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30年のあゆみ

日本障害者リハビリテーション協会30年、戸山サンライズ10年

NO.3


第1部 日本障害者リハビリテーション協会の沿革


1 財団法人設立までのあゆみ

国際協会への加盟

 わが国が、まだ戦後の混乱期にあった1948(昭和23)年9月3日、日本肢体不自由児協会が任意団体として発足した。
 同会は、戦前、高木憲次(1888(明治21)年~1963(昭和38)年)が設立した財団法人整肢療護会の後身団体で、空襲により焼失した療育施設整肢療護園の再建が大きな課題となっていたが、それと並んで、一般への啓発活動、療育事業の推進も重要な目標であった。高木が唱えた「療育」という言葉は、「現代の科学を総動員して不自由な肢体を出来るだけ克服し、それによって幸にも恢(ママ)復したら『肢体の復活能力』そのものを(残存能力ではない)出来る丈(ママ)け有効に活用させ、以て自活の途の立つように育成することである。」と定義されているが、今日でいうリハビリテーションと同じ意味に理解して誤りでない。
 同会は法人化への準備を進めていくが、記録によると、1949(昭和24)年2月28日、日本工業クラブで開かれた財団法人設立準備会において、林讓治厚生大臣のあいさつに、「(前文略)アメリカにおいては、(中略)アメリカ肢体不自由児協会があり、又各州に夫々支部協会が設立されておりまして、此等協会の縦横の密接な連絡により、全州の肢体不自由児は多大の恩恵に浴しておるので……」このような協会がわが国にも設立される必要性を痛感すると述べた後、「尚又、将来国際肢体不自由者福祉協会に加入しまして、肢体不自由児救済の世界的運動と歩調を合せますことも、緊要なる事柄と信ずるのであります。」と述べており、関係者の間でこのような認識が醸成されつつあることをうかがわせる。
 もちろん、高木が大正年代から、肢体不自由児のためには「療育」がいかに必要欠くべからざるものであるかを説き、その体系化を構想し、戦時中に整肢療護園を建設したこと、また戦後は、肢体不自由児・者対策の法制化を実現させ、さらに1948(昭和24)年から足掛け4年をかけて全国巡回相談・指導を実施したことなどの実績がその背景にあったことを忘れてはならないであろう。
 同会は1949(昭和25)年2月28日財団法人の認可を受け(昭和27年5月17日、社会福祉法人組織変更認可)、財政的な基礎を固めていくことになるが、その事業の中には「諸外国における肢体不自由児関係諸機関との連絡」をうたっていた。
 当時、わが国は連合国軍の占領下にあって、GHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づく民主化に向けての社会改革が次々に進められていく時期に当たり、そのような流れの中で、肢体不自由児療育事業の伸展が図られていくのであるが、1949(昭和24)年8月、国際肢体不自由者福祉協会(The Intemational Society for the We1fare of Cripp1es、略称ISWC、現Rehabi1itation Internationa1の前身)の会長であったケスラー博士(Henry H.Kess1er,M.D.)が来日したことが、同会が初めて海外と公式に交流する契機となった。その際行われた一連の歓迎行事(高松宮邸におけるケスラー会長との歓迎懇談会において「国際協会に加入することの許可が約束された」との記録もあるので、公式文書に、この年に国際協会に加盟したと記述しているものもある)が関係者に与えた影響もあったであろう。また、連合国軍の占領政策の動向も要因になっていたであろうし、戦前からの高木憲次の療育事業に対する業績が国際的にも高く評価されていたのであろう。同年9月15日、発足して1年の日本肢体不自由児協会が、GHQのPHW(公衆衛生福祉局)を通じて国際肢体不自由者福祉協会加盟の招請状を受けたのである。


写真 歓迎懇談会の様子
 1949(昭和24)年8月23日、高松宮邸において、国際肢体不自由者福祉協会長H.K.Kessler博士の歓迎懇談会が開かれた。
左より林譲治厚生大臣(後ろ姿)、高木憲次博士、Kessler博士、高松宮殿下、同妃殿下、C.F.Sams準将

記念写真
高松宮邸での記念写真

 翌1950(昭和25)年2月20日、国際肢体不自由者福祉協会加盟許可の書簡を、PHWの局長であったサムス準将(Crawford F.Sams,Brigadier General)から受領している(日本肢体不自由児協会、「肢体不自由児の療育」創刊号、1951(昭和26)1月1日発行による)。これが本協会の起源である。後述の国際肢体不自由者福祉協会日本国委員会が発足するまでは、日本肢体不自由児協会がその業務の一端として、リハビリテーション関係の海外との連絡を行っていたわけである。
 ケスラー会長からの書簡には「……私が1949年に日本を訪れました結果、日本並(ママ)に日本肢体不自由児協会の仕事について私の関心は非常に高まりました。国際肢体不自由者福祉協会に加盟している多くの人々や団体は、現に行われつつある仕事に関心を持ち又出来るだけの援助を致し度いと思って居ります。」と記されている。
 昭和20年代においては、海外との情報交換のほか、技術援助指導を受ける窓口ともなった。例えば、1952(昭和27)年、WHO(世界保健機関)の顧問として、米国カリフォルニア州肢体不自由児局長であるマーシァ・ヘイズ女史が来日し、約3か月滞在して各地を視察し助言指導をしている。
 1953(昭和28)年の日本肢体不自由児協会の事業概況には「国際肢体不自由者福祉協会に加盟し、世界的なつながりを以て肢体不自由児愛護の事業を推進し、ユニセフその他の国際団体との連絡に当たっています。」と記され、事業計画には「東亜肢体不自由児会議の開催と東亜療育事業の推進」として「国際肢体不自由者福祉協会が四年毎に開催する世界会議の東亜部会である東亜肢体不自由児会議を可及的速やかに東京において開催し、情報交換、専門家の派遣、日本留学指導等を行い東亜諸国に於ける療育事業の進展を計ります。」とある。
 さらに、1956(昭和31)年5月25日に開かれた日本肢体不自由児協会第10回理事会において、国際肢体不自由者福祉協会世界会議を1960年日本で開くことについて審議しているが、財政上及び技術上の困難があるので、さらに検討していくことを申し合わせている。恐らく、国際会議の日本での開催について打診があったのであろうが、昭和30年代からわが国の経済成長が始まっていくとはいえ、経済的にいっても、専門家の層の薄さからいっても、まだまだ時期尚早だったということがいえよう。
 この当時、国際肢体不自由者福祉協会には世界31か国が加盟しており、わが国からは、同会の理事に1名(高木憲次)、評議員に4名(高木憲次、生悦住求馬、橋本龍伍、青木秀夫)がそれぞれ選出されていた。
 1957(昭和32)年7月22日から26日まで、英国のロンドンにおいて、国際肢体不自由者福祉協会第7回世界会議が開かれた。日本肢体不自由児協会代表として、三木威勇治(同会理事・東京大学医学部教授)、間島良二(大阪府肢体不自由児協会理事・大阪整肢学院長)の2名が出席した。国際協会の世界会議にわが国からの出席があったのは、1954(昭和29)年オランダのハーグで開かれた第6回世界会議に太宰博邦日本肢体不自由児協会理事が出席して以来2度目である。世界会議と同時に開かれた理事会、評議員会には三木氏が代理として出席している。一
 なお、同世界会議には国立身体障害者更生指導所次長稗田正虎博士が国際協会の招きにより出席、補装具委員会で講演した、と記録されている。

国際協会日本国委員会の発足

 1958(昭和33)年5月21日、国際肢体不自由者福祉協会日本国委員会(The Japanese National Comittee of the Intemationa1 Society for the Welfare of Cripples、以下、日本国委員会という)が発足した。
 これまでは日本肢体不自由児協会が国際肢体不自由者福祉協会に単独加盟していたわけであるが、同会は肢体不自由児を事業の主対象にしているため、肢体の不自由な成人のリハビリテーション事業の国際交流は十分とはいえなかった。そこで、肢体の不自由な成人及び児童のリハビリテーション事業を行う関係団体で構成する日本国委員会を組織し、その委員会が国際肢体不自由者福祉協会に加盟するという形態をとったのである。同委員会の会長には高木憲次、事務局長には小池文英整肢療護園副園長がそれぞれ就任し、事務局は引き続き日本肢体不自由児協会に置かれた。当初の構成団体は、社会福祉法人日本肢体不自由児協会、社会福祉法人恩賜財団済生会、財団法人鉄道弘済会、労働福祉事業団、社会福祉法人友愛十字会の5団体であったが、最終的には、16団体で構成された。

【国際肢体不自由者福祉協会日本国委員会設立当初役員】

 会長  高木 憲次(社会福祉法人日本肢体不自由児協会長)
 副会長 勝田 次郎(財団法人鉄道弘済会代表)
 理事  武井 群嗣(社会福祉法人恩賜財団済生会代表)
     三川 克巳(労働福祉事業団代表)
 監事  小田島健二郎(社会福祉法人友愛十字会代表)
 顧問  高田 浩運(厚生省児童局長)
     安田  巖(厚生省社会局長)
     内藤譽三郎(文部省初等中等教育局長)
     堀  秀夫(労働省基準監督局長)
     百田 正弘(労働省職業安定局長)


【国際肢体不自由者福祉協会日本国委員会構成団体(順不同)】
 社会福祉法人日本肢体不自由児童協会
 社会福祉法人恩賜財団済生会
 財団法人鉄道弘済会
 労働福祉事業団
 社会福祉法人友愛十字会
 財団法人毎日新聞社会事業団
 社会福祉法人朝日新聞厚生文化事業団
 全国肢体不自由児施設運営協議会
 全国身体障害者施設長会
 財団法人日本赤十字社
 財団法人NHK厚生文化事業団
 全国肢体不自由養護学校長会
 財団法人厚生団
 財団法人国際身体障害者スポーツ運営会
 財団法人藤楓協会社会福祉法人鶴風会

 同委員会の発足に伴って、海外におけるリハビリテーションの動向を要約した「リハビリテーションニュース」(孔版印刷、月刊、A5判、創刊号は10月15日発行)を刊行した。
 1958(昭和33)年は、わが国で初めて社会福祉分野における国際会議が開かれた年でもあった。国際児童福祉研究会議が、国際児童福祉連合、厚生省共催によって11月23日から27日まで東京の産経会館で開かれた(参加国33、参加者555名(うち、海外約200名))。25日午前の総会で高木博士の講演が予定されていたが、博士が静養中のため、三木威勇治東大教授が「肢体不自由児の必要とするもの」を代読している。


写真  リハビリテーションニュース創刊号
リハビリテーションニュース創刊号

写真  会議場で 講演している様子
国際児童福祉研究会議における三木威勇治博士

 続いて、11月30日から12月6日まで第9回国際社会事業会議が同じく東京の産経会館と産業会館を会場に開かれたが(参加国40、参加者1600名(うち、海外約700名))、その中の第13研究部会、主題「肢体不自由児者のリハビリテーション事業における専門家の協力体制」を国際協会と日本国委員会が協同運営している(議長:ドナルド・ウィルソン(D.V.Wilson)国際肢体不自由者福祉協会事務総長、副議長:小池文英日本国委員会事務局長、加藤威二厚生省社会局更生課長)。また同会議と並行して開かれた展示会には、国際肢体不自由者福祉協会と日本国委員会が隣り合わせで出展している。
 この研究部会に際し、将来的にセミナーや汎太平洋リハビリテーション会議を日本で開催することについて具体的諸条件がウィルソン事務総長と検討され、やがて1965年に開かれた汎太平洋リハビリテーション会議の開催へとつながっていくのである。
 1959(昭和34)年には、世界リハビリテーション基金及び国際肢体不自由者福祉協会の依頼により、リーダース・ダイジェスト奨学金を受ける留学生(整形外科医師)各1名の選考を行い、2年間にわたる留学生を派遣している。


写真  議長団が長机に並んでいます
第9回国際社会事業会議、第13研究部会の議長団

写真  展示会に出展が写ってます 写真  展示会に出展が写ってます
第9回国際社会事業会議と並行して開かれた展示会に出展


高木会長が国際協会副会長に
 1960(昭和35)年以降は、海外で開かれるリハビリテーション関係の国際会議への参加が顕著となってくる。同年8月28日から9月2日までの6日間、米国のニューヨーク市で開かれた国際肢体不自由者福祉協会第9回世界会議に、日本から12名が出席した。この時開催された国際協会理事会において高木憲次会長が同会の副会長に選任された。また、国際協会の名称が国際肢体不自由者リハビリテーション協会(The Intenationa1 Society for Rehabilitation of the Disab1ed、略称ISRD)に改称された。
 1961(昭和36)年9月6日~8日まで、ドイツのハイデルベルグにおいて国際協会の理事会が開かれた。本委員会からは3名が出席しているが、かねてからドナルド・ウィルソン事務総長から再三要請のあった第3回汎太平洋リハビリテーション会議を東京で開催することについて受諾する旨を述べている。また同年10月12日から7日間、スウェーデンのストックホルム市で、国際協会義肢補装具技術援助委員会ホームメーカー及びドライバー分科会が開催され、わが国から2名が出席した。
 1962(昭和37)年12月3日から5日間、フィリピンのマニラ市において第2回汎太平洋リハビリテーション会議が開催され、わが国からは27名が参加した。この会議に出席した小池文英日本国委員会事務局長は、わが国のリハビリテーション事業の発達レベルが、他のアジア諸国と比べて断然リードしていていることを、この会議を通じて実感した、と述べている。ちなみに、わが国で肢体不自由児施設の全県設置が完了したのが1961(昭和36)年であり、1963(昭和38)年には、作家の水上勉氏が「拝啓総理大臣殿」を中央公論誌上に発表して、重症心身障害児問題に社会の関心が大きく向けられてきた時期であった。1963(昭和38)年4月15日、高木憲次会長が逝去され、生悦住求馬が後任の会長に就任した。同年6月23日~29日まで、国際肢体不自由者リハビリテーション協会 第9回世界会議がデンマークのコペンハーゲンで開かれ、33名が参加したが、同会議において1965(昭和40)年東京で開く第3回汎太平洋リハビリテーション会議の仮プログラムを配布している。

2 国際リハビリテーション協会の沿革

戦前のあゆみ

 国際リハビリテーション協会(Rehabilitation International、以下、RIという)は、1922(大正11)年、米国で国際肢体不自由児協会として設立されて以来、70余年の歴史を持つ障害者問題に取り組む国際団体である。名称は、障害者の概念の変遷と共に変わり、現在の名称が採用されたのは、1972年からである。現在、世界90か国165団体及び8国際団体が加盟しており、本部はニューヨークにある。あらゆる障害を対象とした全国団体であることが加盟条件の一つであり、各国の実情に応じて民間団体あるいは公的機関または政府機関が加盟している。
 RIの目的は、障害の予防とリハビリテーションの推進、国際的及び各国の関連団体の育成の援助、各国におけるリハビリテーション・サービスの確保、障害者の権利を守る法律の制定の推進、研究調査の実施、国際的情報交換などである。また国際連合等の国際機関における障害者及びリハビリテーション関係者の代表としての役割も果たしている。
 肢体不自由児を援助することをその使命として出発したこの組織は、長い経験を通じ、その活躍の場を広げてきた。1929(昭和4)年に「第1回肢体不自由者問題世界会議」がスイスのジュネーブで開催され、そこでは、四つのトピック「発見・治療・教育・予防」が提出された。この会議の報告書は次のように述べている。
 「この四つの問題は互いに密接に関連している。発見の時期と予防は深い関係があり、教育と治療は切り離せず、予防には早期発見が欠かせず、リング状のつながりが出来上がる。肢体不自由者の問題は、社会における彼らの地位と、社会の彼らに対する態度と深いつながりを持つことも明らかになった。個々の分野に携わる専門家は、問題全体のつながりを知り、また一般社会政策概念との関係を認識し、大いに啓発されたのである。これが国際的展望である。」
 国際肢体不自由児協会が設立された当時は、障害の意味はまだ認識されず、わずかな国が、障害関係の活動を行っているに過ぎなかった。この新しい組織体の目的は、世界中に協会を組織し、その活動推進を援助し、情報提供の役割を行うことであり、国際肢体不自由児協会は隔月誌「肢体不自由児」を刊行した。
 協会の設立者及び初代会長は、米国オハイオ州のロータリークラブ会員のエドガー・アレン(Edger F.Allen)で、国際ロータリークラブは当初から密接に協会の仕事を援助してきた。Allenの業績は、国際ロータリークラブの創始者であり、1942(昭和17)年まで国際協会の代表となったポール・キング(Paul H.King)により引き継がれた。
 この間に、世界組織としての交友と団結が育まれ、協会は、ジュネーブ、ハーグ、ブタペストそしてロンドンで、世界会議を開催した。会議の参加者は、1929(昭和4)年の12か国、50人から、1939(昭和14)年の45か国、412人へと増大した。もはやその対象は子供だけに限らず、組織名は国際肢体不自由者福祉協会(The International Society for the Welfare of Cripples)へと改められた。
 第2次世界大戦中、組織の活動は縮小を余儀なくされたが、1942(昭和17)年から1948(昭和23)年まで会長を務めたメキシコのジュアン・ファリル博士(Dr.Juan Farill)や、1942年から1948(昭和23)年まで事務総長であったオハイオ州、クリーブランド・リハビリテーションセンター所長のベル・グリーブ(Miss Bell Greve)などの人々の力により継統された。

戦後のあゆみ

 戦後、1948(昭和23)年に会長となった米国のヘンリー・ケスラー(Henry H.Kessler)らは、障害に対する認識の高まりの中で、世界レベルで問題解決の道を切り開く、国際組織の必要性を見い出し、常勤の事務総長ドナルド・ウィルソン(Donald V .Wilson)を迎え、ニューヨークに小さな事務局を設置した。また、1949(昭和24)年には「インターナショナル・リハビリテーション・レビュー(International Rihabilitetion Review)」を創刊し乍。
 そのころから、組織の規模・事業内容も充実し、名も知れ渡ってきた。加盟団体数は、1964(昭和39)年までに、35から63へと増加し、一連の世界的指導者たちがこの会の会長を務めてきている。世界保健機関(WHO)、国際労働機関(ILO)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、国連児童基金(UNICEF)等々に協力し、国際連合の諮間機関としての役割も果たすようになった。1960(昭和35)年に協会は障害問題のあらゆる側面に関連して活動してきたという認識のもとに、その名称を国際障害者リハビリテーション協会(The International Society for Rehabilitation of the Disabled、わが国では、昭和45年まで国際肢体不自由者リハビリテーション協会と訳していた)へと改めた。
 世界協力を常に青みながら、協会は、1953(昭和28)年に、盲人福祉協議会など、他の国際的民間組織と提携し、世界障害者関係団体協議会(The Council of World Organizations Interested in Handicapped、以下、CWOIH)を結成した。CWOIHには、49の組織が加盟し、国連活動における障害者の当事者組織を代表してきた。
 RIはまた、ヨーロッパ協議会及び米州機構(OAS)との公式な関係を持ち、また、アフリカ統一機構(OAU)やEC委員会、相互経済協力委員会とも協力関係にある。
 1967(昭和42)年に、ノーマン・アクトン(Norman Acton)がドナルド・ウィルソン(Donald Wilson)の後を継いで事務総長に就任した。1968(昭和43)年には、略称として“Rehabilitation International”を使用することになり、1972(昭和47)年には正式名称として採用され、変革と発展への新たな時代がスタートした。
 1968(昭和43)年に、RIは障害問題についての世界的な調査を行い、少なくとも4億5千万人の人が障害を持ち、そのうちの3億人の人が、必要とする援助を受けることができないでいることが明らかにされた。より強い世界の反応を求め、RI理事会は1970年代を「リハビリテーションの10年」と宣言した。その目的は、障害者問題の大きさ及び重要性についての一般の認識を高め、問題に対処するため、より一層の努力を始めることであった。
 1969(昭和44)年、アイルランドのダブリンで開かれた第11回世界会議の際に、評議員会で「国際シンボルマーク」が採択された。このマークは従来の「障害者が社会に順応していかなければならない」という概念から、「社会を構成するすべての人々を受け入れる姿勢を持つように変わっていかなければならない」という運動の始まりを意味している。「リハビリテーションの10年」の活動など、RIの交流と影響の範囲を広げ、RIの機能が民間組織にとってのみでなく、政府、社会保険・社会保障関係機関や、他の障害に対する運動を行う組織にとっても大きな意味を持つことが明らかとなった。この傾向を反映し、1973(昭和48)年にRIは、加盟団体をこの分野に貢献するあらゆる範曉の政府、民間、私的組織を含むものへと修正した。
 この10年間に高まった関心は、さらに発展をめざすための運動の動員と促進のため、国際的指針を必要とすることとなった。それに対するRIの答えが、80年代憲章(Charter for the ’80s)である。今までにない広範な国際的協議を行い、2年かけて起草された「80年代憲章」は、問題の理解と行動への理念のため方針と優先権についての合意の声明であり、国連総会で決議された「障害者に関する世界行動計画」の基礎ともなった。
 1969(昭和44)年の「リハビリテーションの10年」の宣言と、1973(昭和48)年のRI加盟組織の拡大は、歴史の新しい局面を切り開いた。この期間の主要な業績には「80年代憲章」のための国際的協議、また障害の原因、発展途上国の障害児の状態、障害の経済、そして関連情報についての世界的分析、国際シンボルマークの創始と普及等々がある。

組織

 RIの最高議決機関は、加盟各国の代表で構成される総会で、年1回開催される。役員は、総会で選出され任期は4年である。会長、副会長、会計担当役員のほか、世界を7地域に
分け、各地域ごとに副会長、次席副会長が選出される。副会長、次席副会長のどちらかは障害を持つ当事者もしくは親でなければならない。

組織図  テキスト化は下の表 参照

AssembIy(1/year)
年次総会

(各国から分担金に応じて代表が出る)
Execufive Committee
役員会

会長 副会長 会計 事務総長
Vice Presidenf,Depufy-Vice
副会長、次席代表
Regional Committee
地域委員会
アジア
北アメリカ
南アメリカ
アフリカ
ヨーロッパ
アラブ
カリブ
Sfanding Commissions
常任委員会
医学
教育
職業
社会
ICTA
組織運営
レジャー

(委員はNational Secretaryの指名)
Sub-Committees
地域小委員会


 専門委員会は、医学、教育、社会、職業、福祉機器・住宅・交通、レジャー・レクリエーション・スポーツ、及び組織運営の七つの委員会が設置されており、各国の専門家が参加し、各分野において情報交換、共同研究、国際協力を行っている。
 日本は、日本障害者リハビリテーション協会のほか、1981(昭和56)年に身体障害者雇用促進協会(現、日本障害者雇用促進協会)がRIに加盟した。1953(昭和28)年以来、小池文英がナショナル・セクレタリーとして日本代表を務め、また評議員として活躍していたが、1983(昭和58)年から上田敏(帝京大学医学部教授)がナショナル・セクレタリーとなった。また1984(昭和59)年から1988(昭和63)年までは津山直一(日本肢体不自由児協会長)が副会長に選出され、同時に最大の地域組織であるアジア・太平洋地域委員会の委員長の重責も引き受けた。
 RIの専門委員会には、初山泰弘(国立身体障害者リハビリテーションセンター総長)、澤村誠志(兵庫県立総合リハビリテーションセンター所長)、寺山久美子(東京都立医療技術短期大学教授)、佐藤久夫(日本社会事業大学教授)、小鴨英夫(淑徳大学教授)ほか多くの方が専門委員として活躍を続けている。
 1988(昭和63)年から1992(平成3)年まで、故小島蓉子が社会委員長の重責を引き受け、調査やセミナーを実施し、また、丹羽勇がアジア・太平洋地域職業小委員会委員長(1992(平成3)年~1996(平成8)年)を引き受け、現在活躍している。


主題・副題:

30年のあゆみ
日本障害者リハビリテーション協会30年 戸山サンライズ10年

発行者:
財団法人日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
TEL 03-5273-0601 FAX 03-5273-1523

頁数:35頁~44頁

発行年月:平成6年11月30日