本当に分かっているのか不安になるし、働きかけても仕方がないと思い込みやすい。働きかけをやめてしまいます。気持ちが揺らいできます。

反応しないということは必ずしも分かっていないということではありません。まだ十分に反応する準備ができていない、あるいは分かっているが反対の態度をとるということもあります。きちんと反応してくれるようにさせるためには働きかけをやめないということが大切です。人間にとって見捨てられる、無関心でいられるということが一番怖いということを忘れないでください。

自分の気持ちの揺らぎに耐えるにはどうしたらよいでしょうか。人は心の中に自分はこうありたいという理想をもっているものです。次の文章を聞いてください。

わたしを平和の使いにさせてください。
わたしがもたらしますように。
憎しみには愛を、
いさかいのあるところに赦しを、
分裂のあるところに一致を、
疑いには信じることを、
誤りには真理を、
絶望には希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを、
わたしが求めますように。

まだ続きますが、相手の反応にかかわりなく親切にしなさい、といっています。

しかしそれはなかなか難しいことです。相手の態度によっておこったり喜んだりするのが普通の人間だからです。だけど少し成長してみたいと思いませんか。自分に一つ試練を与えて見ませんか。自分の一番嫌いな人に親切にして、その時の自分の心の動きを見つめてください。

  1. 親切にする。何も反応なく無視される、あるいは反発をかう。(頭に来るががんばる。)
  2. 何か魂胆があると思われる。疑いの目で見られる。
  3. 何でこんなことをしてくるのだろうと思う。心の中に、嫌いという気持ちと親切に応えなければという相反する気持ちが生まれる。これをアンビバレント、両価性という。
  4. 少し反応して来る。
  5. そこにもう一度親切にして、とどめを打つ。

何をしているかというと、その人を一貫して支える人間のイメージをつくっている。

出会う全ての人に親切にできますか。共感と信頼と受容という気持ちを向けることができますか。子どもにとってあなたが大切な人です。子どもの中にそんな声を見つけることができますか。見つけることができれば、心が健康だという証です。

同じ病気であっても子どもさんの状態はさまざまです。お母さん方一人一人がいま抱えている事柄も違うと思います。これから対話の形に変えます。質問してください。


文献情報

講演者:西村辨作
題目:ことば・コミュニケーション~子どものことばの発達
講演年月:1996年11月(社会福祉法人 あさみどりの会(名古屋市)にて)

文献に関する問い合わせ先:
愛知県春日井市神屋町713-8
愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所治療学部
西村辨作
TEL:0568-88-0811